コンペアー&コントラスト42

ロード・ムービー第三十六夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  e. 蜃気楼とガラスの靴」

 

「アラビアのロレンス」は, T. E. ロレンス自身による回顧録「知恵の七柱」(1926年)の映画化権を取得したサム・スピーゲルによって製作された映画です。映画化自体の話しは何度も持ち上がったものの,実現するまで30年以上の歳月を経て,ロレンスの死後27年目にあたる1962年に公開されました。

 

実在の人物であるロレンスの歴史的評価は今なお定まらず,またドキュメンタリーという形態でないことからも,映画は文学的な解釈の余地を残しています。映画の冒頭におけるロレンスの葬儀シーンにおけるコメントが暗示的でもあります。

 

ロンドンの聖ポール大聖堂で,ロレンスのことを尋ねるレポーターに,砂漠の陣営でロレンスと会ったブライトン大佐は,表面的なありきたりのことを答えます。そして,司令官であったアレンビー英国陸軍大将は,

 

「なに。砂漠の反乱は,中東において重要な役割を果たしたのではないのかね。」

 

レポーター「はい。そうなんですが,ロレンス中佐のことを,お伺いしたくて……。」

 

アレンビー「いや。あまりロレンスのことは知らんのだが。」

 

アレンビーは,ロレンスのことを知らないはずはないことが,映画を最後まで観るとわかります。アレンビーの見解は,表向きには曖昧,そして,あまりかかわりたくないという,ある意味で当時のイギリスの二重(三重)外交を反映しています。この政策に翻弄されたロレンスが,映画にも示唆されていましたが,ロレンスの評価が定まらない理由の一つは,政治的に微妙な立場にあったことが挙げられます。

 

第一次世界大戦下, 1916年から1918年の約2年間,ロレンスはアラブ民族の独立に向けて,砂漠の反乱に参加しました。 イギリスは,敵対関係にあったドイツがトルコ(オスマン帝国)と同盟を結んだことに対して,トルコと対立関係にあったベドウィン(アラビア半島遊牧民)の反乱・独立を支援したからです。ちなみにスエズ運河の位置するエジプトは当時イギリス領で,ロレンスはカイロの陸軍情報部に勤務していました。

 

時を遡ること19152月に,スエズ運河がトルコ軍の攻撃を受け,10月にはフサイン=マクマホン協定 (当時のトルコ領内アラブ王国独立の約束) が成立しました。フサイン王は当時イスラム教の聖地メッカのシャリーフ(守護)で,映画に登場するファイサル王子の父にあたります。4人の息子と共に,フサイン守護が中心となって, 19166月にアラブの対トルコ反乱を始めました。

 

つまり,アラブ側から見れば,あくまでも主役はアラブ民族なのです。(ロレンス自身このことについて,「知恵の七柱」の序章に明記しています。) しかしながら,例えば,歴史的,政治的,軍事的に重要な源頼朝に対して,伝説的,文学的な素材としては,源義経の人気が今なお高いように,ロレンスは伝説的な人物であり,言わば砂漠の反乱の顔。

 

映画の冒頭で,アレンビーの次に,ロレンスのことについて尋ねられるのは,アメリカ人従軍記者ジャクソン・ベントリー。(モデルになったのは,実在の記者ローウェル・トーマス。)ロレンスを砂漠のヒーローに祀り上げたメディアを代表して,表向きは,

 

「本人と直接面識を持ち,世界に知らしめたことを光栄に思います。詩人であり,学者であり,戦士でありました。」

 

レポーターが去ると,吐き捨てるように,

 

「同時に,バーナムとベイリー(アメリカのサーカス興行師)以来,最も恥も外聞もない自己顕示欲の塊だった。」

 

そして,ロレンスのことを熱く語る参列者。このように評価や見解に極端な差のあるロレンスは,映画の題材としてチャレンジであると同時に面白いはず。次回は,この映画の監督であるデビッド・リーンについて,お話しする予定です。

 

さて最後になりましたが,ロレンスの歴史的な評価がはっきりしない理由でもあるイギリスの多重外交に触れておきましょう。19165月にサイクス=ピコ条約は,第一次対戦後のアラブ地域を英仏露の間で分割する密約でした。加えて,ユダヤ系の資本から戦争資金調達の為に,イギリスは,パレスチナでのユダヤ人による民族的郷土建設の支持を表明しました。191711月のバルフォア宣言です。

 

つまりイギリスは,フサイン=マクマホン協定(1915)で,アラブ民族の独立を約束し,サイクス=ピコ条約(1916年)で,アラブ地域を英仏露の間で分割する密約を交わし,バルフォア宣言(1917年)で,パレスチナでのユダヤ人国家建設を支持したわけです。どう考えても,辻褄が合いませんね。この第一次世界大戦中の多重外交が,今日のパレスチナ問題の原因の一つとなり,またロレンスが微妙な立場に立たされたワケでもあります。

