コンペアー&コントラスト20

(今日はインターミッションです)

 

帚木蓬生。「えっ」と、何度も聞き返す。

 

20年以上日本から離れていた私にとって、聞き慣れない名前だった。20年間のブランクを埋めるように、日本文学を読み漁ってみる。……おもしろい。旱魃の後に雨を浴びるように読んだ。

 

長年住み慣れたヒューストンには、世界的にも有数な医療研究施設(メディカル・センター)があるが、そこへ留学している日本人の医師、医学研究者から、本を貸してもらったり、面白そうな本の情報交換をするようになった。「賞の柩」は、その一冊だった。

 

作者を直接知っている人から、薦められて読んだ本は数少ない。5年ほど前に、大江健三郎氏とは、プライベートな集まりで、お目にかかることがあったが、緊張してしまい、お話するチャンスを台無しにしてしまったことがある。大江氏のオーラに触れられただけで、よしとしよう。一期一会にせよ、ヒューストンで帚木蓬生氏を師と仰ぐ人に出会えた。間接的に、帚木蓬生氏のオーラに触れることが出来た。

 

帚木蓬生氏は、「すごい方」だと聞く。誰もついていけないほど知識が豊富で、なおかつ謙虚で勤勉だそうだ。天才レベルの人々と、仕事を共にしてきた私は、才能と人格の両立は難しいことを、目の当たりにしてきた。才能はあっても、人格という天賦の才を兼ね持つ人は稀有だ。話を聞くうちに、「すごい方」というのは、過言ではないと感じた。

 

経歴を見ると、東大仏文学科卒、テレビ局(TBS)勤務の後、九大医学部を卒業し、神経精神科学教室に入局。マルセーユ大、パリ大で研究後、「精神分裂病の言語新作」で、医学博士になる。精神科医として、八幡厚生病院(副院長)に勤務。文学、ビジネス、医学、そして、心の病に苦しむ人々を癒す職業を選んだ帚木蓬生氏。何よりも、広分野の経験があるというのには、共感を覚える。芸術の分野において、Multi-disciplined、cross-disciplinedであることは、プラスであると感じる。

 

帚木蓬生氏に、「小説を書く原動力は何か」と尋ねたところ、「社会への怒りだ」と返ってきたそうだ。これは、「賞の柩」を読んでも感じた。世の中には、どうしようもないことが沢山ある。人々の苦しみ、悲しみ、辛さ、葛藤を、癒す職業をしている帚木蓬生氏は、どれ程の世の中の矛盾や、理不尽を抱え込んでいるのだろうか。考えただけで、気が遠くなる。 

 

これは、ポエティック・ジャスティス(詩的正義)だ。どうしようもないことを、芸術(小説)という創造力でトランスフォーメーションした結果生まれた作品なのだ。クリエイティブ・ソリューション(創造的な解決)に興味のある私は、小説という結果のみならず、この小説の生まれたプロセスにも興味がある。 

 

帚木蓬生氏は、早朝に小説を書くそうだ。しかも毎朝書くらしい。最初は少しづつ、そして、段々長く書けるようになったという。私が英文を書き始めた頃、決められた時間に、続けて書くことが一番だと、アドバイスされたことを思い出す。これだけは、やるっきゃない。ショートカットはないのだ。

 

「賞の柩」には、全部で28章ある。一章毎に、コンスタンスなリズムが流れ、まとまりがよい。それぞれの章で、登場人物、舞台、視点が変わり、複眼的なアプローチが交差し、統合されていくストーリーの展開は、意識の辺境から、中枢に結集していくようなスリルがある。パズルを外側から始め、繋がりを持ち始め、最終的に問題の核心に触れる達成感を味わう。

 

ノーベル賞、延いては、「賞」に内在する矛盾、それをめぐる人々の興亡の物語だ。(賞が良いとか、悪いというレベルの話ではない。)恩師の不運な死の謎を解くにつれ、複雑な人間関係が浮上し、日本、フランス、ノルウェー、ハンガリー、スペイン、イギリスを舞台に、物語が展開する。状況描写と、風景描写は写実的で、読むのが楽しい箇所が沢山あった。

 

複雑な親子関係、師弟関係、医師と患者、夫婦関係、不倫の関係。貧困、欲、喪失体験、アルコール依存症、死、愛。人間描写は、さすがは精神科医だ。怒りが原動力とはいえ、生み出された作品は優しい視線で包まれている。絶望の中に、希望を見つける才能こそ、芸術家の最高の名誉に値する。

 

主人公が、恩師の思い出を語る。

 

「……留学先で最新のものを学ぼうとしても、そんなものは時が経つにつれて色褪せる。それよりも古いものを学んだ方がいい、深い所にある、物の考えを学ぶべきだ、と言われたことです。そのときはピンときませんでしたが、今なら理解できます。もっともこれはぼくが出来の悪い弟子だったからで、別の優秀な弟子には最先端のことを貪欲に吸収せよと言われたのかも知れません。」

 

バランスのとれた複眼的視点が伺える。この小説を読みつつ、ヒューストンのメディカル・センターへの留学生のご苦労が偲ばれた。先端分野の研究という前人未踏の地に、足を踏み入れた者の孤独、熾烈な競争、人間関係の複雑さ。異国の地で出会った日本人の厳しい世界の一端に、触れることができた。

 

不当な仕打ちを受け、アルコール依存症になった青年を、心より気遣う老医師の言葉。

 

「半年先のことは考えなくていい。今日一日を確実に、無事に終えていけば、それが一年になり、二年になる……」

 

帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)。誰かが、「源氏物語だよ」と言う。そうだ。どこかで聞いた、なつかしい名前だと思った。先月、滋賀の石山寺を、親友に案内してもらった。「源氏物語」が、そこでしたためられたことを知った。琵琶湖が、瀬田川になり、冷たい風が吹く中、山の中腹の寺には、早春の陽の光が降り注いでいた。梅の香が漂い、彼岸桜がほころび始めていた。紫式部が身近に感じられた。

 

まずは、源氏物語(全54帖)の始まりである「第一帖、桐壺」を、見てみよう。光源氏誕生から十二歳迄。早くから学問と芸術に秀でる。光源氏の母(桐壺)更衣は、桐壺帝より愛されたが故、弘徽殿女御の嫉妬とイジメの対象となり、その心痛より夭折。やがて、母に生き写しの藤壺宮が入内し、帝から寵愛を受ける。光源氏は元服し、葵上と愛のない結婚をした。やがて、母の面影のある藤壺を、慕うようになる。

 

「帚木」は、源氏物語、第二帖の巻名だ。光源氏17歳。五月雨。物忌みで、ひきこもり中の光源氏を訪れた、親友の頭中将。二人の宿直を含めて、四人の会話が始まる。若い男の話題は、もちろん女だ。

 

帚木は、「ほうきぐさ」の別名でもあり、夏の季語だ。また、音より「母」にかけて使われる。そして、信濃の国の伝説の木でもある。源氏物語の第二帖に、「帚木の心を知らで園原の道にあやなくまどひぬるかな」という歌がある。辞書を引くと、「遠くから見ればほうきを立てたように見え、近寄ると見えなくなるという伝説の木。情があるように見えて実のない人、また会えそうで会えないことなどにたとえる。」

 

「蓬生」(よもぎ)は、源氏物語、第十五帖。光源氏28歳。この帖は、第六帖「末摘花」(源氏18歳)の後日談だ。夕顔と死別した光源氏は、孤独な末摘花の噂を聞き、寂しさを埋めるがごとく興味を持った。琴の名手ということ以外、容貌もわからないまま、一夜を過ごした。その後、忙しくなった光源氏は、美人でもない末摘花のことを忘れてしまった。

 

第六帖から10年後の第十五帖は、光源氏からの音沙汰も無く、経済的な支えもない末摘花の屋敷は、荒れ放題になり、まるで蓬の宿。読書、詩歌、絵画で、単調な生活を慰める末摘花。叔母から、娘の召使にという誘いを断った為、気位が高過ぎると皮肉られた。孤独な生活が続いた。

 

