コンペアー&コントラスト47

本日は,インターミッションです。「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)の回想にちなんで,私の私的回想録を……。 

 

秋分の日。日本では祭日だが,いつもより早く目が覚めた。正確には,まだ夜中だ。仕方がないので,ハリケーン・リタの様子をCNNで見ることにする。スペイン語放送になり,ブリティッシュ・アクセントのヨーロッパ版になり,うつらうつらしてきて,ふとアメリカの我が家で寝ているような気がした。

 

挽きたてのフレンチ・ローストで,夜明けのコーヒーでも淹れようか。それとも,そのままソファで一寝入りしてもいい。ふとチャンネルを回すと,甘美なバイオリンの音色が耳に入る。

 

まぎれもなくチャイコフスキーのバイオリン協奏曲(作品35)だ。運良くまだ第一楽章が始まったばかり。一度聴くと忘れられない第一主題が流れる。番組は「N響イン・ブルージュ」(ベルギー)。昨年からアシュケナージが,N響の音楽監督に就任したと聞いていたが,2004年夏のヨーロッパ公演の時の放送だ。

 

ジュリアン・ラクリンのバイオリンによる第二主題のオーケストラとのかけあいは見事で,息もつけないクライマックスから行進曲風の展開部に入り,足並みと息を整えてカデンツァに。そして,再現部でオーケストラと共に弛緩を繰り返しつつ,再度クライマックスに。なんとも悩ましく息もつけない。

 

全てを出しきったジュリアン・ラクリンの演奏に胸が熱くなる。第一楽章が終わった時点で感極まった観客が,ラクリン,アシュケナージ,そしてオーケストラに拍手を贈った。緊張が解けて,第二楽章,第三楽章と熱の入った演奏が進む。さすがはロシア出身のアシュケナージとラクリンのチャイコフスキーだ。(アシュケナージはピアニストとして,第二回チャイコフスキー国際コンクールで,ジョン・オグドンと共に第一位に入賞している。)

 

次はショスターコビッチの交響曲第五番だ。もともと,テスタストロン(男性ホルモン)系だと思っていたが,ハンス・グラーフの率いるヒューストン・シンフォニーの演奏を生で聴いて以来(2004222日),演奏の解釈の違いに注目している。

 

ヒューストンの図書館で,偶然見つけたCDは,ケルテスの率いるスイス・ロマンド管弦楽団の演奏。(当時の録音状態もあるだろうが)ヘビメタだった。重厚で熱い演奏が,なかなかよかった。ムラビンスキーのレニングラード・フィルハーモニーの演奏(CD)を聴いた時は,その完成度の高さと洗練度に感嘆し,これ以上の演奏は無理かと思った。(ムラビンスキーは,1937年の初演の指揮も務めている。)

 

そこで,アシュケナージがどのように指揮するのか興味があった。ショスターコビッチの政治的な抑圧との葛藤と苦悩。同じソビエト体制下で,芸術家として生きたアシュケナージの回想を導入に演奏が始まった。

 

演奏は重くなり過ぎず,表現力豊かに,同時に流されず,洗練されたスタイルで展開する。ヒューストン・シンフォニーの演奏を聴きつつ,途中居眠りする観客がいたが,確かにこの交響曲の一部は,最高の眠りを誘う。決してつまらないという意味ではない。生理的な反応だ。重厚で,陰鬱で,思いつめたような緊張感の張りつめた演奏が,緩やかに歌う部分に入ると安堵から眠気をもよおす。考えようによっては,生演奏で眠れるのは最高の贅沢であり,素直な反応だ。

 

秋分の日の夜明けに,アシュケナージでウトウトするのもいいと思いつつ,注目していた第四楽章に入ったので,すっかり目が覚めた。大きな解釈の余地を残す楽章で,「強制された歓喜」か「勝利の行進」か,といったような解釈の論議がなされている。しかしながら,アシュケナージの演奏は,そんな論議はどうでもいいと思わせるもので,ショスターコビッチへの敬意と愛情のこもったクライマックスに目頭が熱くなった。

