第57回写真展 秋の瀬戸内紀行2007

勤労感謝の3連休、いかがでしたか。アメリカでは、サンクスギビング(感謝祭)の週末でしたね。こちらは秋晴れの3日間。いいお天気に恵まれ、紅葉もピークを迎えています。いつもブログを訪問してくださる皆様に感謝をこめて、11月に撮った写真と共に、瀬戸内紀行をまとめてみました。

まずは、岡山県瀬戸内市で開催された瀬戸内バルーンフェスティバル2007から始めることにしましょう。学生時代の友人の故郷、邑久(おく)町は、3年前に牛窓町と長船町と合併し、瀬戸内市が誕生したそうで、バルーンフェスティバルは、吉井川の河川敷で開催されました。青空に鮮やかな熱気球が浮かび、何だかワクワクしてきます。遠くからでも見えますし、川の土手から姿を現すと、走って見に行きたくなります。大人も童心に還って、楽しい一日を過ごすことができました。

また、このあたりに竹久夢二の生家があり、以前、友人が案内してくれましたが、夢二が少年時代を過ごしたという山野の美しさに、再び感動しました。のんびりとした田舎の風景がよく、吉井川に映える黄葉が夢のよう。備前福岡まで足をのばすと古い町並みが残り、長船(おさふね)には、平安時代から名刀を生み出した鍛冶の技が、今でも息づいています。

夕暮れ時になると、熱気球を一斉にライトアップする「バルーンイリュージョン」の準備が始まり、今度は吉井川の対岸から見ることにしました。だんだん冷え込み、暗くなるまで待てるかどうか不安になってきましたが、お隣で写真を撮っていたカメラマンから使い捨てカイロをいただき、身も心もぽっかぽか。お名前もお聞きしませんでしたが、どうもありがとうございました!!!
 
カウントダウンでバルーンイリュージョンが始まります。鏡のような水面に映し出され、暗闇に浮かぶ姿に息をのみました。その美しさに胸が震えます。見ることができてよかった!!!

それでは、少し熱気球メモ。立ち上る煙突の煙から、温めた気体を袋につめて飛ぶ着想を得たのはモンゴルフィエ兄弟(フランス)。ルイ16世とマリー・アントワネットの時代です。1783年に有人飛行に成功し、発明者の名前に因みmontgolfiereが、熱気球という名詞としてフランスで使われています。

ジュール・ヴェルヌ(仏)の「八十日間世界一周」(1872年)は、ビクトリア朝時代の小説ですが、近年、 気球による無着陸世界一周飛行のレースが展開されたことを覚えていらっしゃる方もいることでしょう。ハイテク素材を駆使し、1999年の3月に、約1/4の時間(19日21時間55分)で世界一周を達成しました。ヴェルヌの小説から127年です。ちなみに、日本の熱気球の初飛行は1969年だそうで、瀬戸内地方で初めて気球が飛んだのは、このバルーンフェスティバルが開催されている吉井川の河川からだったそうです。

なお、瀬戸内バルーンフェスティバルに参加している気球は高さ約20メートルだそうで、球皮(エンベロープ)を膨らませるため、液体プロパンガスを一気に加熱するバーナーの燃焼時に爆音と炎が出ます。気球の無重力状態から静けさを感じますが、ガスを燃焼させるため、ゴーーーっと大きな音が出るのに驚きました。しかしながら、炎のおかげで夜は暗闇に照らし出され幻想的です。気球は、気流が安定している早朝や夜間飛行に適しているそうです。
 
帰宅後、熱いお風呂に入って瞼を閉じると、色とりどりの気球や夢のような景色が浮かんでは消え、いい一日を追想しながら眠りにつきました。

次は、紅葉の小豆島(しょうどしま)を訪れることにしましょう。小豆島は瀬戸内海で二番目に大きな島。(淡路島に次ぐ。)周囲約140キロ、人口3.3万人。高速艇も出ていますが、のんびりフェリーで高松から約1時間。「二十四の瞳」、寒霞渓の紅葉、オリーブ、そうめん、醤油づくり等で有名な島です。

