美の地域性・美の普遍性

21年ぶりに帰国して,丁度2年になりました。試行錯誤と反省の連続ですが,日本発見・再発見の日々は,それなりに楽しく新鮮です。2年前の今頃も,秋の冷たい空気が,夏の残り陽に温められて,日中は暖かく,インディアン・サマーのようでした。透明に輝く光が,街路樹を秋色に染め上げていく美しい季節です。

さて,地元の美術館で,「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」が開催されていますが,先週末,松岡正剛氏の記念講演会に行ってきました。講義のタイトルは,『イサムの和・ノグチの洋』。東と西,和と洋というテーマは,私自身のテーマでもあり,帰国2周年の節目にふさわしく,今夜は,松岡氏の講演の感想等,思いつくままに書いてみます。

日本人の父と米国人の母を持つイサム・ノグチ(1904-88)は,日米両国で育ち,その後,国境を越え,世界的スケールで芸術活動を続けた彫刻家です。普遍的な美を追求しつつ,それぞれの地域(コミュニティー)に根ざした様式,とりわけ和のかたちを,内から,そして,外から見ることができたのは興味深いものです。その作品は,具象・抽象から,大きなもの・小さなもの,そして,実用性に富むものまで多様です。

芸術家とは,元来,矛盾を孕む存在であり,その矛盾を創造力に変えることが,芸術の効用の一つなのではないのかと考えますが,イサム・ノグチにとって,日本とアメリカ,そして,東と西の文化の吸収こそが,新たなアートを生み出す原動力でした。

以下は,松岡氏講演のメモからです。(イサム・ノグチにまつわるキーワード)

1 二項同体(清沢満之)
2 絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)

『二項対立』(正 vs. 反,善 vs. 悪,正義 vs. 罪,黒 vs. 白,天 vs. 地,etc.)と対比をなす概念。二項対立は,西洋の『理』(ロジック)の源泉にあり,また,サイエンスを生み出したが,二項同体は,矛盾のまま生かすというもの。

イサム・ノグチの作品は,いくつかの大きな軸(芯)のまわりに,例えば,和と洋,東と西,天(宇宙)と地(地球),極大・極小,人体と森などが共存し,yin yang(陰陽)や凹凸が,繰り返しモチーフとして登場する。イサム・ノグチのアイデンティティーそのものである。(『悶着(パラドックス)がイサム・ノグチ』)

3 イサム・ノグチの分母にある東と西の融合
  a. ブランクーシとの出会い
  b. 世界の旅 → 東洋の(再)発見
    c. 石(悠久の時間)との出会い
 
  彫刻の限界を破る旅(反逆の旅)
  ↓
  日本へ
  ↓
  庭の発見(コンセプト)
  『日本庭園は空間の彫刻である』(地球を掘る)

4 日本の庭
  a. 『石の乞はんに随う』(石が置きたいところに置く,「作庭記」より)
  b. 重森三玲(東福寺)との出会い:「枯山水」 → 空気

5 不足の美(和の本質): わび・さび
  a. 引き算の美 (一番欲しいものを引くことで見えてくるもの)
    例:枯山水の水
  b. 不完全な何かを残す (『完全なものは,面白くない』) → 永遠
    c. あえて仕上げずして,想像力において完成させる (『まだちょっと』)

私にとって,最後の『あえて仕上げずして,(受け手の)想像力において完成させる』は,特に興味深いもので,洋の東西を問わず,多くの先生方(アーティスト)から受けたアドバイスでもあります。アクセント(個性と土地性)はそれぞれユニークなものですが,芸術家の共通語のようなものと言っても差し支えないのかもしれません。

例えば,西洋には,Negative Space(ネガティブ・スペース)というコンセプトがありますが,ものを取り囲む空白の部分,すなわち余白の部分のことで,素人目には無駄なスペースであったり,ついつい書き込みしたくなったりするのですが,この空白の使い方をどれだけ把握しているかが,美もしくは芸術的価値に大きく作用します。

例えば,デッサンの白と黒のバランス,空間の使い方(レイアウト)を学ぶ時,完成の一歩手前で筆(手)を置くことが大切だと言います。芸術家の先生方の制作の場に立ち会う機会がありましたが,刻一刻と変わる姿に一瞬たりとも目が離せませんでした。しかしながら,経験を積んだ先生方でさえ,魔が差したように,一筆,一削り多くして,ピークを越えてしまうことがあります。数々の幻の名作は,そっと心にしまっておくことにしましょう。