名前にもドラマがあるものだ。「帚木」は、見た目では判断できないものが、この世には多いということ、そして、「蓬生」は、世の中の理不尽、不幸な事情が重なった者の声なき声を、忘れないでおこうといった心が感じられる。精神科医という仕事は、人々のストレスをため込む大変な仕事だと思う。しかも、医者や、学者は、全ての答えを知っていると勘違いされがちだ。

 

「賞の柩」で、パリに留学していた恩師の娘が、ラジオのスイッチを入れる。番組は、ノーベル賞文学賞受賞者、フランスの女流作家のインタビューという設定だ。介護した父の死を語る。娘は父の死と、思い出を重ねる。

 

「……若さというのは、生の方ばかりみているものです……でもとにかく、最期を看取りました。不思議なことに悲しみはありませんでした。なんと幸せな人だろうと思いました。はたから見れば、妻と死別したあと放蕩し、定職にもつかず財産を一代で使い果たした男かも知れませんが、私には、豊かに燃焼し尽くした人生にみえました。この思いは今も変わりません」

 

そして、彼女が最も魅かれる文学作品は、

 

「ゲンジ・モノガタリです。私はムラサキの名を思うとき、いつでも畏敬と啓示を感じます。主人公の性格の精密さと、彼とかかわりを持つ女たちの多様さが交叉し、驚くべき豊かな世界を創り上げています。」

 

「賞の柩」を通して、文字通り世界を旅することができた。メタファーのレベルでも、豊かな世界がそこにあった。

コンペアー&コントラスト19

ロード・ムービー第十四夜。「1959年: その7 北北西に進路を取れ: 

Ⅲ.  ヒッチコック (a) 映画とTV」

 

13日の金曜日(1899年)に生まれたアルフレッド・ヒッチコック監督が、恐怖をテーマにしたことは、暗示的でもあります。

 

テレビが映画と対立関係にあると思われ、多くの映画監督が、テレビに警戒心を抱いていた時代に、ヒッチコック監督は、積極的に新しいメディアに参入しました。TV番組「ヒッチコック劇場」(1955年-1962年)で人気を博し、スリラー映画の古典「サイコ」(1960年)では、テレビの撮影隊を用い、TVの制約/制限から学んだ、効率の良い製作スタイルを導入しています。TVと映画の相乗効果を、達成したと言えるでしょう。

 

近年では、逆のケースが思い浮かびます。ジェリー・ブラックハイマー(プロデューサー)が、映画の特撮/撮影隊を率いた「CSI: 科学捜査班」。TVには絶対出ないと言っていた、舞台俳優ウィリアム・ピーターセン (主人公) の演技に味があり、脇役を含む登場人物の性格描写が面白く、映画スタイルの撮影が素晴らしい。

 

アメリカの視聴率トップ(ドラマ)の座を、「ER」から奪ったテレビ番組です。オリジナルはラスベガスが舞台ですが、スピンオフは、マイアミ、海軍(NCIS)、そして、ニューヨークと、ロード・ツアーを楽しんでいるといった感じです。

 

ヒッチコック監督の「サイコ」は、テレビの撮影隊を使い、低予算で作製されたとはいえ、重要なシーンには、惜しみなく労力を費やしたそうです。有名なシャワー・シーンは、撮影に一週間を要し、45秒のシーンの為に、70のカメラ・アングルが用いられました。CSIでも、この種のこだわりが見られます。

 

「サイコ」がモノクロなのは、ショッキングなシーンの衝撃を和らげる為だそうです。ビリー・ワイルダー監督の「お熱いのが好き」(1959年)も、モノクロでした(ブログ 3/5参照)。こちらは、主人公(男性)が、女装して逃走するという設定でした。女装の衝撃を、緩和する為のモノクロだったそうです。「サイコ」の服装倒錯も、記憶にある方がいらっしゃることでしょう。

 

そして、「サイコ」は、一種のロード・ムービーです。フェニックス(アリゾナ州)の不動産事務所に勤める、主人公マリオン(ジャネット・リー)。別れた妻への慰謝料を払うことで精一杯の恋人。カレシは経済的に余裕がなく、結婚できないと苛立つマリオン。お金さえあれば……。マリオンは金曜日に、顧客の金を横領して、カリフォルニアの恋人の元に急ぎます。途中、立ち寄ったベイツ・モーテルで……。犯罪ロード・ムービーですね。

 

低予算(約80万ドル)で作製された「サイコ」は、初公開だけで、作製費の約19倍もの収益を上げ、大ヒットを記録しました。観客の期待を裏切り続けるストーリー展開、現代のサスペンス・スリラーの原点が、ここに凝縮されています。

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その7。北野の風見鶏の館(旧トーマス邸、国指定重要文化財)。神戸の異人館といえば、風見鶏がよくシンボルに使われていますね。イギリス式の木造に対して、こちらはドイツ式のレンガ造りです。

 

ドイツ人のトーマス氏の為に、1909年に建てられましたが、その後、中華同文学校の学生寮だった時期もあったそうです。ガルベストン(テキサス州の港町)にも、ビクトリア様式の大邸宅が残っているのですが、なんとなく似ていて面白いのです。いくつかの建物が、医大の学生寮になっていました。

 

通りかかる度に、歴史的な建物に住んでみるのは、どんな感じかなと、想像してみたものです。モノクロの「サイコ」へのオマージュとして、スケッチしてみましたが、これだと、誰も住んでみたいと思わないでしょうか。それとも、住んでみたいですか?……ようこそ、ベイツ・モーテルへ。

 

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コンペアー&コントラスト18

ロード・ムービー第十三夜。「1959年: その6 北北西に進路を取れ: 

Ⅱ. 映画」

 

「北北西に進路を取れ」(1959年)は、アルフレッド・ヒッチコック監督の代表的な作品の一本です。ニューヨークの広告マンである主人公(ケーリー・グラント)は、人違いで誘拐され、酒を無理強いされ、酩酊状態で、車のチェイスに巻き込まれます。警察に止められたものの無実を証明できません。誘拐事件の鍵を握る人物が、翌日、目前で殺害され殺人容疑者に。

 

警察と、追っ手から身を隠しつつ、主人公に残された道は、真相究明するのみ。映画「スティング」(1973年、舞台は1930年代のギャングの街シカゴ)にも登場するセンチュリー・リミティッド(列車)で、一路シカゴへ。車中、金髪の美女(エバ・マリー・セイント)に、危ない所を助けてもらったうえ、誘惑されます。もちろん彼女もワケあり。

 

指定された場所、プレーリー(インディアナ州)に、乗り合いバスで向かったものの、畑の中に道があるだけ。そこで、飛行機にチェイスされ、危機一髪で、飛行機はタンク・ローリー車に激突。アクションあり、サスペンス有り、大爆破有りと、有名なシーンです。シカゴに戻ると、今度は美術品オークションで、一悶着があり、一難去ってまた一難。

 

クライマックスは、ラッシュモア山(サウス・ダコタ州)で。ラッシュモア山は、4人の大統領(ワシントン、ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、リンカーン)の顔が、岩肌に彫られている国定史跡です。スー族(アメリカ先住民)の崇めるブラックヒルズの一角に位置し、顔の大きさ(高さ)は約18m。彫刻家ボーグラム氏が、1927年に着手しましたが、作業は難航し、完成間近に亡くなりました。着工より14年後、父の遺志を継いだ息子によって完成しました。

 

ラッシュモア山作製の時代背景は、車(モデルT、1908年~)が普及し、1925年の法律(Federal Aid Highway Act of 1925)以降、国道システムも発展し、アメリカが車社会に移行していった時期でした。幌馬車が列車に、列車が車に。ラッシュモア山は、東海岸から遠く、辺鄙なところにあるのですが、多くの人が、車で見学に来たそうです。ちなみに、イリノイ州と、カリフォルニア州を結ぶ「ルート66」(全長4000キロ)も、1926年に建設されました。

 

アレハンドロ・アメナバール監督の「アザーズ」(2001年)は、ヒッチコック監督へのオマージュだと言われていますが、「アザーズ」を、一緒に観た妹との会話。

 

妹「よく出来た映画だけど、一体何が言いたいわけ?」

 

私「う~~~ん。確かに、映画に人生の意味を期待すると、辛いものがあるね。サスペンスという点では、大変よく出来ているし、ただ楽しめばいいのかも。」

 