 

ヒューストン・シンフォニーの演奏のあとで,ジョーンズ・ホールを出ると,雨が降り出していた。冬の冷たい雨ではない。ダウンタウンからさほど遠くないリバー・オークスの角のフレンチ・カフェ,ラ・マデリンに向かう。その昔は,近くのドレクスラーの角,ハイランド・ハイツにあった店だ。よく金曜の夜に,生の管弦楽の演奏があった。中庭に季節の花が咲き,パンを小鳥と分け合ったものだ。

 

フレンチ・ローストの馨りと,焼きたてのパンの匂いが漂うカフェに,夕方のあかりが灯り,温かい光が部屋を満たした。水滴のしたたる窓ガラスに,道行く車のヘッドライトが映る。

 

隣接する古い映画劇場「リバー・オークス・シアター」で,観たかった「運命を分けたザイル」(英,2003年)を上映している。そういえば,この劇場で沢山の映画を観たものだ。名画座の名残がある古い映画館。数こそ少ないが日本の映画も観たし,いわゆる外国映画や,ミニ・シアター(アート・ハウス)系作品の佳作を上映していた思い出の多い劇場だ。

 

ハリケーン・リタの様子を見守る中,CNN11チャンネルの見慣れたレポーターが登場し,13チャンネルのセグメントがNHKのニュースに挿入されている。ふとアメリカの我が家のことを想った。ブルージェイや,レッドカーディナルが庭の大木を訪れる我が家。そろそろルビー・スロートと呼ばれる(喉のあたりがルビー色の)ハミングバードが,南に向かって通過する頃だろうか。ハリケーンは大丈夫だったのだろうか。

 

写真は,テキサスの州花ブルーボネット。何百キロも続くハイウェイの両脇を,空のように青く染め上げる様子は圧巻で,テキサスの春の風物詩です。

 

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コンペアー&コントラスト46

ロード・ムービー第三十九夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004) イントロ」

 

今夜から暫くの間,オートバイの登場するロード・ムービー第三本目,「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)について,ブログの旅にお付き合いを願うことにしましょう。

 

時は1952年。南米を縦断した二人の青年,生化学者アルベルト・グラナード(29)と,医学生エルネスト・ゲバラ(23)14日に自国アルゼンチンのブエノスアイレスを出発し,726日にベネズエラのカラカスでの二人の別れまで,125百キロにわたるロード・ムービーです。当初の予定では,8千キロ,4ヶ月の旅のはずでした。

 

アルベルトの愛車ノートン500は,13年前のモデル(1939年式)のオートバイです。ヤドカリのように荷物を積んだうえ,舗装していない道を二人乗りで行く長距離旅行は,無謀といえば無謀。故障や転倒が続き,ポデローサ(力持ち)というバイクのニックネームは,ご愛嬌というよりは,考えようによっては皮肉な名前ですが,二人は罵り合いながらも旅を続けます。本でしか知らない南米を自分の目で確かめ,アルベルトが30歳になるまでに大陸の北端に達する目標の為に。

 

ほとんど力尽きたポデローサを,アルベルトは針金や有り合わせの材料で修理しつつ,パタゴニア地方の雄大な自然をバックに走ります。荒野の一本道に雲の切れ目から陽が注ぐシーン。(そうそう,山脈に近付くと,こんなカンジなんだよね。)そして,標高6千メートル級のアンデス山脈の息をのむような景観。(「いや待てよ。これは夏山の景色」と,訝しげに映画を観つつ,「そうだ,南米は北半球と季節が反対だから夏なんだ!」と,当たり前のことに気付きます。)

 

バレンタインデーの頃に,アンデス山中のフリアス湖をフェリーで渡り,「年を取って旅に疲れたら,この湖のほとりに診療所を建てよう」,「来た人はみんな診てあげよう」と,二人はナイーブだけれど,素敵な夢を語ります。チリ国境です。