『想像力において完成させる』部分は,送り手(芸術家)と受け手の共同作業によって生まれるものであり,芸術家との会話を楽しむことができる部分でもあります。コミュニティー(地域)に根ざした芸術を重視したイサム・ノグチにとって,自分自身のアイデンティティーに繋がった和の様式に,美しさを見出したことは,全く偶然ではないと感じます。

空白・間・余韻の美しさは,美術(造形)のみならず,音楽やダンス・演劇にも見ることができます。イサム・ノグチが,彫刻に止まらず,マーサ・グラハムの舞台装置のデザインや,暗闇を照らす照明を手がけたこと。そして,場の持つ意味を知り,空気を読み,素材(石)の声に耳を澄ませたこと。和と洋の本質に触れながら,全てが一つの円を描くように,普遍的な美にたどり着いたのではないのかと,世界中から集められた約70点の作品を前に感じました。

松岡氏は,インターネット上で書評『千夜千冊』を展開し,つい先頃,千冊(プラス144冊)の書評をまとめた本を出版されたとのことで,話題に関連するコンセプトを適材適所,自在に,かつ流暢に,将棋の駒を指すごとく,エレガントに頭の中の引き出しから取り出してくれました。

そして,もう一つ興味深かったのは,松岡氏が千冊を語る際,その本を読んだ時のことを思い出したり,その時の記憶が鮮やかに甦ってきたりすることが,面白かったと話されていたことです。ささやかながら,ここで映画を語る時にも同じような楽しさがあり,ブログを書くことのボーナスでもあります。

次回は,帰国2周年記念第二弾として,最も印象に残った(ヒント:観た時の状況が最も作用した)映画について書いてみようと思います。

変わる・変われない2a

世界を変えるのか・自分が変わるのか1 

昨年度の今頃のブログを見てみますと,2月から約8か月,ロード・ムービーというテーマで書き続けていましたが,丁度その頃,別のテーマで書いてみたくなり,連載をお休みすることにしました。次回は,1年ぶりにロード・ムービーを再訪する予定ですが,まずは,ロード・ムービーとブログの共通項等,思いつくままの感想から始めることにしましょう。

例えば,ここでは映画というメタファーを通していますが,私にとって,ブログとは,自己探求のプロセスであり,自分を表現する一つの場であります。それは,人生という旅を記録するということであり,ロード・ムービーと比喩的に重なる部分があるのではないのかと感じます。

つまり,ロード・ムービーもブログも,パーソナルな視点から語られ,結果や動機(これらが重要なこともありますが)より,旅(人生)のプロセス(過程)に重きが置かれているということです。今の積み重ねの記録こそが,ブログでありロード・ムービーとすれば,例え回想という形をとるにせよ,ブログもロード・ムービーも,基本的に現在進行形です。

例えば,自分を中心に同心円を描いたとすると,芯(核)になる自分を取り巻く他者,そして環境(人為的なもの・自然を含む)が広がり,自分の外側にある円を体験するのと同時に,それぞれとの関わりを通して,限りなく内省することも可能であるということです。

これは,中心に自己を置いた西洋的な考え方に発端があるものの,孫子の<己を知り,他者を知り,まわりを知る>と言い換えると,わかりやすいかもしれません。孫子(Sun Tzu, The Art of War)は,洋の東西を問わず,歴史的な主要人物に広く引用され,今日では,西洋のビジネス・ストラテジーを学ぶうえで,欠かせないコンセプトの一つになっています。

この東洋的なものと西洋的なものというテーマは,西洋と東洋で生きてきた私にとって大変興味深いものであり,友人との会話が自然と落ち着く場所でもあります。もちろん,この類のトピックは,一つだけ正しい答えがあるというわけではなく,いろいろな可能性があるところが魅力でもあります。

例えば,私の親友(アメリカ人)が,仏教の僧侶(日本人)に,キリスト教との違いを尋ねたことがあります。「もし,世界が釘で覆われていたら,キリスト教徒は釘を抜き(住みよい世界に変える→世界を変える),仏教徒は釘と共存する(環境に適応する→自分を変える)だろう」と,例え話をされたそうです。