妹「……。」

 

ヒッチコック監督は、映画のテーマや、意味について語ることを好まず、技術的な試みを楽しんだと言われています。コンペアー&コントラスト11(ブログ 2/24)で、ヌーベルヴァーグに触れましたが、ヒッチコック監督は、ゴダール監督にも、トリュフォー監督にも、注目されました。

 

フィルム・ノアールは、ドイツ表現主義に影響を受けたと、お話ししましたが、ヒッチコック監督も然り。常套的でないカメラ・アングル、誇張された影、見慣れたものの並べ替え、意表を突く表現等に、その影響が見られます。

 

その後、親友と話している時に、「アザーズ」が再浮上しました。彼女は、私の映画の友です。一緒に映画に行った、楽しい思い出が沢山あります。文学的な視点や、文化的な視点から語ることが出来るので、ありがたいです。

 

親友「ねぇ、『アザーズ』は基本的に、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』じゃない?」

 

私「う~~~ん。」

 

なんと鋭い!!!これだから、好きなんですよ~、彼女と話すのは。新しい視点から、映画を観ることができるヒント。とってもありがたいです。言われて、やっと気付きました。そうです。恐怖、不安、苦悩を含む内面の世界を描いたヘンリー・ジェイムズこそが、無意識的、意識的にせよ、「アザーズ」の根底にあると思います。これは、ヒッチコック監督や、アメナバール監督の作品を理解する上で、重要な鍵だと思います。

 

アレハンドロ・アメナバール監督は、「アザーズ」の脚本も書いていますが、「オープン・ユア・アイズ」(1997年)でも、「もしかして」という恐怖の予感(アンテシペイション)に、主眼が置かれていました。何が現実で、何が夢想か。事件が起きたのか、起きなかったのか。明瞭な答えは、ありません。見る人の解釈に委ねられています。そして、「ねじの回転」のように、登場人物の意識を、覗いていることに気付きます。(ゾクゾクしてきました。めちゃ面白い!)

 

アンテシペイションというのは、大変パワフルなようです。例えば、1976年にノーベル経済学賞を受賞した、ミルトン・フリードマン(シカゴ学派、マネタリスト)の「恒常所得仮説」は、まさにアンテシペイションに基づいた仮説(消費者関数)なのです。(消費は現在の所得の関数ではなく、未来に続き恒常的であると期待される恒常所得の関数。)近年では、報酬への動機付けも、報酬自体ではなく、アンテシペイションに起因するという研究があるそうです。

 

恐怖は、恐怖自体ではなく、「もしかして」、「もしかしたら」という予感のようなものに、恐怖が潜む。ヒッチコック監督の映画は、バイオレンスに頼らず、この「もしかして」、「もしかしたら」を、最大限に活用していると思います。

 

ヘンリー・ジェイムズ(1843年-1916年)は、アメリカ文学に重要な役割を果たしましたが、比較文化的なエレメントと、意識の世界の描写は、興味深いと思います。アメリカで生まれたヘンリー・ジェイムズは、12歳の頃、家族と共に、三年間ヨーロッパ(ジュネーブ、ロンドン、パリ)に住み、ヨーロッパの影響を強く受け、最終的に、イギリスに帰化します。ヨーロッパのアメリカ人。「デイジー・ミラー」は、アメリカの無作法(「醜いアメリカ人」)、そしてイノセンスの象徴であるデイジーと、伝統社会(冷淡で閉ざされた上流階級)のヨーロッパとの衝突を描いた作品です。

 

スペイン人の母、チリ人の父を持つアメナバール監督は、1972年チリ生まれですが、クーデターで、ピノチェト政権が成立した為、スペインに移り住みました。ヒッチコック監督は、イギリスで成功し、ハリウッド(MGM)に招かれ、最終的には、アメリカに帰化します。異文化で混ざり合う(異質なものを受け入れる)ことによって、新しいものを生み出した監督さんという、共通点があります。

 

もう一人、ヒッチコック監督的な可能性を秘めていると思うのは、M. ナイト・シャマラン監督(「シックス・センス」、1999年)です。(インドと、アメリカ文化の融合。)シャマラン監督も、アメナバール監督も、ヒッチコック監督のように、自分の映画にカメオ出演しています。(「シックス・センス」では医師、「アザーズ」では、死者の写真アルバムの中に。これは、ブラック・ユーモアですね。)

 

ヒッチコック監督は、ハリウッドでの最初の作品、「レベッカ」(1940年)で、アカデミー賞作品賞を受賞しました。MGMは、「タイタニック」の作製を希望していたそうですが、大きな船がないということで、取り止めになったそうです。(タイタニックに関しては、ブログ 3/10参照)

 

「北北西に進路を取れ」(1959年)も、難破船の映画が難行し、苦肉の策で、他のアイデアを提案した結果、生まれた作品とのこと。船がダメなら、列車でといった感じです。アクションがあり、舞台(国連、ラッシュモア山)が変化するというアイデアを基に、アーネスト・リーマン氏が、肉付けした脚本が用意されました。

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その6。イギリス人建築家ハンセル氏邸。現在残っている北野の異人館(約20数棟)の多くは、ハンセル氏(イギリス)と、ランデ氏(ドイツ)によって建てられました。ハンセル氏は、1888年に来日しました。

 

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コンペアー&コントラスト17

ロード・ムービー第十二夜。「1959年: その5 北北西に進路を取れ: 

Ⅰ. イントロ」

 

「北北西に進路を取れ」(1959年)のロード・マップは、

 

Ⅰ. イントロ

Ⅱ. 映画

Ⅲ.  ヒッチコック

Ⅳ. 出演俳優

Ⅴ. まとめ&今後の進路

 

今夜は、イントロです。「北北西に進路を取れ」は、ヒッチコック監督の作品で、巻き込まれ型ロード・ムービーの古典的作品と言われています。

 

ヒッチコック監督の作品と言えば、子供の頃、テレビで見た「泥棒成金」(1955年)のスリルと華麗さ、「めまい」(1958年)、「サイコ」(1960年)、「鳥」(1963年)の恐怖とパニック。そして中学生の頃に、劇場のリバイバルで観た「裏窓」(1954年)のサスペンスとスリラー。質の高い娯楽作品といった感があります。(「裏窓」は、素晴らしい!)

 

魅力的な登場人物(グレイス・ケリー、イングリッド・バーグマン、キム・ノバック、ジミー・スチュワート、グレゴリー・ペック、ケイリー・グラント等)、名脇役、細工の効いた演出、視覚的な創意工夫、繰り返し登場するモチーフ、ユーモアのセンス等、ヒッチコック監督ならではの世界を織り成しています。作品の共通項は恐怖。(このことについては、「Ⅱ. 映画」と、「Ⅲ.  ヒッチコック」で、触れる予定です。)

 

「北北西に進路を取れ」は、主人公(ケイリー・グラント)が、人違いで殺人事件に巻き込まれ、真相究明の為に、アメリカ大陸を3200キロ旅する羽目に。ニューヨークに始まり、シカゴで一悶着、ラッシュモア山(サウス・ダコタ)に辿り着きます。交通手段は、車、列車、バス。飛行機や、タンク・ローリー車も登場。わけありの美女も、旅の道連れとして登場します。この作品は、間違いなくロード・ムービーと言えるでしょう。

 

次回は、作品について、もう少し詳しくお話ししますね。

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その5。イギリス人であるヒッチコック監督を讃え、北野の英国館です。

 

神戸港が開港されたのは、1867年(慶応3年)。安政5年の日米修好通商条約より、9年後のことでした。開港と同時に、外国人居留地区(現市役所のあたり)の開発が始まり、初代兵庫県知事、伊東博文と、イギリス人技師が、設計図の作成に執りかかりました。その後約20年、眺めの良い山手に、住居が建ち始めました。

 

最後になりましたが、福岡沖玄海地震の影響があった地域の皆様、心よりお見舞い申し上げます。復旧作業が、順調に行われますよう。

 

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コンペアー&コントラスト16

ロード・ムービー第十一夜。今日はインターミッション(幕間)ということにして、ロード・ムービー雑談にしますね。

 