まずは、お猿さんのいる銚子渓に。途中、大観音が見えます。子どもの頃、妹がポケットに入れていたキャラメルを、猿に盗られて怖い思いをしたトラウマの場所ですが、今では理解が進み、何も持っていないと手のひらを見せるように指導してくれました。ここでも人間との対立ではなく、共存が大切なのだと感じます。

銚子渓には約500匹の猿がいるそうですが、ボス団十郎の率いるAグループ(300匹)と、トラさんの率いるBグループ(200匹)があり、写真に写っているのはトラさんのグループです。顔が赤くなると一人前だそうで、ちょうど繁殖期で気が立っているため、注意するようにとのことでしたが、今回は事なきを得て楽しい一時を過ごしました。

寒霞渓は紅葉の名所と聞いていましたが、納得。見事な眺めを堪能しました。次は、「二十四の瞳」の舞台になった岬の分教場に向かいます。小説を書いた壷井栄の生まれ故郷でもあり、主人公、大石先生が自転車で通ったという海岸線の風光明媚な景色が何とも爽やか。昭和3年から戦後にかけて、女教師と子どもたち(12人の生徒)の絆が真摯に描かれています。

「二十四の瞳」は、何度も映画化、TV映画化されていますが、1954年に公開された木下恵介監督、高峰秀子主演の映画が始まりです。浅間義隆監督、田中裕子主演で、1987年に再び映画化された時のロケ地が、映画村として残されています。敷地内に坪井栄文学館もあり、昭和初期の民家や学校、海辺の五右衛門風呂、ボンネットバス(子どもたちがケガをした先生に会いに行く時に、先生を見つけたバス)等が再現されています。

ここで、コブダイ(魚)に餌をやることもできます。輝く海とコスモスの咲き乱れる懐かしい空間でした。また、土庄港には、「二十四の瞳」を題材にした有名な『平和の群像』があります。

壷井栄は1899年に醤油の樽職人の五女として生まれ、近所に住みついたお遍路さんの子どもと噂される二人の孤児を父親が引き取り、12人の兄弟姉妹の一人として育ちました。父親が借金の証判をしたため、12歳の時に破産。「二十四の瞳」は、53歳の時に発表した小説です。写真を見ると、「お母さん」といった感じの方ですが、子どもはいなかったそうです。喘息のため、1967年に67歳で亡くなりました。最期の言葉は、『みんな仲よく』。

瀬戸内市の牛窓もオリーブで有名ですが、小豆島は、日本で初めてオリーブの栽培に成功した地だそうで、来年で100周年を迎えるそうです。ギリシャのミロス島と姉妹都市提携を結び、眺めのよい小高い丘にあるオリーブ公園にはギリシャ風の建物が見えます。近くには孔雀園があり、美しい鳥が放し飼いになっていました。小顔に長い首、つぶらな瞳……。手塚治の「火の鳥」を思い出します。それから、ちょっと西テキサス(ビッグべンド)のような景色も見つけて、びっくり。

そろそろ、土庄港に戻ることにしましょう。世界で一番狭い海峡と認定(ギネスブック)されている土渕海峡を渡りますが、たったの数歩で渡ることができます。海峡というイメージからほど遠く、小さな川のようですね。

さて、島とは何なのでしょうか。少し調べてみました。大陸(オーストラリアより大きな陸地)と区別され、日本の場合、本州だって全て島なんですよね。島の定義は3つ、自然に形成された陸地であり、水に囲まれていること、満潮時に水没しないこと。(海上から常に1m以上出てなくてはなりませんし、1本でも木が生えていなければ、岩と見なされるそうです。)