西洋人にとって分かりやすい比喩的な表現と,その意味するところ(含蓄)に,友人はいたく感服したとのことで,派生した命題がよく会話に登場しました。

1 世界を変えたい?それとも,自分を変えたい?
2 誰かと意見が対立した時,相手を説得し(変え)ようとする?それとも,まずは相手の意見を聞く?
3 本当に世界(他人)を変えることができるのか?
4 自分が変わるということとは?
5 Transformation through time and space

その後,何度も話し合う機会がありましたが,落ち着いたのは,世界を変える・自分が変わるということは,スタート点(世界 vs. 自分),もしくは,重点こそ違っていても,ほぼ同時に起りうるダイナミックなものなのではないのかということ。つまり,世界を変えるということは,自分が変わるということでもあり,自分を変えるということは,世界も変わるということなのでは……。

もちろん,世界を変えるなんて大それたことを,日常のレベルで考えることは,あまりないと思います。しかしながら,誰かと衝突した時,その人(例えば親とか)が変ってくれたらと願ったことは,誰にでもあることでしょう。ほとんど,宝くじに当たるとか,棚ボタ的白昼夢ファンタジーなのが関の山なのですが。

それでは,次回に続けていくことにしましょう。

変わる・変われない1b

古今東西2

今夜は,海外で生きる日本人女性を題材にした最近の映画「かもめ食堂」を,MBAケース・スタディ風に料理してみようと思います。

中年もしくは中年プラスの日本女性3人が,ヘルシンキ(フィンランド)で出会い,自分らしさを失うことなく,緩やかに友情を育み,マイペースで土地に根付いていくといったストーリー。女性の自立・社会進出に関して先進地である北欧で,かもめ食堂を切り盛りしつつ彼女たちが独立していくわけですが,北欧の透明感のある光が独特の雰囲気を生み出し,不思議と3人の生き方にマッチしています。

ヘルシンキで,かもめ食堂を始めた女性の動機は,個人的なおにぎりへの思い入れと,ここならやっていけるような気がしたということ。主人公の過去の経歴や資本(源),日本ないしフィンランドとの係わり等,ほとんど明らかにされず,視聴者の想像に委ねられています。

食堂を手伝うようになる二人の女性についても,過去のこと(経歴・履歴)や動機の描写も,最小限にほのめかされている程度です。介護をしていたという女性は,やっと一段落して海外に出る余裕が出たようです。荷物がなくなったというのは,全く象徴的だと思います。もう一人の女性は,ちょっと内気なタイプで,このままでは,人生何もせずに終わるのかなぁといった感じ。とりあえず何かやってみよう,ガッチャマン!

つまり,過去と現在の因果関係(つまりオチ)がないと落ち着かない人にとっては,スッキリしない映画かもしれません。しかしながら,言わずとも映画が成立しているのは大変面白く,原因(過去に起こったこと)の追及はなく,『今』の積み重ねが結果を生んでいくプロセスから,後ろ向きではなく,映画全体に前向きな姿勢が感じられます。

過去の影や人生の疲れのようなものは,意図的に言及されない部分であり,山越え谷越え,やっとシガラミを後にすることができた女性たちの静かなる再生こそが,この映画のテーマなのではないのかと思います。

主人公と今後のことは未定,もしくは変更可な二人との出会いのタイミングは絶妙で,また,それぞれのニーズが合致したことは一目瞭然です。荷物の少ない女性たちを,機能的かつミニマリズム的な北欧のデザインの中に位置したのは素敵だと思います。

絵の具のついた筆を洗う水は段々濁ってしまいますが,濁ってしまった水を中年に例えるなら,透明なブルー,ミントのグリーン,薔薇色の水は,若さの美しさ。濁った水をクリアして,見知らぬ土地で新たな人生を,ゆっくりリスタートした3人の女性たち。『今』に焦点が当てられ,くすんでしまった色合いさえ,北欧の透明な光に洗われるような清々しさを覚えます。

それでは,MBAケース・スタディ流に,ビジネスを視点から「かもめ食堂」を見てみることにしましょう。飲食業はエントリーバリアが低く,『誰にでもできる』と,少なくとも初心者は思うのですが,数か月内に廃業してしまう確立も高く,続けていくことはなかなか難しいビジネス。

しかも,海外で,旅行客ではなく,地元(現地)の人向けに,おにぎりがメインの食堂?おにぎりは,日本を代表するcomfort food(ほっとする食べ物)ですが,世界共通(ユニバーサル)というわけではありません。実は,この『おにぎり』のような土地性(ローカルさ),もしくは,自分の中の日本人らしさを認め,大切にすることこそが,異文化で生きるヒントなのですが……。