 

アルベルトは,明るく陽気で気さくな青年。楽しいことが大好きで,女性を口説くのも積極的なら,貧乏旅行もへっちゃらで,口八丁で必要なものを手に入れることができるタイプです。エルネストの方は,真面目一徹。食いっぱぐれても,寝る所がなくても,アルベルトの口車に乗ることができず,いい加減なことが言えません。二人のボケとツッコミ具合からも,いい友達だということが窺えます。

 

背は腹にかえられないアルベルトに,「おまえは,バカ正直だ。嘘も方便」と叱られて,国境を越えてからは,エルネストも「方便」を実践。それが,思わぬ事態に展開して,ピンチに陥りながらも,細長いチリを北上します。走行距離3千キロあたりで,ポデローサは遂に力尽き,鉄屑に売るしかないと,修理工に言い渡されました。まだまだ長い旅が残されていますが,ガタガタの道や山道を,よくもまあ走って(時には押して)きたものです。アルベルトがドン・キホーテの想い人ドルネシア姫に例えた,愛するオートバイとの訣別です。

 

その後,二人はトラックの荷台に乗せてもらったり,アマゾンをフェリーで密航したり,徒歩で旅を続けます。そして,旅の途上で出会った人々との触れ合いが,二人の人生に大きな影響を与えます。アルベルト・グラナードと,エルネスト・ゲバラは,実在の人物で,映画のタイトルがダイアリーズと複数形なのは,二人の日記と回顧録をもとにしているからです。

 

次回からは,映画のこと,映画の背景,二人の青年のことなど,気の向くままに,ラテン・タイムでお話していく予定です。本日の写真は,アルストロメリア,別名インカのユリ。南米はインカ帝国の地が原産だそうで,アンデス山脈やチリの砂漠に咲く花です。この映画にピッタリかと思いました。可憐な花は日持ちがよく,いろいろな色があります。

 

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コンペアー&コントラスト45

ロード・ムービー第三十八夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  h. ヤング・ロレンス」

 

今夜は,映画では語られていないロレンス(18881935)の若かりし頃のお話しと,今までのまとめをします。

 

ロレンスは,子供時代から歴史に興味を持ち,まずは自宅付近(英国オックスフォード)で史跡の探索を始め,徒歩や自転車で遠方の遺跡を訪れました。その後,オックスフォード大学に進学し,休暇にはイギリスのみならず,フランスの城を訪れる為,自転車で何千キロも旅したことが下地となり,1909年には卒業論文の準備の為,中東(シリア,パレスチナ方面)で十字軍の築城技術を調べました。ベイルートを始点に,政治的に不穏な地域でマラリアに罹りながらも,36の城塞を徒歩で訪れる約1800キロの旅。ロレンスの粘り強さ,強靭な意志とストイックさが伝わってくる逸話です。

 

大学卒業後は考古学者として,大英博物館などの中東での発掘調査に加わり,アラビア語を習得し,アラビア文化や土地に精通したロレンスが,砂漠の反乱に参加(191618年)する準備ができていたことは言うまでもありません。

 

今の時代なら何の引け目を感じる必要はないものの,多感な十代の頃に私生児であることを知り,ロレンスにはどことなく近寄りがたいアウトサイダー的なところがありました。生意気で,無礼で,気まぐれで,勝手に行動して,厄介者と煙たがられる一方,その独立性・自主性(自分で判断を下して行動できること)や,威厳・カリスマ的統率力の適材適所を把握した上官もいました。ロレンスの短所とされていた点は,まさに長所でもあります。砂漠の反乱に単独で派遣され,多くの功績をあげることができたのは,この独立独歩のおかげでしょう。

 

第一次世界大戦中の英国の二枚舌外交(アラブ国家独立支援に矛盾する英仏間の秘密協定)および三枚舌(イスラエル建国支援の約束)は,今日の中東問題の発端となりました。英国のアラビア支援の顔であったロレンスが,ロレンス=英国(の多重外交)=裏切りと,一部の人に誤解されたのは残念なことです。しかしながら,アラブ民族の政治的な独立と自由は,ロレンスの夢であったことに違いありません。