今度は直島を訪れることにしましょう。高校時代のバンド仲間ハマさん、アヤ、マヨちゃんと行ってきました。島全体がアートしています。小豆島行きと同じく、高松からフェリーで約1時間。まずは、草間彌生さんの「赤かぼちゃ」が宮浦港で出迎えてくれます。勝手にladybug(てんとう虫)と呼んでいますが、記念撮影に人気のスポットです。春に来た時は島つつじが満開でしたが、今回も晴天に恵まれ、屋外でアートを楽しむのに最適でした。

直島スタンダードIIで公開されたインスタレーション(古い民家を使った現代美術展)が、新たに家プロジェクトに加わり、アートが地域の空間に益々溶け込んでいます。

以前も書きましたが、ジェームズ・タレルの南寺はインパクトがあります。可視可能な僅かな光を使った作品で、言葉でも写真でも表現することができず、まさに体験するアート。地中美術館内にもタレルの作品がいくつかあり、「オープン・フィールド」は補色のコンセプトとスロープ(なだらかな斜面)を使った作品で、光の異空間に足を踏み入れます。まるでTVの中に入ったようでした。

そして、家プロジェクトの第一号、「角屋(かどや)」に設置されたSea of Timeも素晴らしい。宮島達男さんの作品は、仄暗い民家の床一面に水を張り、125個のLEDデジタルカウンターの数字が明滅。それぞれの発光ペースが違っていて、まるで人生を比喩・示唆しているようです。もちろん見る人によって様々な受け止め方ができるわけですが、「急ぐことはない、自分のペースで生きろ」と聞こえてくるようでした。

安藤忠雄氏の設計した地中美術館は、建物自体がアートであり、作品と展示空間と建物が一体と化し、独特の美学(aesthetics)を体感できるようになっています。沢山の作品が所狭しと並べられている従来の美術館とは全く対照的なコンセプトで、ひとつの作品をじっくり見せる究極のスペースとは、いかなるものかと考えさせられました。

いやぁ、充実した一日でした。ハマさん、フェリーの中の会話も盛り上がり、めちゃ楽しかったです。パーフェクト・ストームならぬ瀬戸の凪はPerfect Day!(楽屋落ち)

それから、Janus words(auto-antonyms もしくはamphibolous words)と呼ばれる両面語や矛盾語の話ができて、as good as it gets! Janusは二つの顔を持つというローマ神ヤヌスに由来し、1月の語源(January)にもなっています。よく西洋で、大晦日から元旦にかけてのイメージとして、赤ちゃんを肩に乗せた老人が描かれていますが、古くて新しいものは、最大(12、終わり)が最小(1、始まり)になるもの。また、泣き笑いの仮面が演劇のシンボルになっていることも思い出します。同時に正反対の意味を持つ語、あべこべ語、何か思い付きましたか?

それでは、四国の屋島(※今では陸続きで島ではありませんが、メサ地形を代表するテーブル型の山)から瀬戸内海を眺めてみることにしましょう。高松のランドマークであり、源平の古戦場でもあります。眼下に、鬼が島としても知られる女木島、そして、2月に水仙を訪ねた男木島が見えますね。女木島へは赤いフェリー(めおん)で高松から約20分、男木はさらに20分。小さな島を訪れるのも楽しいものです。コンビニはありませんが、海と空の青さを満喫できます。

遠くに瀬戸大橋が架かっているのですが、マリンライナーで橋を渡り、高松から岡山へ約1時間で行くことができます。以前は連絡船で本州と四国を結んでいましたが、今では鉄道、車、フェリー、そして飛行機の選択があります。

最後に、職場と家の近所で見つけた紅葉を紹介させてください。身近なところにも季節の美しさを感じます。

フォトアルバムで、「第57回写真展 秋の瀬戸内紀行2007」を開催中です。よろしければ、ご覧になってくださいね。

1 瀬戸内バルーンフェスティバル2007(写真001~081)
2 紅葉の小豆島(写真082~183)
3 アートの島 直島(写真184~232)
4 屋島からの眺め等(写真233~248)
5 近所で見つけた秋(写真249~293)