1. 映画では明らかにされていませんが,主人公には確固たるビジョンがある。
 (食堂のイメージ。旅行客向けの宣伝はしない等。)
2. 客が来なくても,焦った様子なく,マイペースで地道に仕事を続ける。
3. 最初の客を大切にする。(のち,リピート客が多くなる)
4. 思いやりのある誠実な女性二人に食堂を手伝ってもらう。
5. お店はいつもきれい・清潔・落ち着いた雰囲気。 
6. 新鮮な出来立ての料理を出す。(ファストフードの時代にオーダーメードの価値)
7. いい匂いの食べ物(シナモンロール等)を焼き,コーヒーの馨りがするお店。(宣伝効果大)
8. 他人のアドバイスに耳を貸す。(誰かが作ってくれるということが,美味しさの秘訣)
9. 適度に気分転換(水泳・合気道)する。
10. 失敗を恐れていない。
11. 異文化の中で,柔軟性を保ちつつも,同時に自分を見失わない。

動機と宿題(準備)の部分は,想像するしかないのですが,カノジョの直感バッチリですね。フィンランドで,外国人が仕事をする際のビザや,ビジネスを経営する際の法的な規制には一切触れられていませんが,それを,真面目にクリアしていると仮定すると,MBAケース・スタディ流観点からは,なかなかやるじゃん!

まずは,お客さんを大切にするということと,粘り強くコンスタントに仕事を続ける,そしてよい人材に恵まれるということは,ビジネスの鉄則であり基盤です。食堂となれば,美味しさ,お客さんの胃袋を満たす満足度・安心感も大切。三人の女性は三者三様,それぞれの特徴を認めています。意外な出会いを通して,何やら探しているものが見つかったような……。

この映画のように,女性たちに緩やかな変化が訪れた作品では,「魅せられて四月」(1992年)を思い出します。4人の女性が,冬のイギリスから,やわらかな光の溢れるイタリアへ旅する物語です。また,美味しいものを誰かのために作り,人を幸せにするというテーマの映画は沢山作られていますが,中でも,フランス人女性が北欧(デンマーク)で生きる「バベットの晩餐会」(1987年)が,ひときわ印象に残っています。

「魅せられて四月」,「バベットの晩餐会」,そして「かもめ食堂」。どれも,もう若くない女性たちが,異文化という環境で,穏やかに変化し,再生していく姿を描いた作品でもあります。

『ここならやっていけるような気がした』と言う「かもめ食堂」の主人公。もちろん,素敵な二人の女性の友情があってこそですが,彼女なら,きっとどこでもやっていけるのではないのかと感じました。

変わる・変われない1a

古今東西1

今回のシリーズは,映画の友BOOさんとの会話から生まれたのですが,「二人日和」(2004年)という映画にまつわる賛否両論の口コミがキッカケでした:

CON(否)
映画は登場人物が変わっていくからこそ面白いのであって,変わらない映画はつまらない。

反論(PRO,賛):
この映画は,失われた古き良き日本へのノスタルジアが美点。変わらないことが大事なのでは。

この口コミ・ディベートは,もともと日本人と外国人の視点から論じられ,一種の比較文化ないし異文化コミュニケーション考察でもあるわけなのですが,さて,いかに。自分の目で確かめようということで,映画を観てきました。

観る前の仮説:
日本型もの静かな熟年の純愛ものとのことで,確かに一部の西洋人の目には変化がなきにしもあらずなのかもしれません。しかしながら,ALS(病気)と生きるということも変化なのでは。

鑑賞後の感想:
まずは,この映画を一言で形容するとすれば,静かな気品のある映画。エレガントなんです。

そして,変化についてですが,表面的にはドラマチックな変化や盛り上がりはありませんが,長年連れ添った妻の病気(ALS)という変化は訪れていると思います。変わるということは,いろいろなディメンションがありそうですね。大きさ,深さ,度合い,テクスチャー,速度ないし加速度等々,変化のxyz。そして,年齢的なエレメント(変化は若さの特権?)に,文化的な解釈もしくは価値観。二人に大きな変化,残酷な変化が訪れているにもかかわらず,エレガントさが保たれているところが,日本の美学なのかも。

