美の地域性・美の普遍性
2006/11/04 コメントを残す
21年ぶりに帰国して,丁度2年になりました。試行錯誤と反省の連続ですが,日本発見・再発見の日々は,それなりに楽しく新鮮です。2年前の今頃も,秋の冷たい空気が,夏の残り陽に温められて,日中は暖かく,インディアン・サマーのようでした。透明に輝く光が,街路樹を秋色に染め上げていく美しい季節です。
さて,地元の美術館で,「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」が開催されていますが,先週末,松岡正剛氏の記念講演会に行ってきました。講義のタイトルは,『イサムの和・ノグチの洋』。東と西,和と洋というテーマは,私自身のテーマでもあり,帰国2周年の節目にふさわしく,今夜は,松岡氏の講演の感想等,思いつくままに書いてみます。
日本人の父と米国人の母を持つイサム・ノグチ(1904-88)は,日米両国で育ち,その後,国境を越え,世界的スケールで芸術活動を続けた彫刻家です。普遍的な美を追求しつつ,それぞれの地域(コミュニティー)に根ざした様式,とりわけ和のかたちを,内から,そして,外から見ることができたのは興味深いものです。その作品は,具象・抽象から,大きなもの・小さなもの,そして,実用性に富むものまで多様です。
芸術家とは,元来,矛盾を孕む存在であり,その矛盾を創造力に変えることが,芸術の効用の一つなのではないのかと考えますが,イサム・ノグチにとって,日本とアメリカ,そして,東と西の文化の吸収こそが,新たなアートを生み出す原動力でした。
以下は,松岡氏講演のメモからです。(イサム・ノグチにまつわるキーワード)
1 二項同体(清沢満之)
2 絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)
『二項対立』(正 vs. 反,善 vs. 悪,正義 vs. 罪,黒 vs. 白,天 vs. 地,etc.)と対比をなす概念。二項対立は,西洋の『理』(ロジック)の源泉にあり,また,サイエンスを生み出したが,二項同体は,矛盾のまま生かすというもの。
イサム・ノグチの作品は,いくつかの大きな軸(芯)のまわりに,例えば,和と洋,東と西,天(宇宙)と地(地球),極大・極小,人体と森などが共存し,yin yang(陰陽)や凹凸が,繰り返しモチーフとして登場する。イサム・ノグチのアイデンティティーそのものである。(『悶着(パラドックス)がイサム・ノグチ』)
3 イサム・ノグチの分母にある東と西の融合
a. ブランクーシとの出会い
b. 世界の旅 → 東洋の(再)発見
c. 石(悠久の時間)との出会い
彫刻の限界を破る旅(反逆の旅)
↓
日本へ
↓
庭の発見(コンセプト)
『日本庭園は空間の彫刻である』(地球を掘る)
4 日本の庭
a. 『石の乞はんに随う』(石が置きたいところに置く,「作庭記」より)
b. 重森三玲(東福寺)との出会い:「枯山水」 → 空気
5 不足の美(和の本質): わび・さび
a. 引き算の美 (一番欲しいものを引くことで見えてくるもの)
例:枯山水の水
b. 不完全な何かを残す (『完全なものは,面白くない』) → 永遠
c. あえて仕上げずして,想像力において完成させる (『まだちょっと』)
私にとって,最後の『あえて仕上げずして,(受け手の)想像力において完成させる』は,特に興味深いもので,洋の東西を問わず,多くの先生方(アーティスト)から受けたアドバイスでもあります。アクセント(個性と土地性)はそれぞれユニークなものですが,芸術家の共通語のようなものと言っても差し支えないのかもしれません。
例えば,西洋には,Negative Space(ネガティブ・スペース)というコンセプトがありますが,ものを取り囲む空白の部分,すなわち余白の部分のことで,素人目には無駄なスペースであったり,ついつい書き込みしたくなったりするのですが,この空白の使い方をどれだけ把握しているかが,美もしくは芸術的価値に大きく作用します。
例えば,デッサンの白と黒のバランス,空間の使い方(レイアウト)を学ぶ時,完成の一歩手前で筆(手)を置くことが大切だと言います。芸術家の先生方の制作の場に立ち会う機会がありましたが,刻一刻と変わる姿に一瞬たりとも目が離せませんでした。しかしながら,経験を積んだ先生方でさえ,魔が差したように,一筆,一削り多くして,ピークを越えてしまうことがあります。数々の幻の名作は,そっと心にしまっておくことにしましょう。
『想像力において完成させる』部分は,送り手(芸術家)と受け手の共同作業によって生まれるものであり,芸術家との会話を楽しむことができる部分でもあります。コミュニティー(地域)に根ざした芸術を重視したイサム・ノグチにとって,自分自身のアイデンティティーに繋がった和の様式に,美しさを見出したことは,全く偶然ではないと感じます。
空白・間・余韻の美しさは,美術(造形)のみならず,音楽やダンス・演劇にも見ることができます。イサム・ノグチが,彫刻に止まらず,マーサ・グラハムの舞台装置のデザインや,暗闇を照らす照明を手がけたこと。そして,場の持つ意味を知り,空気を読み,素材(石)の声に耳を澄ませたこと。和と洋の本質に触れながら,全てが一つの円を描くように,普遍的な美にたどり着いたのではないのかと,世界中から集められた約70点の作品を前に感じました。
松岡氏は,インターネット上で書評『千夜千冊』を展開し,つい先頃,千冊(プラス144冊)の書評をまとめた本を出版されたとのことで,話題に関連するコンセプトを適材適所,自在に,かつ流暢に,将棋の駒を指すごとく,エレガントに頭の中の引き出しから取り出してくれました。
そして,もう一つ興味深かったのは,松岡氏が千冊を語る際,その本を読んだ時のことを思い出したり,その時の記憶が鮮やかに甦ってきたりすることが,面白かったと話されていたことです。ささやかながら,ここで映画を語る時にも同じような楽しさがあり,ブログを書くことのボーナスでもあります。
次回は,帰国2周年記念第二弾として,最も印象に残った(ヒント:観た時の状況が最も作用した)映画について書いてみようと思います。