ロード・ムービーをテーマに書き始めると、頭の中に流れてくる曲があります。レイ・チャールズの「ヒット・ザ・ロード・ジャック」。ロードに出よう、出かけようという慣用句hit the road。「行こうか」と言った感じで、“Let’s hit the road”が、よく使われます。今日のテーマは、hit the road。

 

日曜(3/13)の夜、The Most(ジャズ・カルテット)のライブに行って来ました。The Mostを率いるのは、同級生の多田誠司君(アルト/ソプラノ サックス、フルート)。同級生の演奏ということで、一度は聴きたいと思っていたのですが、やっと実現しました。素人目にも、全身全霊を込めた演奏だということが、わかり、感慨深かったです。

 

中学の同窓会の打ち合わせを兼ねて、ライブで集まるということでしたが、前売り券は売り切れ。立ち見の当日券で、入れてくれるというので、助かったと思いつつ、行ってきました。そこで、同窓生と話していると、ブログを書いているというのです。しかも、生徒さんにも、ブログを書くよう勧めているそうです。

 

続けて書くことが、書くことの唯一の上達法だと、私も子供達に教えてきました。そう言った手前、続けて書こうと思いつつ、言うは易し行う難し。なかなか難しいですね。その点ブログは、フィードバックがあるので、楽しいです。また、いろいろな可能性を秘めていると思います。楽しみながら学べる一つのツールだと思います。

 

同級生、垂水浩幸君のブログを、拝見させてもらいました。日曜のブログのタイトルは、「石を投げればブロガーに当たる?」ははは。さすがに、素早いぞ!「例えばこれは同級生のものらしい」と、リンクまで張ってくれています。はい。そうです。これだから、ブログは面白い!(垂水君、リンクありがとうございました。)

 

自己紹介が遅れましたが、木村眞理子と申します。グラフィック・デザイナーです。大半の活動の場所は、アメリカでした。名前の公表についての見解は、本日のブログの最下部に付随しておきます。

 

まりは、子供の頃からのニックネームです。大学時代はKeetaでしたが、ほとんど名前で出ています。Marikoと、oで終わる名前は、特にラテン語ルーツの言語では男性形です。よく、マリオ等に間違えられ、声が低いこともあって、面識のない人からは、男性だと勘違いされます。そんなわけで、Marikaと、わざわざ女性形にしてくれる人もいます。

 

特に、スペイン語圏から来た人々は、Marikoという名前で呼ぶのに、抵抗を示します。おかま(マリコン)に近いからだそうです。そんなわけで、Mariになったわけです。ここでのペンネーム「まりフロムTX」は、テキサスから来たまり(Mari from Texas)の洒落。割と気に入っています。

 

テキサスからやって来た異星人、エイリアン浦島でもあります。私の過去20年プラスの人生は、ほとんどロード・ツアーに出ているような感じでした。4ヶ月前に、日本に帰ってきました。まだ、ボケていますが、浦島症候群かつエイリアン的視点で、日本を楽しんでいます。

 

さて、日曜の夜のことに戻ります。Speak Lowという場所であるそうですが、なかなか見つかりません。子供の頃に、直感的、本能的に身についていた、日本のシステムがわからず、戸惑いました。自転車や水泳は、一度習えば、二度と忘れないと言われますが、リハビリが必要なこともあると感じます。頭と同じで、使わないと、Use it, or lose itの世界のようです。

 

「外国の人に、日本の住所をどう説明するか」といったシンプルなことも、侮れないなと思いました。「日本の地図はわからない」と、よく留学生に言われましたが、やっと実感できました。アメリカでは、道の名前の表示が角ごとにあり、順をおって番地が並んでいます。奇数列の家が道の一方に、偶数列の家が他方にまとめられています。その感覚からいくと、かなりランダムです。小路の小路が、特に難しい。少なくとも、西洋のロジックを使うのは、やめた方がよさそうです。

 

「う~ん。こりゃ、おかしい。」小雪の舞う夜道を歩きつつ、試行錯誤の連続。「今日は、あきらめないぞ」と、デタラメに歩いていると、意外な場所に、沢山の人が流れています。教えてくれる人がいるかもしれないと、近づいてみると、そこでした。安堵と共に、早足で歩いたので、心拍数が上がり、体が温かい。ほっとしました。オープンして、約一年というカフェ/ライヴ・スペースSpeak Lowは、モダンで、お洒落な空間でした。

 

アメリカでは、高校生の時に、マンハッタンで聴いたブレッカー・ブラザーズをキッカケに、ジャズに興味を持ち始めました。ブレッカー・ブラザーズのセッションには、アイリーン・キャラ(映画「フェーム」)や、同業者の方も沢山来ていて、熱い演奏を披露してくれました。

 

その後、ジャズ・フェスティバル等で、新人だったマルサリス兄弟や、新進気鋭のミュージシャンが、登場し、成長していくのを、目の当たりにしました。昨年の今頃、めちゃ上手くなった何人かの兄弟の演奏を、ジャズ・フェスで聴き、ジャズは生きていると確信しました。

 

日本で聴いた、最後の生のジャズは、マイルス・デイビス(1926-1991年)でした。1959年シリーズの途中ですので、その頃のマイルス、そして、ジャズ界を見てみましょう。私は、まだ生まれていませんでしたが、1959年は、映画史上、大変面白い年だったことがわかります。どんな社会的背景があったのでしょうか。

 

アメリカでは、公民権運動の渦中であり、対外的には、冷戦状態が悪化してきていました。第二次世界大戦後、14年。内外共に、圧力釜状態でした。冷戦の悪化から、朝鮮戦争(1950-1953年)を経て、ベトナム戦争(1960-1975年)、キューバ危機(1962年)への予感が、人々の心に、暗い影を落とした時代でした。

 

「マイルス・デイビス自叙伝」を読むと、マイルスや、ジャズ界の大御所の破滅的なライフ・スタイル(麻薬中毒など)が伺えます。そして、ロックとR&Bの台頭や、混乱した状況から、1964年には、「ジャズは死んだ」とさえ言われたのです。

 

ジャズの歴史は、また別の機会にお話しすることにしますが、この社会的な不穏さが、不安感と、フラストレーション、反抗的な態度、自己破滅的な風潮を生み出していきます。アメリカン・ニューシネマ等、映画にも、その影響が見られます。ロード・ムービーへの影響は、これからお話ししていく予定です。

 

マイルス・デイビスは、子供の頃から、トランペット奏者として、バンドを組んでいましたが、決定的な影響を与えたのは、ビリー・エクスタインの演奏でした。セントルイスから、ニューヨークに上京し、ジュリアード音楽院で、理論を学んでいます。ラフマニノフ、ストラビンスキー、ラベル等、クラシックを聴き、実践を通して、実験的なジャズを試みました。

 

私をマイルスのセッションに誘ってくれたのは、物理系の友人でした。いつもノートを持ち歩き、アイデアを書き綴っていました。そのノートを見せてくれたのですが、私には到底わかるものではなかったものの、抽象化された精度の高いフォーミュラが並んでいました。

 

たった一行の数式に、どれほどの精魂と情熱が込められていたことでしょう。何か美しいものを見ているのだと、直感でわかりました。そんな友人の聴く音楽。面白くないはずはありません。破壊と創造性、守・離・破など、思いつくままに語りました。それが、日本で聴いた、最後のジャズでした。

 

その後、アメリカで、本場のジャズを楽しみ、ヨーロッパで、ユーロジャズを、聴く機会に恵まれました。ジャズ・フェスティバルにも、沢山行きました。アメリカで最後に聴いたジャズは、クリス・ボッティ(トランペット)でした。スムース系のジャズとはいえ、ユーロジャズ、そして、キング・クリムゾン(プログレ)、ポール・サイモン、スティングのツアーに参加し、ワールド・ミュージックや、ラテンの影響も感じられます。

 

クリス・ボッティは、ヒューストンのジャズ・フェスティバルで、トリをつとめる予定でしたが、あいにくの雨。前のバンドの途中で、雷雨にみまわれ、屋外の会場は三々五々。主催者側が、暫く雨の様子を見てから、決めるとのことで、近くのアートハウス系の映画館に逃げ込みました。ロビーで、雨宿りしながら、一緒に行った友人達と、空模様を覗いつつ、映画の話をしました。アンジェリカ(映画館)の管理人は、文句も言わずに、ロビーを開放してくれました。