 

デビッド・リーン監督は,映画「アラビアのロレンス」の冒頭・中盤・エンディングに,オートバイを登場させていますが,ロレンスのアイデンティティとオートバイ(の象徴性)を,巧みに結び付けていると思います。アウトサイダー,独立独歩,自由を求める心,若さ,そして孤独……。

 

映画の冒頭のシーンには,ブラフ社のオートバイを整備するロレンスが登場します。当時イギリスで一番速いとされていたバイクを製造していたブラフ社。創始者ジョージ・ブラフと出会ったのは1922年頃で,その後,ブラフ・シューペリアの最新モデルを計7台購入しました。ロレンスは,製品開発という大義名分のもと,速度テストのチャレンジまで買って出たそうで,スロットル全開で走るスリルが好きだったという逸話がいくつか残っています。いつまでも若く無謀なところがあったようです。

 

ロレンスの友人に宛てた手紙に,オートバイの楽しみは,英雄のイメージや名声から逃れて,大地やスピードと一体になれるところといったようなことが書かれてありましたが,あるがままに忘我の境地に達する一瞬であったのかもしれません。これは,番外編で採り上げた「禅とオートバイ修理技術」で語られている一瞬でもあり,ロレンスの人生の片鱗を映像におさめたデビッド・リーン監督の一瞬(永遠)でもあります。

 

それでは,「オートバイの登場するロード・ムービー」で今迄来た道を,振り返ってみましょう。

 

. イントロ: ロード・ムービーに登場する交通手段

. 「イージー・ライダー」(1969)

. 番外編「禅とオートバイ修理技術」

. 「アラビアのロレンス」(1962)

   a. イントロ: 映画公開当時(1962年頃)の時代背景

   b. 終わりは始まり: オートバイの登場するシーンについて

   c. 光と影: 第一次世界大戦における中東事情とロレンスの役割

   d. 薔薇の名は: ロレンスの名前にまつわる家庭の事情とアラビア

   e. 蜃気楼とガラスの靴: 中東における英国の多重外交の代償

   f. フジヤマ・ゲイシャ: ロレンスの中東における評価(文化的な解釈の難しさ)

   g. 割り切れないもの: デビッド・リーン監督の選んだテーマ

   h. ヤング・ロレンス:若かりし頃のロレンスと「アラビアのロレンス」のまとめ

 

次回から,オートバイの登場するロード・ムービー第三本目,「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)について,お話しする予定です。

 

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ロード・ムービー第三十七夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  g. 割り切れないもの」

 

「アラビアのロレンス」の監督であるデビッド・リーン(英,19081991年)について,今夜はお話ししましょう。

 

まず思い付くのは,スケールの大きな映画を作った監督。「アラビアのロレンス」を含め,是非とも大きなスクリーンで観たい作品がいくつかあります。きめ細かい名人芸といった作風は,後に続く監督のお手本として,多大な影響を与えてきました。映画の師(マスター)といった感じがしますが,新しいアイデアも取り入れる柔軟性もあり,「アラビアのロレンス」には,当時話題になっていたヌーベルバーグの編集スタイルが導入されています。

 

スピルバーグ監督やスコセッシ監督の協力を得て,段々失われつつあった「アラビアのロレンス」は,完全版として蘇生(1988)しました。映画好きにとっては嬉しいことです。

 

完全版のDVDには,作製に携わった人々の回想や興味深い逸話(メーキング),そして地図などの資料も充実していますが,スピルバーグ監督が,いかにこの映画に影響されたかを語る8分間のインタビューは,映画ファン必見です。「アラビアのロレンス」を観て映画監督になることに決めたこと,アリゾナの砂漠のあたりで育った為,個人的な思い入れがあること,そして有名なマッチの火から灼熱の太陽へのシーンのトランジションなど映像の素晴らしさを,熱く語ってくれるのが印象的でした。