 

皆さんも経験がありませんか。一生懸命やってきたことが,途中でルールが変ったり,隠されていた事実が浮上して,今までの努力が水の泡になった(少なくともそう感じた)こと。映画の終盤でのアレンビー英国陸軍大将とファイサル王子が,ダマスカスで会見(1918)し,ロレンスの役目は終わり,今となっては両刃の剣(両者にとって厄介者)だと同意するシーンがありますが,映画を観ながら,やりきれなさを感じました。

 

砂漠の民ベドウィンは,元来さすらいの民。西欧で使われていた国・国境というコンセプトとは,全く別の次元で生活を営んでいました。地中海から紅海,ペルシャ湾あたりだけでも,10以上の独立したアラブ諸民族が存在し,ロレンスは部族間の結束は極めて困難であり,アラブを一つにまとめることはできないことを実感します。

 

ロレンスの希求したアラブ民族の自由と独立への道のりは遠く,祖国イギリスから背を向けられたと感じ,また2年間苦楽を共にしたベドウィンとの意識の違いも同時に認識したロレンス。12時の鐘が鳴り,魔法が解けたシンデレラのごとく,不特定多数の英国軍服をまとった一人として,失意のうち砂漠を去ります。しかしながら,輝くばかりの活躍は伝説と化し,一体ロレンスとはどんな人物だったのだろうかと,今でも多くの人々の想像力を掻き立てます。シンデレラのガラスの靴がごとく,砂漠の蜃気楼にロレンスの姿を探しつつ。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト41

ロード・ムービー第三十五夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  d. 薔薇の名は」

 

今夜はロレンスの名前についてお話しますね。

 

アラビアのロレンスとして知られているトーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)は,英国陸軍としてアラビアに,1916に単独で派遣され,そこで運命を共にした砂漠の民ベドウィンから,敬意と親しみを込めて,エル・オレンスと呼ばれるようになりました。Lawrence(ロレンス)のLが落ちて,オレンスと発音された為です。

 

障害をものともせず,不可能なことに立ち向かう果敢なロレンスは,ベドウィンから一目置かれるようになります。運命を受け入れるベドウィンに対して,「運命などない」というロレンス。イスラム教を心のよりどころにするベドウィンにとって,運命はアラー()によって定められているもの。何故,ロレンスは運命に逆らうのでしょうか。

 

傍若無人なロレンスを,驚異のまなざしで見守る砂漠の民は,ある日ロレンスの出生の秘密を知ります。ロレンスは母親の姓だということを。父親は裕福なチャップマン家の出身ですが,ロレンスの母は正妻でない為,家名・地位・財産を継ぐことができないと聞き,ベドウィンは大いに憤慨して,それならエル・オレンスと呼ぼうと一致団結します。

 

そしてエル・オレンスに,ベドウィンの首長が着る白い民族衣装が贈られます。アラビアの装束をまとったロレンスの誕生です。ここで,定められた運命を受け入れるわけにいかないロレンスを,少し理解できそうな気がしました。

 

ロレンスは,イギリス軍(伝統社会)では協調性に欠け,何かと反抗的で態度が悪く,はみ出し者でした。イギリス軍服を着心地悪そうにひっかけたロレンスは,どことなく滑稽です。それとは全く対照的に,アラビアの民族衣装姿は凛々しく,颯爽と砂漠でベドウィンを先導する姿は,人々の心に深い印象を与えました。

 

アラビア遊牧民の間では部外者として,伝統(ルール)を遵守することから自由な立場にあったわけです。もちろん伝統を無視するだけでは,反感を買うだけで,協力を得ることができません。内部の者と信頼関係を築いたうえで,ヨソモノである立場(別格)が上手く作用した時に,いろいろなことが実現したのです。

 

しかしながら,ヨソモノである立場が裏目に出ると,孤立して疎外感や孤独にさいなまれます。ロレンスの立場は時として二元的であり,もしくはどっちつかずであり,ロレンス自身の内側の葛藤にも反映されているかのごとく,映画に描かれています。ロレンスにとって,心の休まる居場所はあったのでしょうか。

 

英国軍では身の置き場のないように描かれていますが,砂漠では水を得た魚のように本領を発揮します。ロレンス一行に同行した新聞記者や報道陣の紹介により,白い民族衣装をまとったエキゾチックな姿が世界中の人々を魅了し,想像力と好奇心を掻き立てました。砂漠の任務遂行から死までの17年間は,イメージの一人歩きとの戦いでした。自己陶酔と自己嫌悪。本当のロレンスとは。