第56回写真展 テキサスからの絵葉書

3年ぶりに訪れたアメリカの故郷テキサス。お墓参りと追悼会の出席が主な訪問の目的でしたが,短い訪問にもかかわらず,思い出の地を訪れ旧交を温め,まさにホーム・カミングでした。

せっかくですので,この機会に御案内させてください。まずは小型機に乗って上空から見てみることにしましょう。白い塔が見えてきました。サンジャシント・モニュメントです。テキサス州はローンスター・ステート(一つ星の州)とも呼ばれていて,モニュメントの頂にある星は,「ローンスター」を象徴しています。1836年の旗が一つ星だったことに由来し,現在の州旗や州章にも一つ星がアレンジされています。

アラモの戦い(サンアントニオ)で大打撃を受けたテキサス軍でしたが,その約2か月後,1836年4月21日に,サム・ヒューストン将軍の率いるサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破り,テキサスの独立を記念して塔が建てられました。地名ヒューストンは,サム・ヒューストンに因んで名付けられたそうです。

メキシコ軍の兵力(6000人)と比べようもないほど小さなテキサス軍(183人)。アラモの砦は,まさに映画「300」(スリーハンドレッド)に登場するホットゲートことテルモピュライの世界。しかも,スパルタのような地の利はなく,また,エリート軍団でもなく,各地から応援に馳せ参じた寄せ集めのボランティア・グループでした。アラモも300も勝てる見込みのない戦です。少数人数ながら13日間持ち堪え,最後まで諦めなかった勇気はテキサス伝説になっています。

そして,アラモから約2か月後。サンジャシントでも背水の陣でしたが,蛇行する川の激流スポットを使った奇襲作戦で勝利に。その地に記念塔が建てられました。男性のみならず,「テキサスの黄色い薔薇」と呼ばれる女性が,奇襲に一役を担ったと伝えられており,アラモやイエロー・ローズ(黄色い薔薇),そしてローンスター(一つ星)は,テキサスのシンボルになっています。

ガルベストン方向(南)に,朝陽のオレンジ色に染まったメキシコ湾が見えてきました。地元の新聞編集者の名前を冠するベイタウンの斜張橋のシルエットが逆光に浮かびます。夕暮れ時も素敵なスポットです。車で通行できる海底トンネルがあった場所ですが,大型船を通すために運河を更に深く掘るため,橋が架けられたそうです。1995年に開通しました。

ガルベストンの上空を飛び,ヨットの停泊するマリーナはキーマで,NASAを見学した帰りによく立ち寄ったものです。ボードウォークには,シーフード・レストランが並び,遊園地もあります。木製のジェットコースターは,ついオープンしたばかり。近接するシーブルックあたりは,宇宙飛行士や職員が住んでいる地域でもあります。

実は,このあたり一帯,工場萌えなんです。ガルベストンからヒューストンまで,50マイル(約80キロ)の運河沿いに,石油・ガス精製所や化学工場が並びます。夜は,クリスマスツリーと呼ばれる工場の明かりが星のように輝き,暗闇に何マイルも続く様子は圧巻。まるで星空に舞い降りたようで,知る人ぞ知るデートコースでもあります。

船の方向転換ができるヒューストン港は,ダウンタウンのすぐそばなんですよ。ヒューストン港は全米第2位,世界で10位にランクされているそうですが,運河沿いに大型船が出入りしているのが見えますね。テキサスや,アメリカのパン籠と呼ばれる中西部一帯の収穫を集積する穀物倉庫も見えます。輸入に関しては,日本からの車が着岸するのも,このあたりなんです。広大な駐車場に荷揚げされた新車が整然の並ぶ様子は見事で,ここから専用トラックや貨車で出荷されます。貨物やコンテナを積んだ長い列車が見えますか。