 

人々が会場に戻り始め、高層ビルの谷間をふと見上げると、虹がかかっています。クリス・ボッティは、冬場は雨の多いポートランド(オレゴン州)出身なので、「雨男ですみません」と、演奏を始めました。雷雨があろうが、何があろうが、演奏を聴こうと残ってくれたファンの為に、素晴らしい演奏を聴かせてくれました。しかし、やたら滅多、話しの長いクリス・ボッティ。

 

友人「ねえ。彼って若く見えるけど、いくつ位?」

 

私「う~ん、40歳位だったと思うよ。」

 

友人「え~~~っ。そんなに年取ってるの?」

 

私「すみませんねえ。話しが長くて。」

 

友人「ははは。」

 

私「ははは。」

 

ステージでは、クリスが、感激したことを、話しています。オレゴンから、ニューヨークに上京して住んだ所が、マイルス・デイビスが住んでいたアパートの部屋だったとか。めちゃ、嬉しそうです。マイルスに、決定的な影響を与えたビリー・エクスタイン。そして、クリスに、決定的な影響を与えたマイルス。そして、私の旅立ち、人生の節目に聴いたジャズ。クリスは、マイルスの音楽を、“Happy and Sad”(幸せで悲しい)と表現しました。

 

日本に帰って、あまり生の演奏を、聴く機会はないだろうと思っていたのですが、全くの杞憂でした。The Mostの演奏は、会場Speak Lowの演奏時間、動員数の新記録を達成したそうです。

 

先生方、先輩、同級生、後輩、その家族に囲まれて、素晴らしい演奏を披露してくれました。ファミリーな観客とはいえ、内輪ウケとは違います。プロフェッショナリズムに徹した、レベルの高い演奏でした。実際に、あれ程濃い演奏を聴いたことは、数えるほどしかありません。そして、The Mostの観客の年齢層の広さには、驚きました。少なくとも、三世代の観客が、同じ音楽を楽しんでいます。感慨深いものがありました。

 

多田君は、MCが長いと恐縮していましたが、何度もメンバーを紹介していたのには、大変好感が持てました。メンバーのことを知ることができたので、よかったと思います。仲間を大切にすること。これは、グラフィック・デザインでも同じ。私のやってきた仕事は、全てチームワークの結果です。本日のブログに、The Mostのメンバーのリンクを張っておきます。

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その4。北野の風見鶏の館と、萌黄の館に隣接する公園にあったブロンズ像から。萌黄の館は、昔は「白い異人館」として知られていましたが、オリジナルの塗装が、萌黄色であったことが判明し、再現されました。明治36年に、フランス人の建築家が設計した、アメリカ総領事の家です。後の小林秀雄邸。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

 

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多田誠司 the Most

 

多田誠司(a/s sax、fl)  http://www.tadasei.com/

石井彰(p) http://www.akiraishii.net/

上村信(b) http://www.geocities.jp/nshiramumika/

大坂昌彦(ds) http://www.masahiko-osaka.com/

 

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インターネットでの名前の公表について。賛否両論があります。どちらの立場に立つにせよ、安全な環境作りが目標です。もしお気に障りましたら、ごめんなさいね。

 

まずは、匿名であること。いろいろな利点があります。名前を告げず、自由に語れる場があることは、いいことだと思います。もちろん、匿名であることを利用して、中傷誹謗や、無責任な発言は許されません。無名でも、自分の発言に責任を持つことが大切だと思います。それをふまえて、匿名であることを希望される方は、気にせず匿名でいられる環境があって欲しいと思います。

 

さて、私個人の場合ですが、名前が大切な仕事をしてきました。アーティストというものは、西洋の社会では、名前なしには存在できません。ゴースト・ライター(影武者的存在)を選べば、別の話しでしょうが。芸術家が、名前を署名し始めたルネッサンス期より、この伝統を見ることが出来ます。

 

そして、ビジネスの場合も、名前が大切です。ブランディング、コーポレート・アイデンティティ・プログラムという仕事に携わってきました。好き嫌いは別としても、シャネル、プラダ、ベンツ、ソニーといった名前の意義を、良くご存知だと思います。ブランドが知られるということは、製品の成功に欠かすことができません。

 

アーティストにせよ、ビジネスにせよ、名前抜きには存在できません。製品が表面に出てこないインテルや、BASFなども、ブランディング・キャンペーンを展開しているのは、その為です。パブリックな情報は、公表しますが、プライベートな情報は、自分の胸にしまっておきますので、ご安心下さい。秘密の暴露や、無責任な発言をする気は全くありませんが、もし問題がありましたら、ご指摘下さいね。

 

さて、匿名、無名であることなのですが、その問題点もあると思います。プライベートな情報は、有名、無名にかかわらず、プライベートであって欲しいと、切に願います。

コンペアー&コントラスト15

ロード・ムービー第十夜。「1959年: その4 史劇のロード・ムービー番外編」

 

史劇をロード・ムービーに、普通は加えないと思いますが、ここでは、広義に解釈させてもらうことにしました。史劇には、英雄伝説、叙事詩的なヒーローの受難と放浪等、西洋文学の中でも重要なテーマの一つを題材とし、伝説的な人物が登場します。

 

人類学、民俗学的に見ても、単独で放浪し、サバイバル術を試す成人の儀式や苦行、関連した伝統が、世界各地で見られました。大人として、生きていく為の関門、試練です。

 

アメリカ先住民(ラコタ族など)の伝統に、ビジョン・クエストというのがありますが、大自然の中で、自分自身と向き合い、自分探しの旅に出て、生き方のビジョンを内在化させたのです。中年期にも、再びビジョン・クエストに出ることがあり、人生の軌道修正の役割を果たしました。つまり、史劇的、民話的なエレメントは、ロード・ムービーの原型でもあります。

 

普通ロード・ムービーには、等身大(つまり普通)の人物が登場します。史劇には、等身大以上の人が登場しますが、これは、何か不幸な事情が起こり、放浪したり、ロード上で、何らかの事件に巻き込まれたり、内面の変化が起きたり、結果的に、まわりの人、コミュニティ、社会に貢献し、人々に語り継がれる為、史劇化したわけです。結果的に、ヒーローになったのであって、渦中にいる時は、等身大の人物でしたので、ロード・ムービーに加えさせてもらうことにしました。

 

前回は、「1959年: その3 史劇のロード・ムービー」ということで、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」(1959年)を中心に、お話ししました。アカデミー賞受賞最多記録(11部門)を達成し、1997年の「タイタニック」、「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」(2003年)が続きました。「ベン・ハー」212分、「タイタニック」194分、「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」201分と、3時間を越える長さにも、共通点があります。史劇は、一言で語れないと言うことです。

 

史劇の登場人物は、実在の人物にせよ、伝説の人物にせよ、語り継がれているうちに、時間をかけて、統合されていきます。そして、統合された人格が伝説化するという、ダイナミックなプロセス。実在の人物でなくても、何らかの真実を含んでいるのは、その為です。文化や社会、時代の風潮を知る上で、意義があると思います。

 

タイタニック号事件は、約1513人の犠牲者を出した海難事故(史実)でした。この悲劇を題材にした映画は、ざっと数えても15本程作製され、TV番組を加えると、60本以上あります。その中で目を引いたのは、(1959年から一年ずれていますが)「SOSタイタニック - 忘れえぬ夜」(1958年、ロイ・ウォード・ベイカー監督)。イギリスで作成された映画で、ドキュメンタリー風(モノクロ)の作品です。

 

イギリスの豪華客船タイタニック号。1912年4月10日、サザンプトン(イギリス)より出港、フランス、アイルランドに寄港した後、ニューヨーク(アメリカ)に向かいました。約2207人の船客を乗せ、処女航海に出たのです。当時の最高の技術を注ぎ込まれたタイタニック号。まさかの事態が起こるとは、誰も想像していませんでした。

 

まだ流氷が残る春先の北大西洋。ニューファンドランド(カナダ)沖で、4月14日の深夜に、氷山と衝突、浸水が始まりました。約2時間40分で、タイタニック号は沈没し、海に消えたのです。