 

スピルバーグが監督になることを決心したのは,16歳の時だったそうですが,デビッド・リーンは,いくつかの職を転々とした後に映画界に入り,底辺からスタートしました。編集を経て監督を任されたのは30代半ば。また,同じく映画の師として崇められている14歳年上のジョン・フォード監督の約150本の作品や,9歳年上のヒッチコック監督の約70本の作品に比べて,作品数(30)は少なめですが,映画史に輝く作品を残してくれました。

 

最初の頃の映画は,劇作家ノエル・カワードのコンテンポラリーな作品を手がけ,続いてディケンズの「大いなる遺産」(1946)や「オリバー・ツイスト」(1948)と,質の高い文芸作品を創出しています。キャサリン・ヘプバーン主演の「旅情」(1955)では脚本も担当し,ノエル・カワード時代から,男女関係の機微をうがつ作品にチャレンジしています。

 

前回のブログは,異文化の設定は,どうしても「訳しきれないもの」があるといったような話しだったのですが,デビッド・リーン監督は,どうやら「割り切れないもの」に興味があったようです。男女関係,戦争,文化の衝突 ……。どれも視点によってうつろうもの。違いだけが突出すると,収支がつかなくなるという共通点があります。……息をのむようなシーンに,永遠という幻影を垣間見る。人間の強さ,そして弱さとは。刻一刻と変る世界をカメラに収めつつ,答えはあえて出さずに,観るものの判断に委ねる。そんな監督のスタンスが伝わります。

 

「旅情」は,婚期を逃したアメリカ人女性(ヘプバーン)が,ベニスに一人旅に出た物語で,リーン監督のロード・ムービーの原点とも言えます。当時の映画界は,それ迄のスタジオ作製から,積極的な海外でのロケが導入され始めていました。違った場所に身を置くことで,いつもとは違う体験をする「旅情」では,出会いと別れがテーマになっています。去っていく汽車に向かって,高く掲げられたクチナシの白い花のコサージュが印象に残っています。その後のロード・ムービーにも汽車が登場しました。

 

「旅情」の次の作品は「戦場にかける橋」(1957年)で,第二次世界大戦のビルマ国境で起きた物語です。戦争もの,日本軍の捕虜キャンプという設定は,日本人として観ると辛いものがあるかもしれませんが,運命を共にした人間の物語として,戦争の意味(もしくは無意味さ),極限状態に置かれた人間の尊厳とは,と考えさせられた作品でした。究極の巻き込まれ型ロード・ムービーとも言えます。巻き込まれ,巻き込み,巻き込まれていく……,まるで人生そのものです。

 

そして,「戦場にかける橋」の成功のおかげで,大作を作ることができるようになり,「アラビアのロレンス」が制作されました。「戦場にかける橋」は第二次世界大戦,そして「アラビアのロレンス」は第一次大戦を舞台に,どちらの映画も,当時あまり聞きなれなかった場所に,イギリス人が登場します。戦争に巻き込まれ,運命を受け入れることなく,運命に立ち向かった主人公たち。やがて,その運命に呑まれていく……。

 

男女の世界を描いていたリーン監督は,男だけの世界を前面に打ち出すことで,非日常的な設定の中,人間の限界を幾度となく試しています。どちらの作品もロケを重視し,ある意味,映画の製作クルー(直接的),および映画の観客(間接的)は,登場人物の運命を再体験する巡礼の旅に出るような感があります。事実「アラビアのロレンス」では,砂漠シーンの撮影に5ヶ月が費やされ,スタッフは平均7キロから9キロ痩せたといいます。

 

「アラビアのロレンス」では,当時ほとんど無名だったピーター・オトゥール(ロレンス)と,オマー・シャリフ(アリ)を起用していますが,二人の視覚的なイメージ(白と黒のコントラスト)は素晴らしく,ロレンスのみならず,影のように寄り添うオマー・シャリフが重要な役割を果たしています。「ロード・オブ・ザ・リング」(200120022003年,ピーター・ジャクソン監督)のサムは,フロドに献身的でしたが,アリも良き友でした。