ヒューストンのダウンタウンが見えてきました。ダウンタウン周辺のランドマークも紹介しておきましょう。1962年にオープンした世界初のドーム球場アストロドームは,老朽化が目立ち始め,代わりに新しいスタジアムが建てられました。スタジアムの奥に,まだドームの屋根が見えますね。ここでアメフトやロデオ,各種イベントが開催されます。野球はアストロドームから,新しい球場ミニッツ・メイド・パークに移りました。こちらは,エンロン・フィールドと呼ばれていたのですが,エンロン社が破たんしたため命名権を失い改名されたという曰く付き。約5年前の出来事です。

テキサスといっても広いので,ここで参照データを少し。テキサス州の面積は日本の約1.8倍,アラスカに次ぐ大きな州です。あまり知名度がありませんが,全米トップ20(人口)にランキングされている都市の1/4がテキサスにあります。ヒューストンは全米第4位,そして,近年,ダラスを抜いてサンアントニオが7位に浮上。ダラスは8位に。州都オースティンは16位,フォートワース19位と続きます。

よく聞かれるのは,ヒューストンは砂漠かという質問ですが,どちらかというと東テキサスからルイジアナ州に続く湿地帯の端に位置し,南部独特の川バイヨー(bayou)が流れ,松の木の森林地帯があります。その昔は林業が栄え,今でもウッドランドという林に囲まれたベッドタウンが,すぐ北にあります。そして,ヒューストンのニックネームはバイヨー・シティ,川の街なんですね。また,このあたりは石油が出ますし,少し北に行くと恐竜の足跡が残っていて,とってもジュラシックです。前出の旧アストロドーム一帯や,ダウンタウンの下にも石油が埋蔵されていたそうですよ。

映画「ジャイアンツ」でジェームズ・ディーンが演じたジェット・リンクは,石油王グレン・マッカーシーがモデルだそうで,マッカーシーが建てたシャムロック・ホテル周辺は,全米でも屈指の医療機関メディカル・センターになっています。アイルランド系のマッカーシーが全て緑でコーディネートしたホテルは,数年前に閉鎖されたものの,全盛期はハリウッド・スターが集う場所でした。なお,シャムロックはアイルランドの国章でもあり,クローバーに似た緑の植物です。

また,良かれ悪しかれヒューストンの名物男ハワード・ヒューズ氏は,ヒューストン生まれです。父親の代に石油採掘の掘削機で巨額の富を築き,奇人ぶりもハンパではなく,飛行機と映画に執心していた様子は,マーティン・スコセッシ監督の映画「アビエイター」(2004年)に描かれています。レオナルド・ディカプリオがハワード・ヒューズを演じました。

ヒューストンのスカイラインに戻りますと,一番高いビルはJPモルガン・チェース・タワーです。ルーブル美術館のピラミッドで有名な中国系アメリカ人建築家イオ・ミン・ペイのデザインで,1981年に完成しました。それでは,そろそろ飛行機から降りて,地上からダウンタウンを見てみることにしましょう。

雲の影を映しているビルは,ヘリテッジ・プラザです。天辺はユカタン半島(メキシコ)のマヤ遺跡(ピラミッド)をイメージしているそうで,まるで古い建物が新しいビルの中からのぞいているようですね。1987年に完成しました。

映画「夕べの星」(1996年,同じくヒューストンを舞台にした「愛と追憶の日々」の続編)で,主人公オーロラ(シャーリー・マクレーン)の車が故障するシーンに,このヘリテッジ・プラザが登場します。高速が幾重にも重なるこのあたりで,恐ろしいことに,私の車もエンコしたことがありますが,何人もの人が速度を落とし,「大丈夫ですか」と声をかけてくれたのを覚えています。

「愛と追憶の日々」や「夕べの星」の原作者ラリー・マクマートリーの直筆原稿が,さり気なくレストランの壁にかかっていたりしますが,最近では「ブロークバック・マウンテン」(2005年)の脚本を手掛けていて,テキサスや西部を代表する現代作家の一人だと思います。有名人というよりは,ローカルな本屋のおじさんです。