 

一等、二等船室の女性と、子供を優先し、救命ボートに避難が始まりましたが、パニック状態であったことは、映画を観なくても想像がつきます。「SOSタイタニック - 忘れえぬ夜」では、極限状態に置かれた人間の醜さ、そして、勇気と尊さと、人間性が描かれています。

 

この映画で、タイタニック号の楽団が、錯乱状態のデッキで、最後まで、音楽を奏でていたのが、一番鮮烈な印象に残っています。音楽が人々の心に平常心や安らぎを、しばし与えてくれたのは、間違いないと思います。このシーン(実話)が、1997年の「タイタニック」に、引き継がれていました。これからも、語り継がれていくことでしょう。逃げることを選ばず、残された人々に為に演奏を続けた楽団のメンバーこそ、ヒーローです。

 

タイタニック号事件では、不幸な事情が重なったとはいえ、多くの犠牲者を出してしまいました。流氷群の警告が発せられていましたが、他の業務に忙殺されていた通信士が、適切な処置を取っていませんでした。事故が起きてからは、付近の船舶に救援を求めましたが、深夜ということもあり、最短距離に位置していた船の通信士は、既に眠りについていたのです。

 

最初の救援の船が到着したのは、タイタニック号が沈没してから、2時間近くたってからでした。氷山の浮かぶ水温の低い海では、低体温症になってしまい、2時間はもたないでしょう。

 

当時は、定員分の救命ボートを備える法的な拘束がなく、2207人を乗せた船に、1178人分の救命ボートしか搭載されていませんでした。2207-1178=1029。1029人分の救命ボートが、足りなかった計算になります。

 

それでは、何故1513人の犠牲者が出たのでしょうか。単純計算でも、1513-1029=484。三等船室の船客が、下デッキに閉じ込められたこと、混乱の中、救命ボートが、定員に達する前に出されたこと等が、挙げられますが、484人の方は、助かっていたはずなのに……。

 

まずは、定員分の救命ボートが、必要なことは明白です。そして、緊急時の準備、避難訓練の意義を、この不幸な事故より学ぶことができると思います。その結果、海上における人命安全の国際条約(1914年)が、採択されました。船舶の無線通信設備の設置が、アメリカで義務化され、更に安全性が強化されていくのでした。

 

救命ボートで逃げることができた人々も、寒い暗黒の海をさまようのは、心細かったことだと思います。まずは、安全だと思っていた船が、沈んだのを目の当たりにしたのは、誰にとってもショックだったはずです。しかも、愛する人と離れ離れになってしまった人もいました。そんな人々に希望を与えたことで有名なのは、モリー・ブラウン夫人です。モリーは歌うことで、意気消沈していた救命ボートの人々を、元気付けたのです。救助が来る迄、みんなと歌い続けたのです。多分皆さんも、このお話し(実話)を、聞いたことがあると思います。

 

「沈まないモリー」というニックネームが付けられたブラウン夫人は、貴金属系で大当たりした、いわゆる成金。モリーが住んでいたのは、標高4346mのレッドビル(コロラド州)。私も、今でも銀の鉱山跡の残るレッドビルを訪問したのですが、息切れしました。標高の高さを実感しましたし、鉱山で働く人々の厳しい生活が偲ばれます。

 

映画「タイタニック」(1997年)では、モリー(キャッシー・ベイツ)は、主人公ジャック(レオナルド・ディカプリオ)の母親的な役割を果たしています。ジャックは架空の人物ですが、ハイソなヨーロッパで、成金と見下されていたモリーが、三等船室のジャックを助けるのは、ありうることだと思います。

 

ブロードウェイ・ミュージカルから映画化された「不沈のモリー・ブラウン」(1963年)。「雨に唄えば」(1952年)で、ジーン・ケリー、ドナルド・オコナ―と共演した、デビー・レイノルズ(エル・パソ出身)の当たり役です。ミュージカルの方も、ロングランを続けています。10年くらい前でしょうか、デビー・レイノルズ主演のミュージカル、「不沈のモリー・ブラウン」を、アメリカで観ることができました。もういいお年だったのですが、ステージで元気一杯、歌い踊ってくれました。

 

昨年9月、急遽出られなくなったシャーリー・マクレーンの代理として、交響楽団のナレーションに、デビー・レイノルズが出演されたのを拝見しましたが、相変わらずお元気そうでした。キャリー・フィッシャー(「スター・ウォーズ」のレイア姫)のお母さんです。文字通り「沈まないモリー」。……タイタニックの逸話程、逆境の時の音楽の素晴らしさを感じるものはありません。

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その3。北野のオランダ坂あたりで、ふと見上げた門の上にあった天使の彫刻です。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています!

コンペアー&コントラスト14

ロード・ムービー第九夜。「1959年: その3 史劇のロード・ムービー」。

 

史劇は、古代エジプト、ギリシャ、ローマ帝国、聖書等を題材にした作品で、コスチュームものとも呼ばれています。日本の鎧兜ものにも通じるものがあり、英雄伝説、叙事詩的なヒーローの受難と放浪等、西洋文学の中でも重要なテーマの一つです。

 

今夜は、ウィリアム・ワイラー監督の「ベン・ハー」(1959年)を中心に、お話ししたいと思います。舞台は、今から約2000年前(キリスト受難の頃)のローマ帝国。

 

ベン・ハー(チャールトン・へストン)は、ユダヤの王子として、エルサレムで、何不自由なく育ちました。ローマ帝国の将校になった旧友メッセラの裏切りで、妹と母は投獄され、ベン・ハーは、ローマ軍の奴隷として故郷を追われます。灼熱の砂漠を、奴隷たちが行進する中、喉の渇きに気を失いそうになるベン・ハー。その時、水をくれた人がいました。

 

激戦地に、ガレー船の漕ぎ手として送られ、重労働を強いられます。その時、間一髪で、軍の司令官アリウスの命を救いました。ベン・ハーの勇気と、聡明さに気付いたアリウスは、ベン・ハーを養子として迎え入れますが、ベン・ハーは、母と妹を探しに、エルサレムに帰ることを決意します。ライの谷に送られた母妹は、ベン・ハーには、もう死んだと伝えてくれと、一家の土地を守ってくれていたエスターに告げました。

 

失意のどん底のベン・ハーは、戦車レースの旗手として、無敵のメッセラに挑戦します。四頭立ての馬車のレースは、セット、エキストラ、スタントマン、カメラのコーディネーションが見事で、今観ても、息をのむほど素晴らしい。迫力のある臨場感と、アクション・シーンは、緻密に計画され、スペクタル映画の本場イタリアで撮影されました。

 

近年では、「グラディエーター」(2000年、リドリー・スコット監督)の受難と、コロシアムでの壮絶な戦いが、思い浮かびます。こちらの舞台は、「ベン・ハー」から、180年後のローマ帝国。皇帝からも、仲間からも信望の厚かった将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)。後継者争いをめぐり、追われる身に。絶望にうちひしがれ、奴隷の身となり、剣闘士(グラディエーター)として、死闘の世界に。戦略、格闘技術、チームワークに長けたマキシマスは、ローマのコロシアムで、命がけの戦いに挑むのでした。

 

「ベン・ハー」のウィリアム・ワイラー監督は完璧主義者で、細部にまで、細心の注意を払うので有名でした。得意としたのは、長まわし(20秒以上のショット)や、パン・フォーカス(ワイドアングルで、前景のみならず、ディープ・フォーカスを用いた奥行きのある撮影)等、誤魔化しのきかない演出。その結果、技術的にも、芸術的にも優れた作品(「ベン・ハー」)を、生み出しました。

 

ワイラー監督は、スペクタクル史劇に止まらず、西部劇、文芸もの(「嵐が丘」1939年)、ロマンチック・コメディー(「ローマの休日」1953年、オードリー・ペップバーン)、ミュージカル(「ファニー・ガール」1968年、バーブラ・ストライサンド)と、幅広いジャンルの作品を手がけています。

 