 

「ロード……」も「ロレンス」も,原作の解釈の際,アクションおよび視覚的なイメージが重視されています。映画化にあたり,「ロード……」には,男女共同参画の時代を反映して女性が登場しますが,「ロレンス」の方は男性一色です。原則として,どちらの作品も男の浪漫であり,エピック的な大作と言えます。作製においては,両作品とも,職人気質で細部にわたる配慮がなされ,映画というメディアの特性を最大限に生かした作品だと思います。これからも長く語り継がれていくことでしょう。

 

「ロード……」のエンディングは,困難の末,チームワークで目標を達成しますが,「ロレンス」では,挫折感を味わうところで終わっています。歴史的にも未だに解決していない中東問題を背景にしているのは象徴的です。だからといって,旅(ロード)の過程が決して無駄だったというわけではありません。映画というものは,言葉(脚本)を映像化しているわけですが,作者の頭の中のイメージ,想像力の育てた世界を,視覚的に表現する際,幾通りにも解釈が可能なわけです。史実に基づいたものは,ヒントであると同時に,制限でもあります。

 

「アラビアのロレンス」では,ファイサル王子を演じたアレック・ギネスは,オマー・シャリフのアラビア語のアクセントのある英語を参考に役づくりをして,シャリフを驚かせたそうですが,多彩な役柄を演じることができる俳優でした。デビッド・リーン監督の作品の常連で,「オリバー・ツイスト」のフェイギン(悪役),「戦場にかける橋」のニコルソン大佐など,印象的な役をこなしています。もちろん,「スター・ウォーズ」(197719801983年)の元祖オビ=ワン・ケノービもアレック・ギネスでした。ルーカス監督も,リーン監督に影響を受けたといいます。

 

デビッド・リーン監督の異文化巻き込まれ型ロード・ムービーはその後も続き,「アラビアのロレンス」の次作は,「ドクトル・ジバゴ」(1965年)でした。ロシア革命を背景に,数奇な運命に巻き込まれた男女の関係,生きる(ジバゴの意味)ということ,詩人であり医師であるジバゴの人生が,広大なスケールで描かれています。パステルナークの自伝的な原作は,ノーベル賞を受賞(1958)したにもかかわらず,ソビエト体制の下,辞退を強制されるという無念な事態に陥り,実に1987年まで本国で出版されることのなかった長編小説です。オマー・シャリフが主人公を演じ,アレック・ギネスは異母兄弟を演じました。

 

そして,リーン監督の最後の作品「インドへの道」(1984)は,反英感情の高まるインドで,イギリス人の女性が文化の摩擦や誤解から生まれた事情に巻き込まれていき,困難な運命に人を巻き込んでいくといったロード・ムービーでした。デビッド・リーン監督は,最後まで「割り切れないもの」にチャレンジし,難しい素材の視覚化に長け,今でも多くの映画監督や映画ファンに影響を与え続けています。

 

「アラビアのロレンス」の映画化については,言葉だけではなく,視覚的に語れるところがいいと答えていました。百聞は一見にしかず。題材は割り切れないものを採用していますが,映像には躊躇がなく,大胆かつ緻密な判断が下されていることが伝わってきます。映像の能率のよさ,コミュニケーション力はパワフルだと実感します。デビッド・リーン監督の映画人生こそ,簡単には割り切れない未知の領域へのチャレンジという旅(ロード)だったのかもしれません。

 

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コンペアー&コントラスト43

ロード・ムービー第三十七夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  f. フジヤマ・ゲイシャ」

 

本日,エジプトから来日している人に,「アラビアのロレンス」の感想を伺いました。今夜は雑談コーナーにしますね。

 