ヘリテッジ・プラザのお隣のホテルやダウンタウン周辺は,映画「パリ,テキサス」(1984年)の舞台になったロケ地ですが,まだヘリテッジ・プラザはありませんでした。お向かいの駐車場から,ホテルの一室で母(ナターシャ・キンスキー)と息子が再会するのを確かめ,そっと立ち去る父親……。夕焼け空の国道45号線を,ピックアップ・トラックで北に向かう場面を覚えていらっしゃる方もいることでしょう。ライ・クーダーのギターが流れていましたっけ。

私たちは,45号線を南下することにしましょう。今回の旅のもう一つの目的,バイヨー杯ことバイヨー・バケツの観戦に向かいます。恒例のアメフト戦,地元2校の対決(ヒューストン大学 対 ライス大学)です。バイヨー(川)の水は杯には入りきらないのでバケツでと,ユーモアもたっぷり。

まずは,駐車場で開催されるテールゲート・パーティーに招待されていました。もともとは,ピックアップ・トラック等のテールゲート(後ろの扉,尾板)で,BBQや持ち寄りのスナックや飲み物で,試合前に屋外の宴会を開いたのが始まりです。今では,テントを張り,屋台が出たり,ムーンウォーク(膨らませて使う子どもの遊び場)を設営したり,フェイス・ペインティングしたり,お祭りのようです。同窓生の交流の場でもあり,大いに盛り上がります。私と親友は,一緒にブラウニーとクッキーを焼いて持参しましたが,大好評でした。

なんだかスタジアム入口付近がザワザワしてきました。マーチングバンドやドラム隊の演奏に引き続き,選手の入場です。ヒューストン大学のマスコット,クーガーの手に因み,「ピース」サインに小指を立てて応援します。テキサス版まねき猫といった感じでしょうか。にゃお!

お気付きになったことかと思いますが,ヒューストン大学のスクール・カラーは赤。皆,赤を身にまとい応援します。おっと,赤Tシャツの海原に,黒いTシャツが……。背中に書かれた文字は,天国か地獄かヒューストン(Heaven Hell or Houston)。どれもHから始まりますね。友人が,「ヒューストンか天国か地獄の選択があるんだね」と,ポツリ。大爆笑しました。

試合は高得点ゲームになり,最終スコアは56対48。最後までヒヤヒヤしましたが,母校ヒューストン大学が勝ち,仲良しグループと楽しい1日を過ごすことができました。

それでは,友人,知人のアトリエを訪れてみることにしましょう。彫刻家デヴィッド・アディケスさんは,スタジオを一般公開しているので写真を撮らせていただきました。まず目に入ったのは,大統領の胸像や頭。フォークリフトや車,建物の高さに注目してください。だいたいの大きさの見当がつくと思いますが,約6メートルの高さがあります。きっと見覚えのある姿もあることでしょう。完成したものは,歴代大統領の胸像を設置したプレジデント公園(サウスダコタ)にありますが,ここでも試作を間近に見ることができます。

アディケスさんの作品では,テキサスの独立に貢献したサム・ヒューストンの像(全身)が有名ですが,45号線を北上した場所に設置されています。高さ約20メートル半と,スケールの大きな作品です。古い工場を利用した仕事場の一角に,ビートルズ像も見えます。大きさがピンと来ないでしょうから,サム君にビートルズの前に立ってもらいました。かなり大きいことがわかると思います。以前からアディケスさんとは面識がありましたが,今回,アトリエを訪れたのはサム君の提案でした。

サム君の子犬ラファエルと遊んだり,折り紙を折ったり,パイナップルを植えたり,セレブがダンスを競う人気TV番組Dancing with the Starsを一緒に見たり,とっても楽しかったです。何年か前にパイナップルを食べた後の葉を植えたのですが,ちょうど熟れていたので試食してみました。何年もかけて結んだ実は,こぶし位の大きさで,小さいものの甘くて美味しいのには驚きです。次回アメリカを訪れる時の楽しみに,また植えてみました。

うっすら羽のような形をした白い毛が,子犬の背中に混ざっているので,サム君が天使の名前を付けたそうです。もちろん,宿題もみてあげました。このように,さり気ない普段の生活に触れられたことが,一番よかったのかもしれません。

ヒューストンで最初のサンクスギビングやクリスマスに招待してくれたサム君の母は,アメリカのベストフレンドです。「私たちはファミリーなんだから,自分の家と思って帰ってきてね」という彼女の言葉に,胸が熱くなりました。幸せな一時をありがとう!!!