京都のたたずまい,町家,京言葉,葵祭りと,そこはかとない和の美と伝統が,さり気なく現代に織り込まれていていました。特に,神官などの伝統的な装束を作る神祇調度司の職人(主人公)の世界を,垣間見ることができてよかったです。重なる和色の柔らかさは,まさに肌で知る日本。古代色(草木)染の持つ微妙な色合い,やわらかな光,風土の穏やかさこそ,日本の美しさ。そうそう,「SAYURI」や「春の雪」(2005年)等,日本を舞台にした映画に導入して欲しい色調なんだよなぁと,妙に納得しながら観ました。

確かに,映画の予算という限界から,技術的な面では,お金で解決できる部分も沢山あるでしょうが,良心的に製作された作品だと思います。二人の主人公は,見事に演じられていたと思いますし,俳優の持つ気品が上手く生かされていました。

また,現代への接点,若者への接点という観点から,いくつかの小道具(タンゴ,特別な水でお茶ではなくコーヒー,そして,若いカップル,最先端の医学を研究する青年,海外留学)が盛り込まれていますが,このあたりが,もう少し練られていたら面白かっただろうなぁと思います。マジックという接点はよかったと思います。

例えば,タンゴ。どんどん体の自由を失う妻の過去の無重力感との対比として登場し,また,過去の駆け落ちのエピソードと,それにまつわる二人の情熱の示唆として重要なわけですが,ウォン・カーウァイ監督的な表現(異次元的な音楽の導入とラテンの緊張感)とは違ったものを観たかったと思います。

そして,ALSに侵された妻という設定。最近では,「スタンドアップ」(2005年)に登場する鉱山の女性労働者の先輩(フランシス・マクドーマンド)を思い出します。こちらの方は,最後まで戦い,友人のために立ち上がるという設定でした。「スタンドアップ」のリアルな病気の描写もさることながら,「二人日和」の妻は受動的に表現されています。しかしながら,夫婦の思いやり・いたわり等は,両方の映画に共通するものを見出すことができます。

「二人日和」は起伏の少ない映画ですが,注意していなければ見逃しそうな微妙な変化や機微こそ,日本の心なのかもしれませんね。主人公(夫)は,ALSに侵された妻のために,何代も続いた神祇調度司を廃業しようというのですから,よっぽどの決意に違いありません。

例えば,映画「永遠(とわ)の愛に生きて」(1993年)でも,生活の安定した熟年の英国紳士が,大きな生活の変化を受け入れ,できる限りのことをしようとします。どちらの映画も,感情のローラー・コースターになっても不思議のないところを,静かに受け止めています。

「永遠(とわ)の愛に生きて」の主人公CSルイスを演じたのは,アンソニー・ホプキンスでしたが,彼の主演(英国の執事)した「日の名残り」(1993年)にも注目してみることにしましょう。CSルイスは,人を愛するという点で大きく変わり,後者の主人公(執事)は変わることができない,もしくは変わらない生き方こそが美学,変わらないことは選択であるという立場にあります。「変わる・変わらない」というテーマで,この2本の映画を見比べてみると面白いかもしれません。

「日の名残り」(1993年)の原作者は,日本生まれの英国育ち・在住のカズオ・イシグロ氏なのですが,イシグロ氏にしかできない見事な描写でもって,執事という職務および職業意識と美学を見事に表現しています。この品格こそが,この場合,英国だと論じられていますが,品格に価値を置くことこそ英国文化の真髄(価値観)であり,また,「二人日和」で表現された日本の文化に相通じるものを見出すことができるのではないのかと感じます。

また,イシグロ氏のおかげで,CSルイス(英国紳士)の遂げた変化は,物凄いことだったのだとわかりましたし,変われないということの文学的な価値について考えさせられました。

「日の名残り」の主人公が,英国の風景と職業観について述べるくだりは,なかなか興味深いものがあります。ドラマチックな大仰さや,派手なアクションとは対極にあり,落ち着きや,静けさ,慎ましさこそ,イギリスの景色の美しさであり,例え何があっても感情をあらわに表現しないところが執事のプロ意識である。もちろん,世の中には,息を呑むような壮大な絶景があるが,心踊り・血湧き・胸焦がす光景というのは,いわゆる英国らしさとは違う。

Touché!