第二次世界大戦中は、空軍に従軍し、ドキュメンタリー映画を作製。戦後は、「我等の生涯の最良の年」(1946年)で、復員兵の故郷への再適応の難しさと、迎える家族の戸惑いを描いています。社会に目を向けたこの作品で、七部門でアカデミー賞を受賞し、二度目の監督賞を受賞しました。

 

「ベン・ハー」は、アカデミー賞受賞最多作品の記録を達成しました。その後38年間、11部門受賞を達成した作品は、「タイタニック」(1997年) 迄登場しませんでした。ウィリアム・ワイラー監督は、「ベン・ハー」で、三度目の監督賞を受賞しました。

 

制作当時、記録的な費用をかけた「タイタニック」と、「ベン・ハー」。どちらも、アクション・シーンと美術効果に、最高の技術が注がれ、史劇的なスケールの大きな作品です。そして、アクション、美術効果等、技術的な面に優れ、ヒーローの受難と放浪という、西洋文学の伝統を引く「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」(2003年)が、アカデミー賞11部門受賞の第三作目となりました。

 

ワイラー監督は、当時ドイツ領だったフランスのアルザス地方に生まれ、ドイツ系の母の親戚が創立したユニバーサル・スタジオに入社する為、アメリカに渡りました。使い走りから始め、監督としては、B級映画を手がけて経験を積みました。1936年に契約が切れたのを機に、サミュエル・ゴールドウィンに移り、A級作品の監督を、任されるようになりました。

 

「ベン・ハー」は、私が子供の頃、学校で観た映画の一本です。その頃は、アクション・スペクタクルとして、観たのですが、近年、再び見る機会を得て、この作品の西洋における歴史的、文化的な意味が、よくわかりました。

 

チャールトン・へストンは、ミケランジェロの彫刻に、息を吹き込んだようだと、「十戒」(1957年、セシル・B・デミル監督)では、モーゼ役に抜擢されました。姿のみならず、ヘストンの声も素晴らしい。この作品も、ヒーローの受難と放浪がテーマで、エジプトの王子として育てられたモーゼの出生の秘密、追放、砂漠の放浪、遂には奴隷を解放する生涯を描いた史劇です。

 

そして、ミケランジェロ自身を演じた「華麗なる激情」(1965年、キャロル・リード監督、原題/原作「苦悩と恍惚」)。ローマ教皇より、システィナ礼拝堂の天井に、フレスコ画を描くよう命じられた彫刻家ミケランジェロ。彫刻は得意でしたが、絵画は専門ではありません。ローマから逃亡して、大理石の採掘場に身を潜めていましたが、アイデアが浮かび、天井画に心血を注ぐようになりました。

 

難しい作業は、困難を極め、教皇との葛藤が絶えませんでした。教皇は、教皇で、フランス軍や、ドイツ軍との戦いに、疲労困憊していたのです。映画は、ルネッサンス期の名作「天地創造」が、どのように生まれたのかを描いています。

 

チャールトン・へストン主演の意外なロード・ムービーは、「地上最大のショウ」(1952年、セシル・B・デミル監督)です。リングリング・ブラザーズ=バーナム・アンド・ベイリー(実在のアメリカのサーカス一座)の座長ブラッド役でした。

 

サーカス列車で、アメリカの町々を訪れ、テントを張って、巡業していく中、経済的なプレッシャーとの戦い、スターの座をめぐる無謀な芸争い、わけありの心優しい道化師(ジェームス・スチュワート)と、ドラマが展開していきます。「何があっても、ショーを続けなきゃならないんだ」という、ブラッドの言葉を胸に、巡業の厳しさや、困難さを乗り越えていきます。

 

子供の時に、リングリング・ブラザーズのサーカスを、見に行ったアメリカ人は多いでしょう。私も、楽しい思い出があります。そして、子供時代の懐かしいサーカスの思い出話しを、年配のアメリカ人からよく聞きました。サーカス列車が来るのを、ドキドキしながら心待ちにしていたこと。象さんが、テントを張るのを手伝うのを見るのが、楽しみだったこと。そんな話しを聞くのが好きでした。

 

アメリカの小さな町々を旅して、改めて、サーカスの重要性を感じました。リングリング・ブラザーズの本拠地サラソタ(フロリダ)や、南部を訪れ、「ダンボ」(1941年、ディズニー)のサーカス列車、サーカスの様子は、リングリング・ブラザーズだったことに、気が付きました。

 

P.T. バーナムが、ロンドンから購入した象のジャンボ(1861-1885)は、サーカスの花形になりましたが、カナダで列車事故に遭遇してしまいました。山師的なP.T.バーナムは、アメリカ映画に登場(「ギャング・オブ・ニューヨーク」、2002年)したり、よく引用されています。

 

チャールトン・へストン主演の意外なロード・ムービーとして、SF「猿の惑星」(1968年、フランクリン・J・シャフナー監督)も、挙げておきますね。「ベン・ハー」で、2000年遡ったのに対して、今回は2000年先の未来に。湖に不時着したNASA宇宙飛行士テイラー(へストン)は、砂漠、森を、さまよいます。そこで、その惑星は、猿と人間の立場が、逆転していることを知り、猿の奴隷に……。映画史上に残るエンディングが有名ですが、原作(ピエール・ブウル、フランス)のエンディングも、一読の価値があります。

 

近年、チャールトン・へストンは、アメリカのTV番組で、アルツハイマーであることを、告白しました。同じ病気で亡くなったレーガン大統領。ナンシー・レーガン夫人が、体験者としてのアドバイスを申し出たのですが、「思い出を消していく残酷な病気です」と、語っていたのが、印象に残りました。公にすることで、病気の理解に、少しでも役に立てばと、チャールトン・へストンは、TV出演したのです。勇気ある発言だと思いました。

 

今日の写真は、先週末訪れた神戸の風景から、私のロード写真、その2。「ベン・ハー」と「華麗なる激情」に因んで、北野外国人倶楽部の入り口にある彫刻 (白黒スケッチ)と、「地上最大のショウ」に因んで、北野サーカスです。

 

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コンペアー&コントラスト13

ロード・ムービー第八夜。「1959年: その2 ワイルダーなロード・コメディー」。

 

今夜の舞台は、フランス(第六夜のヌーベルヴァーグ)から、アメリカに。ビリー・ワイルダー監督の「お熱いのが好き」(1959年、モノクロ)を中心に、お話ししたいと思います。脚本家として、映画界に入ったワイルダー監督は、ストーリー・テラーの名手。コメディーも、シリアスな作品もこなせる監督さんです。

 

「お熱いのが好き」は、社会、時代の反映、テンポの良さ、スクリーン上の絶妙なケミストリーと、大変よく出来たコメディーで、大衆向けのお笑い(ロー・コメディー)と、洗練されたユーモア(ハイ・コメディー)の二層構造は、シェークスピアの喜劇に匹敵するとも言われています。

 

映画の舞台は、1929年のシカゴ。そう、ギャング(映画)のメッカです。1929年は、世界大恐慌の年。アメリカは禁酒法の時代(1920-1933年)でした。

 

ジョー(トニー・カーティス)と、ジェリー(ジャック・レモン)は、スピークイージー(もぐりの酒場)で、ジャズの演奏をしていましたが、警察の取り締まりがあって失業中。たまたまギャングの虐殺を目撃してしまい、追われる身に。変装(女装)して、ガール・バンドに潜入。バンドと共に、汽車で一路マイアミへ。

 

車中、バンドのボーカル、シュガー(マリリン・モンロー)に、想いを寄せるジョー。今迄サックス奏者とは、うまくいかなかったというイワク付きのシュガー。その上、玉の輿願望が強いときています。貧乏サックス奏者のうえ、女装しているので、切ない想いを、打ち明けられないジョー。スクリューボール・コメディーです。

 

何故だか、女装の相棒ジェリーは、富豪に好かれて、あれよあれよと大進展。ジョーに、「なんでだよ」と、尋ねられたのに対して、「安定(security)よ」と、答えるジェリー。ジョーも、変装の変装で、青年実業家を装い、シュガーに大接近。マイアミにギャングが結集し、再びピンチに陥るジョーと、ジェリー……。エンディングは、映画史上に残る名言で、締めくくられています。良い映画です。

 