(アメリカからの絵葉書 その2)

「第56回写真展 テキサスからの絵葉書」を,フォトアルバムにて開催中です。よろしければお立ち寄りください。

NOVA その後

NOVAが会社更生法の申請をしたため,外国人講師7人から相談を受けたと書いたところ,沢山の方に心配していただきました。お心遣い,本当にありがとうございます。その後のことを少し書いておきますね。

今回の件は,外国人講師のみならず,受講料を前納した多くの生徒さんたちを巻き込んでおり,社会的にも,経済的にも,対外的にも迅速な解決が望ましいことは言うまでもありません。その後,当初相談を受けた7人に加え,約15人の外国人講師から相談を受けました。

この方たちの多くは,既に労働基準監督署に相談に行き,大まかな手続きの流れは把握できたものの,手続きに時間がかかる可能性が高いため,外国語で生活相談や支援のできるところを探していました。しかしながら,なかなかワンストップ(一か所)で用が足りるところはなく,事件が起きた直後は,今後の見通しの悪さもあり,大きな不安を抱えていたのも無理はありません。

まずは,信憑性のある情報,そして,役に立つ情報を提供するということです。そして,何ができるのか,できないのかということを明確にしなくてはなりません。言葉の壁はありますが,自立した人たちのグループです。本人たちの自主性を生かし,ハローワーク,大使館,NOVA関係の組合等に連絡してもらい,情報交換会を持ちました。

私に協力できることは,主に言語面でのサポートと情報提供です。法律相談や地域の国際交流団体に相談する際,同行し通訳を担当しました。また,ビザの件で入国管理局に問い合わせ等,本人から直接聞きにくいことを問い合せる際,協力させていただきました。

本日のニュースを検索してみますと,経営再建を支援する企業として12社が名乗り出ていることが伝えられています。保全管理人が1カ月以内に支援企業を探す予定でしたが,時間と共に企業価値の劣化が進むため,選定作業の前倒しを考慮しているようです。まだ資産査定ができていないため,現時点では,会社更生手続きが始まっても経営再建できるか不明ではありますが,早ければ来週から,支援企業の選定作業を本格化させるとのこと。

そのような状況の中,子どもの英会話教室ミネルヴァが,NOVAの外国人講師を100人程度採用すると発表したことが報道されています。NOVAの外国人講師は,全国で約4,000人いるとのことですが,全員でなくても,このような機会が提供されることは,希望があります。生活支援にしても,全員を支援できるところはなくても,一人なら受け入れていただけるところがありました。例えどんな小さなステップでもかまいません。一人から始めることが大切だと思います。まさに,塵も積もれば……,千里の道も……です。

ところで,novaとは天文学用語で新星(激変変光星)のことを意味しますが,語源はラテン語で,現在では英語や他の言語として使われています。本来,新しさや未知の可能性を示唆する言葉です。

しかしながら,スペイン語では,no vaと言うと,動詞「行く(ir)」の3人称単数現在形va+否定形no(語順はnoが動詞の前に出ます)。その昔,米ゼネラル・モーターズ社シボレーからNOVAという車が出ていましたが,ヒスパニック系(スペイン語圏)の方たちから,no go = エンコ,作動しない,ダメを意味すると,倦厭されていたのを思い出します。ピンクのうさぎがズッコケた感じでしょうか。何とか解決に向けて,動いて欲しいものです。そして,新しい星が輝きますよう!