第66回写真展 朝焼けの街

先月の韓国出張は、タイトスケジュールだったが、出発の朝、ホテル周辺を散歩したので、その時の写真をアップしておこう。まずは、チャイナタウンの一角にある旧日本人の居留区から。ちょうど朝焼けの時間だ。うっすら明けていく空をバックに遠くの高層ビル群が茜色に染まる。坂道に人影が浮かんだ。

仁川は横浜や神戸のように港町で小高い丘もあり、旧日本人の居留区のお隣は韓国一を誇るチャイナタウンだ。ジャージャー麺発祥の地だそうで、韓国式の中華料理を味わった。前日聞いていた「自由公園」を散策することにした。韓国で一番古い洋式の近代公園だそうだ。突然、大音響で、韓国版ラジオ体操のようなものが始まった(5:45頃)。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その音に導かれ、坂道を上がっていくと、引き続きディスコやヒップホップを交えたダンスを織り交ぜた有酸素運動(エアロビ)を老若男女が楽しんでいる。他の運動具も整っていた。 

  

自由公園には、朝鮮戦争時に仁川上陸作戦(1950年9月15日)を指揮したマッカーサーの功績を称える銅像があるが、周りにローズガーデンがあり、よく手入れされていた。

 

今回の訪韓で気が付いたのだが、以前より、ずっと自由でオープンな印象を受けた。韓流大好きの母に、「死ぬまでに一度連れて行って」と、何度もせがまれたのがキッカケで、親孝行ツアーを決行したのは約2年前。今度はアジアとの繋がりを大切にしたいと思っていたので、私にとっても絶好のチャンスだった。その後、父が寝たきりになり介護が必要なので中断しているが、今のところ、ソウルを起点にした旅と釜山を起点にした親孝行の旅を2回ほど実行している。

最初の旅は、写真撮影に制限があった。DMZ(非武装中立地帯、1950年に勃発した朝鮮戦争が1953年の休戦協定により発効した軍事境界線で南北各2km、東西に走る計4kmの幅の休戦ライン)や平和展望台を見学した時には、もちろんだが、平和学習で訪れていた韓国の小学生グループの子どもたちが、持参していた携帯で北の方向に向けて写真を撮っていると、随行していた職員から注意されていた。平和な時代に生まれた子どもたちにとっては、北も南もない。大人の私にだって区別がつかない。木々の生えていない裸山が連なっていた。かつては激しい戦火を交えた地だ。

今では米の産地とのことだが、美しい水田が広がる(農耕は昼間のみ特別に許可されている)のどかな景色とは対照的だった。北緯38度線から30キロほど北に位置する鉄原(チョルウォン)から、特別な許可を得たコンボイ(護送車と共に要所を巡るバスや車の集団)で、鉄原から北へ約13キロ、第二トンネルに向かった。今では自然が戻り、刈り入れの終わった田んぼに雪が積もり、白銀の世界が続く。そこへ、見事な鶴が舞い降りるのだ。思わず息をのんだ。晴天の光り輝く純白の世界に、人知れず渡り鳥が飛来する。車を止めて写真を撮りたかったが、コンボイを止めるわけにもいかず、また、地雷が残っているので危険と説明を受けた。こういったところにも戦争の爪痕が残っているのだと、衝撃を受けた。

また、江華島や沿岸には軍が駐屯していて、鉄条網のある場所は基本的にカメラを向けることはできなかった。それに対して、釜山から、安東(アンドン)や慶州(キョンジュ)に行った時は、写真撮影の制限がなく、その平常さに安堵したのを覚えている。しかしながら、今回の出張で、沿岸を視察した時にも、全くピリピリした気配がなく、撮影制限も一切なかった。現地のエキスパートが同行しているせいかと思ったが、時代の流れと全体的な傾向のようだ。たった2年弱でこれほど変わるとは思いもよらず、平和であることは、カメラ好きにとっても大いに喜ばしいことだと実感した。例えば、仁川沖合にある霊興島(ヨンフンド)。昨年まで軍が駐屯していたが、今年から市民に一般公開されているそうだ。

霊興島は、仁川上陸作戦(1950年9月15日に国連軍が仁川へ上陸してソウルを奪還した一連の作戦)で大きな役割を果たしており、仁川港へ進入する水路を示す八尾島(パルミド)灯台がある。9月15日午前0時に点灯して上陸部隊の第一陣を誘導した灯台は今では博物館になっているそうだ。仁川港は干満の差が非常に大きく(平均6.9m)、干潮時には港の周辺は約3.2kmの干潟となってしまう。つまり、船のナビが難しい。仁川空港にアプローチする時に気付いた方もいらっしゃることだろう。

 

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発して、北の侵攻により国連軍は後退を続け、7月31日には釜山周辺まで追いつめられていた。釜山に行った時、多くの人が逃げてきた時の話をしてくれたが、キムチ瓶や家宝を背負って戦火を逃れる人々で大混乱していた。戦況を打破すべく、マッカーサーが仁川上陸作戦を発案・指揮して、ソウル近郊の仁川に奇襲上陸して北の補給路を断ったのだ。また、釜山から第8軍を進めて南北から挟撃した作戦により、国連軍は仁川を確保して、ソウルを奪回することに成功した。仁川上陸作戦から8日後、9月23日には、北に38度線以北への後退を命令し、朝鮮戦争における大きな転換となった。そのようなわけで、仁川自由公園には、マッカーサーの功績を讃える銅像が設置されている。

また、園内には韓米修交100周年記念塔もあり、1992年に韓米修好通商条約締結の100周年を記念して建てられたそうだ。平和・自由・自然・人間を象徴する帆の形をした8つの塔から成る記念塔は、末永く続く両国の友愛を祈念している。公園は今では市民の憩いの場になっており、早朝から散歩する人の姿が後を絶たなかった。

さて、空が明るくなってきたので、駆け足で仁川の旧日本人居留区に戻ることにしよう。朝焼けの街を撮影した最初の写真の角(左)の家には、日本人が住んでいたそうだ。また、1883年に開設した旧日本第一国立銀行釜山支店の仁川出張所が保存されている。(仁川広域市有形文化財)

旧第18と第58銀行も残っている。

 

そして、仁川の区役所(中区)も歴史区の中にある。

6:30に朝食の約束をしていたためホテルに大急ぎで戻ったが、有意義な朝のお散歩だった。

  

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