オーストリア生まれのビリー・ワイルダー監督は、ドイツの映画界に入ったものの、ナチスの台頭で、パリに移り住みました。労働許可証がなかったので、偽名で脚本を書いていました。ビリーは、アメリカ好きの母親が付けたニックネームです。

 

1934年に、アメリカ大陸に渡ります。メキシコの国境から入国しようと、数ヶ月間にわたり試みましたが、許可が下りません。諦めかけていた時に、入国審査官に、職業を尋ねられ、映画を作っていますと答えました。審査官に、「それでは、いい映画を作って下さいね」と、入国を許可され、ハリウッド入りを果たしました。その後、アメリカの映画界で、大活躍するのは、ご周知の通りです。

 

「お熱いのが好き」は、マリリン・モンローの魅力に溢れた作品です。アクターズ・スタジオで学んだメソッドで、女優としての魅力を深め、女装の二人とのコントラストで、「女であること」の素晴らしさが引き立ちます。ジャック・レモンが、「これぞ、本物の女!」と言うシーンを、思い出します。

 

マリリンの歌う“I Wanna Be Loved by You”(あなたに愛されたい)は、絶品です。劇中歌の歌詞が、巧みに脚本に組み込まれているのですが、彼女の凄さは、カメラとの呼吸。カメラの動き、照明、全てに反応しています。ビリー・ワイルダー監督は、オードリー・ペップバーン、シャーリー・マクレーンと、女優の魅力を引き出すのが大変上手く、か細い声のマリリン・モンローに、ピッタリの演出でした。

 

二コール・キッドマンも、声が弱過ぎると、言われてきましたが、「ムーランルージュ」(2001年)で、歌うこと(奇しくもマリリンの曲)によって、彼女の魅力を、最大限に発揮しました。(二コールの日本語の吹き替えが、意志の強い声になっているのは、面白いチョイスだと思います。)

 

グウィネス・パルトロウは、「デュエット」(2000年)で、心のこもった歌(Crusin’、Just My Imagination)を披露してくれます。グウィネスの父ブルース・パルトロウ監督が亡くなる前に、父娘一緒に仕事ができたのは、大変意味のあることだったと、語っていました。マリリン、二コール、グウィネス、三者三様、目の離せないパフォーマンスを、スクリーン上で披露してくれます。

 

実際のところ、マリリンは、遅刻の常習犯で、台詞が覚えられず、何度もテークを繰り返すことに、意味を見出せず、撮影所の雰囲気は、サイテーだったそうです。しかしながら、いざ本番となると、打てば響くような、新鮮な演技を、カメラに収めたのには、全くの驚きです。

 

さて、マリリンが、演技を学んだアクターズ・スタジオ。ここで学んだ俳優さんは、メソッド・アクター(method actors)と、呼ばれています。有名なところでは、グレゴリー・ペック、ジェームス・ディーン、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、ロバート・デ・ニーロ、ジャック・ニコルソン、アル・パチーノ等々。1947年に、エリア・カザン監督等が中心になって、創設された演劇学校(ニューヨーク、44th Street)です。

 

アクターズ・スタジオでは、コンスタンチン・スタニスラフスキー(ロシア芸術座)によって考案されたメソッドが使われました。そのメソッドとは、演じるのではなく、役になること。自分自身の体験、記憶を使い、心理的、感情的、心身共に、役と一体化するプロセスを重視しました。

 

マリリンの共演者、ジャック・レモンは、コメディーも、シリアスな役も、ソツなくこなせる俳優さんです。亡くなる前に、インタビュー番組で、何度か拝見しましたが、気取った所が無く、とっても素敵な方でした。ハーバード大学(サイエンス専攻)卒業。

 

「酒と薔薇の日々」(1962年)、「セーブ・ザ・タイガー」(1973年、日本劇場未公開)では、 アルコール依存症という難しい役を、こなしています。撮影中、役とあまりにも一体化していた為、身も心もボロボロになり、撮影所に向かう車の中で、涙が止まらず、警察官に車を止められて、大丈夫かと心配されたそうです。そこで、「これは役なのだ」と気付き、我に返ったとのこと。実際にその頃、飲み過ぎていたので、「セーブ・ザ・タイガー」は、自分にとって、大変意味のある作品だったと、語っていました。

 

さて、アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)ですが、皮肉なことに、お酒の密造、密輸、密売が大繁盛。その収益の支配をめぐって、ギャングが台頭し、格好の映画の題材(犯罪もの、暗黒の世界もの)になりました。それが、アメリカのフィルム・ノアールとなり、海を渡って、フランスのフィルム・ノアール、ヌーベルヴァーグ(「勝手にしやがれ」)に、影響を与えたのです。(ブログ2/22、2/24参照) 「お熱いのが好き」は、ギャング映画のギャグでもあります。

 

今日の写真ですが、先週末訪れた神戸の風景を、少しばかり紹介させてもらいますね。ロード・ムービーに因んで、私のロード写真です。

 

神戸は、方向音痴の人にとって、ありがたい土地。山側が北、海側が南です。子供の頃に見た景色をたどりつつ、三宮にやってきました。フラワーロードを上がれば、新神戸駅。道すがら、ブロンズ像や、お花を楽しめます。山本通りから上あたり、フラワーロード(東)と、トアロード(西)の間に、北野の異人館があります。

 

今日は、北野坂の景色から。この景色のおかげでしょうか、坂の街サンフランシスコ、シアトル、バンクーバー、ケベック(カナダ)、モンマルトル(パリ)等に行くと、とっても懐かしい気がします。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは、明日お会いできるのを楽しみしています!

コンペアー&コントラスト12

ロード・ムービー第七夜。1959年シリーズを、前回始めましたが、間があいてしまいました。今日はインターミッション(幕間)ということにして、ロード・ムービー雑談にしますね。

 

ロード・ムービーの定義が、辞書(国語、英和、英英)等に載っていなかったので、ブログに書いてみようと思ったことに、軽く触れておきました。(「ロード・ムービー第五夜」、2/22ブログ。) もう少し付け加えておきますね。

 

コンペアー&コントラスト(比較対照)のトピックの一つとして、ロード・ムービーは、面白いのではないのかと、準備を始めましたが、これぞといった定義が見つかりません。インターネットには、いろいろな解釈が溢れていました。そこで、「これは、面白い!」と、興味が湧いてきたのです。調べれば、調べるほど、パズルのように、情報が溢れていますので、私なりに、まとめてみることにしました。

 

インターネット上の資料では、カリフォルニア大学バークレー校のメディア・リソース・センター(MRC)のリストや、アメリカ国道管理局のリチャード・ワイングロフ氏(Richard F. Weingroff)のリストが、大変参考になりました。(今日のブログの最下部に、参照用のリンクを貼っておきます。)それらのリストをもとに、独自のロード・ムービーを、模索してみることにしました。

 

ほとんどオフロード状態で、道草したり、脱線していますが、それも旅の楽しみ。バックロードにこそ、いろいろなドラマが見つかるものです。そして、歴史的観点も、大切だと感じましたので、昔の作品や、作風、ジャンルも、簡単に紹介させてもらうことにしました。明日より、1959年シリーズを再開させてもらいますね。

 

それから、写真の予告をさせてもらいます。先週末訪れた神戸の写真を、明日よりアップします。ロード・ムービーに因んで、ロード写真のつもりです。

 

阪神大震災から10年になります。5年前に訪れた時より、随分復興していました。見えない部分が癒えるまで、まだまだ時間がかかるでしょうが、逆境に負けない街の生命力を感じます。幼少時代を過ごした神戸の風景を、少しばかり紹介させて下さいね。

 

気軽にコメントしていって下さい。それでは、明日お会いできるのを楽しみしています!

 

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ロード・ムービー参照(英語サイト):

 

カリフォルニア大学バークレー校のメディア・リソース・センター(MRC)のリスト

 

http://www.lib.berkeley.edu/MRC/roadmovies.html

 

アメリカ国道管理局のリチャード・ワイングロフ氏(Richard F. Weingroff)のリスト[アメリカの道(ロード)を舞台にした映画を集約。1996年迄の作品のリストと、簡潔な要約文付き。政府のオフィシャル・サイトというのが面白い。]

 

http://www.tfhrc.gov/pubrds/summer96/p96su42.htm