 

「運命などない」と言ったロレンスも,皮肉な運命を受け入れざるをえなくなります。映画では,命がけで救出したカシムの処刑が委ねられ,また息子のように慕ってくれたファラジが事故に遭い,命を与えたものの命を奪うというギリシャ悲劇的な出来事が伏線になります。そして,この砂漠の英雄は,191711月デラア偵察中,トルコ軍より残忍な拷問を受け,全能感のようなものは消えていくのでした。

 

ファイサル王子「戦士の仕事はもうなくなった。取引は老人の仕事だ。」

 

ダマスカスにて,ロレンスの援助したファイサル王子と,アレンビー英国陸軍大将が,その後の中東について交渉する際,役目の終わったロレンスは,今となっては両者からの厄介者(両刃の剣)といった感を拭い去ることができませんでした。ロレンスは,任務の完了をアレンビーに報告し,帰国願いを出して,第一次世界大戦が終わる約一ヶ月前に砂漠を後にしました。映画はここで終わっています。

 

ジュリエット「名前に何があるっていうの。例え薔薇の花が違った名前で呼ばれても,その甘い香りは変らないわ。」(「ロミオとジュリエット」,シェイクスピア)

 

夜のバルコニーで,ジュリエットがロミオへの苦しい想いを吐露するシーンです。仇敵の家柄(キャピュレット家 vs. モンタギュー家)に育った二人。名前なぞ捨ててしまっても,あなたへの気持ちは変らない。そんな必死の想いが伝わります。二人の仲を裂く長年の家の対立関係を捨て,「名前さえなければ(うまくいくのに)」と,短絡的に考えるジュリエットは初々しく愛おしい。

 

実際のところ,名前の効用というものは大変パワフルなもので,ロミオとジュリエットという名は,何百年もたった今日でも,永遠の若さ・愛の誓いを象徴していますね。「アラビアのロレンス」は,アラビアゆえのロレンス。そして,薔薇は薔薇という名ゆえに,その名を聞くと甘美な薫りが鼻をかすめます。

 

映画「アラビアのロレンス」の復元できずに失われたシーンのうち,友人がいないというロレンスを,アレンビー英国陸軍大将が誘うシーンがあったそうです。

 

アレンビー「戦争が終わったら,我が家に薔薇の花を見に来ないかね。」

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト40

ロード・ムービー第三十四夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

Ⅳ. 「アラビアのロレンス」(1962)  c. 光と影」

 

アラビアのロレンスとは何者なのか。

 

あまりにも広い質問ですね。さて,どこから始めましょうか。映画はロレンスの死(1935)から始まり,「アラビアのロレンス」と呼ばれるようになった第一次戦争下の中東に遡ります。ロレンスが英国陸軍よりアラビアに単独で派遣された約2年間(191618年)の光(映画の前半)と影(後半)に焦点が当てられています。

 

ロレンスは実在の人物ですが,帝国主義的世界観が横行する中,時の列強による世界分割が進み,利害関係の対立が顕著になってきた中東での活動と実績が,「アラビアのロレンス」という呼び名をもたらしたわけです。

 

早くから植民地を獲得してきたイギリス,そしてフランスに対し,後に参入したドイツなどが再分割を求めていました。アラビア半島に力の及ぶトルコ(オスマン帝国)と同盟を結んだドイツに対して,トルコと対立関係にあったベドウィン(アラビア遊牧民)の独立と反乱を支援したのがイギリスでした。そのアラブ人の反乱工作を援助・率先したのがロレンスです。

 

映画の前半では,若き日のロレンスの反骨精神と無謀さが,不可能と言われてきたことを次々と実現させますが,後半ではその無謀さが災いに転じます。歴史の視点によって,ロレンスの評価が変るであろうことが,映画からでも窺えます。

 

ロレンスの英雄的な栄光・功績のみならず,中東問題介入の難しさ,(特にトルコ側から見れば)テロ,ゲリラ的手法への懐疑・批判,国際関係・外交上における微妙な立場と,手放しで賞賛しにくいところがあります。戦争というものは,例えどのような理由があっても,矛盾を孕んでいるものだと感じます。

 

歴史の評価はさておき,ロレンスは興味深い題材であることに違いありませんし,映画として高く評価されている作品です。

 

次回はロレンスの名前について,少しお話しする予定です。気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

第4回写真展 2005びわ湖大花火大会

残暑お見舞い申しあげます。皆さんいかがおすごしでしょうか。

 

35万人の観客と共に,湖上に打ち上げられた色とりどりの花火に喚声をあげてきました。暗闇に咲く真夏の花。大輪の花が開く度に地響きがしました。花のみならず,夜空に魚,鳥,蝶が舞い,斜め打ちなどで立体感が出た為か,地上にいながら空中で見ているようです。