「あの映画のイメージで,今でもラクダに乗って,砂漠でテント暮らしと思われるのはちょっと……。」

 

「つまり,ステレオタイプ(紋切り型)だからイヤってこと?」

 

確かに,海外に出ると今でも「マダム・バタフライ a la フジヤマ・ゲイシャ」のイメージが根強く残っているので,なんとなくわかるような気がします。外国人の扮した蝶々夫人のあやしい白塗りが思い浮かびます。Un bel di, vedremo(「ある晴れた日に」)の感動的な歌唱と共に,視覚的なインパクトも強く,手っ取り早い日本のイメージとして,映画やテレビ番組に幾度となく登場します。

 

例えば,「007は二度死ぬ」(1966)のショーン・コネリー。日本人に変装しているという設定は,いくら007でも苦しい。舞台は,ちょっと懐かしい日本と,高度成長期(地下鉄など)の日本のブレンドです。(「チャーリーとチョコレート工場」の原作者ロアルド・ダールが,この映画の脚色を担当したと聞くと,もっと驚くかもしれませんね。)

 

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」(1972年)には,未来都市として,高度成長期の日本の首都高速が登場しますが,これまた,日本人として見ると不思議な感じがします。この映画の原作者スタニスラフ・レムは,映画は小説と全く違うと激怒したようですが,「アラビアのロレンス」の映画化権を売ったロレンスの弟も,映画のロレンスと兄は違うとクレームを付けたようです。何かと物議を醸し出している点では共通点があります。

 

そう言えば,「ブレードランナー」(1982年)は,近未来のロサンゼルスが舞台ですが,ゲイシャ・ガールっぽいのが出てきたし……。(リドリー・スコット監督は,その後1989年の「ブラック・レイン」を監督。) 他にも,日本が登場する映画を思い付きませんか。近年の流れは少し変り,アニメ,マンガ的な影響もありますね。「キル・ビル」(20032004),「ロスト・イン・トランスレーション」(2003),「ラスト・サムライ」(2003)なんて,どうでしょう。

 

ちなみに,プッチーニの「マダム・バタフライ」の舞台は,明治初期の長崎。初演(ミラノ)は1904年。J. L. ロング(アメリカ人)の小説をもとにしたオペラです。ロングは一度も日本を訪れたことがありませんが,大の親日家でした。日本に在住したロングの姉より聞いた実話をもとにしたお話しです。

 

伝統文化とステレオタイプ,理解と誤解は,時には紙一重であることもあり,文化を裏付ける意味のないスタイルだけが形骸化すると,なんだか気恥ずかしくて目も当てなれなかったり,がっかりしたり,場合によってはグロテスクでさえあります。映画や映像の影響力は大きいと感じます。

 

外国から見た日本のイメージは,「ちょっとヘン」,「明らかに間違っている」,「あやしい」から,「なかなか鋭い」,「一般の日本人より詳しい」まで多種多様。(「キル・ビル」は,文化の理解度に応じて別バージョンで対応。)

 

北野武監督の「BROTHER(2002)を観たアメリカ人映画友達の反応は,

 

「たけしさんは,監督として尊敬できるし,ユニークな創作活動をしていると思うけど,この映画に登場するアメリカ人は,めちゃ怪しいよ。ありえね~~~。逆に考えると,これが日本人の見たアメリカ人かな,なんて楽しんだけどね。」

 

映画「アラビアのロレンス」も,文化の外から見た場合と,アラビア文化の内側から見た場合とでは,かなり印象が違っているようですね。

 

「現代におけるエジプトでの生活は,日本とあまり変りませんよ。」

 

エキゾチックなイメージが先行して,違いだけが強調されるのは不本意のよう。

 

「でも,いろいろな意味での(西洋的もしくは日本的な)システムがないことは確かです。エジプトには,システムが必要だと思います。もう一つの問題は,盗人が多いこと。これはエジプトにとって,大きな問題だと思います。」

 

このことについて,いずれ詳しく聞いてみたいと思います。

 

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