 

フィナーレは圧倒的な花火の連発。総数10000発のうち,最後の3分間に約3000の花火が打ち上げられ,クライマックスに。至近距離から見る花火に目が眩み,反響が体中に響き渡り,火薬の匂いが漂う中,高まる胸が破裂しそうになりました。

 

そして35万人が一斉に帰るところを想像してください。浴衣姿のカップルも,子連れの家族も,おばあちゃんも,おじいちゃんも,仲良しグループも,もみくちゃになりながら帰途に着きました。帰りの電車待ちは,テーマパークの人気アトラクション並みの長蛇の列。それでも夏は花火ですね。親友のおかげで見ることができました。

 

海外在住の友人に身近な日本の四季をお届けしたくて,不定期的に写真展を開催しています。今回で第4回目。今迄説明を付けませんでしたが,今回から簡単なご挨拶をさせてもらいますね。写真は2週間位掲載します。

 

今までの写真展を振り返っておきます。

 

2005年4月 桜便り

2005年5月 フラワーフェスタと蝶々

2005年6月 海辺の薔薇

 

それでは,皆様お元気で!

コンペアー&コントラスト39

ロード・ムービー第三十三夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962) b. 終わりは始まり」

 

まずは,MSNスペースの「エディターのお勧め」や「人気スペース」などで,「映画千夜一夜」が紹介されていると聞き,驚きと共に,ここを訪れてくださった皆さんに感謝致します。ようこそおいでくださいました。そして,ご訪問ありがとうございます!!!

 

それから映画は観ていても,観ていなくてもOKです。映画を楽しむヒント,役に立ちそうな視点,私にとって面白かったことや発見,そして自分の体験と重ねた感想などを,マイペースで書いていますので,マイペースで読んでいただければ幸いです。それでは,ゆっくり遊んでいってくださいね。

 

「アラビアのロレンス」の旅を続けましょう。この映画には,オートバイが象徴的・印象的に用いられています。冒頭のシーン,中間部(インターミッションの直前),そしてエンディングの三箇所に登場します。

 

まずは,この映画の構成を,少し見てみることにしましょう。最初のシーンは,淡々とオートバイを整備する主人公TE・ロレンス。後の砂漠のアクションや激しさとコントラストをなす,昼前の静かなイギリスの田舎町の平凡さ。オートバイ(機械)・光と影・緑。田舎道を走るロレンスのオートバイが,自転車を避けようとして道路から転落し,大がかりな葬儀のシーンに移ります。

 

時は19355月。享年46歳。銅像と化したロレンスを回顧する参列者の間に,賛否両論が飛び交います。冒頭からエンディング(ヒーローの死)で始まったものの,ロレンスがどのような人生を歩んだのかわかりません。そうそう,本の最後を盗み読みしたような感じです。何故「アラビアのロレンス」と呼ばれるようになったのでしょうか。ロレンスとは,一体誰なのでしょうか。映画は1916年に遡ります。

 

そして,インターミッションの直前(映画の中盤)に,再度オートバイが登場します。砂漠を命がけで横断し,スエズ運河にやっとの思いで到達したロレンス。風化した廃屋で,砂漠を横切る船の煙突と,水をなみなみと湛えた運河に気付いた時の安堵感を,映画の登場人物のみならず,映画を鑑賞する人も共有したことだと思います。

 

スエズ運河の対岸の土手を走るオートバイから,ロレンスは「おまえは誰だ」と訊ねられます。これは,この映画を貫くテーマを再認識する重要なシーンで,デビッド・リーン監督自身が声の出演をしています。

 

2年後(1918年)に,砂漠を去るロレンスの姿がありました。映画のエンディングでもあります。イギリスに戻る軍人達の中に混じり,砂漠の中のまっすぐな道を進みます。イギリス人としての希薄なアイデンティティー。そしてベドウィンにもなりきれないロレンス。自分とは一体誰なのか。答えはなく,疑問が一層深まるだけでした。

 

映画の始まりは,実は結末()であり,死の19年前から2年間の出来事(ロレンスの生き様)に,映画の焦点が当てられています。起承転結で言えば,オートバイは起と結の部分をつなぎ,承と転のほぼ中間に登場し,映画の枠組みのような役割を担っていると思います。

 

車に揺られつつロレンスは,擦れ違った砂漠の民の中に懐かしい顔を探しますが,顔見知りはいません。砂埃を舞い上げるオートバイが,ロレンスを乗せた車を追い抜き,砂漠の彼方に走り去っていきました。

 

この映画のテーマである「ロレンスは何者なのか」といったことや,時代背景,オートバイの象徴性などについて,次回から見てみることにしましょう。気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。