海外で生きる日本人女性を題材にした最近の映画では,「かもめ食堂」がありましたが,この映画でも,変化は緩やかに訪れました。古今東西,次回に続けることにしましょう。

(つづく)

ローカル/ユニバーサル 第4夜 「シンデレラマン」

ボクシングに賭けるもの

 

世界恐慌の頃にアメリカの希望の星であった「シンデレラマン」こと実在のボクサー,ジム・ブラドックの映画はいかがでしょう。現在DVDをレンタルできる今年のアカデミー賞ノミネート作品メモでもあります。ノミネートは3部門,助演男優賞(ポール・ジアマッティ),編集賞,メイクアップ賞です。編集が素晴らしく,いろいろな創意工夫を楽しむことができました。

 

この映画は,「ビューティフル・マインド」(2001年)で組んだロン・ハワード監督と主演ラッセル・クロウの第2作目にあたり,ノミネートこそされていませんが,ラッセル・クロウの演技も特筆に値すると思います。

 

ボクシングの映画は,既に沢山の名作がありますね。記憶に新しいところでは,昨年のアカデミー賞受賞作品「ミリオンダラー・ベイビー」があります。そのあたりから比較対照を始めることにしましょう。

 

ミリオンダラーは,ボクサー志願の女性と老いたトレーナーの物語です。家族の愛情を知らないボクサーと,家族を捨てたトレーナー。共通点はボクシングと頑固さだけ。主人公は,ボクサーとして活躍するにはピークを過ぎた31歳の女性。生活保護を受ける親兄弟から見放された主人公は,13歳の頃から細々とウェートレスをして生計をたてていました。彼女の唯一の楽しみはボクシング。彼女の熱意と気力が,次第にトレーナーの心を開き,不可能を可能に変えていきます。

 

「シンデレラマン」の主人公も,カムバックを果たしたのは31歳の時でした。若い頃には,そこそこの成績を上げていたものの,世界恐慌(1929年)と前後して怪我と不調が続き,遂にボクシングのライセンスを剥奪されてしまいます。妻と子ども3人の日々の糧も尽き,やっとの思いで波止場の日雇い労働に就きますが,やりくりできません。食料の配給や生活保護を受けるために並び,一番嫌な人にも頭を下げて光熱費の工面をしました。

 

そして訪れたチャンスは,若いボクサーの踏み台でした。誰もが負けることを期待していた時に,ブラドックは驚くべき気力と集中力を発揮します。家族をどん底の生活から守るために。アメリカの大恐慌の頃の歴史的な映像が重なります。「キング・コング」(2005年)も,時代背景はアメリカの大恐慌,場所は同じくニューヨーク。当時の人々にとって,どれほど希望を託す人が必要だったのか伝わってきます。

 

ポール・ハギスが「ミリオンダラー・ベイビー」の脚色(アカデミー賞ノミネート)を担当しました。今年のアカデミー賞ノミネート作品「クラッシュ」(作品賞,監督賞,脚色賞等の6部門)で,映画の初監督を達成したハギス氏自身,遅咲きです。あと2週間ほどで53歳になるそうです。もう若くないからといって,決して夢を捨てる必要はありませんね。

 

アカデミー賞の作品は,通例,秋から冬にかけて公開される作品が有利(審査員の記憶に新しいので)とされ,上半期封切り映画は不利とされてきました。「クラッシュ」は上半期にアメリカで公開され,口コミで段々話題になった作品ですし,「シンデレラマン」も上半期の封切りでした。他のノミネート作品の中にも,「Hustle & Flow」(原題)や「Junebug」(原題)等,上半期に公開されたものが含まれているのは面白い傾向とされています。

 

百万ドルのカノジョはアイルランド系とのことで,アイルランド語でモ・クシュラ(Mo Cuishle,愛しい人)と呼ばれるようになります。シンデレラマンもアイルランド系です。こちらの方は,実在の人気スポーツ記者デイモン・ラニアンが名付けたブラドックのニックネーム。家族のために戦うシンデレラマンも,家族には恵まれなかったモ・クシュラも,ボクシングに賭けるものは同じ。サバイバル,そして,存在の尊厳。希望のないところの希望。

 

アイルランド系アメリカ移民は,イングランドやフランスからの移民に比べて,ずっと後の新参者です。アイルランドの歴史を紐解くと,イングランドの植民地化(12世紀頃~1798年),イギリスの連合王国化(1801年~1922年),北アイルランド問題と,複雑な関係が浮かび上がります。

 

ジャガイモ飢饉(1845年~49年)をピークに,大量のアイルランド人がアメリカに流入します。アイルランド移民(ボクシング好きの国民性,ジャガイモ飢饉,移民後の苦労話等)の様子は,ロン・ハワード監督の映画「遥かなる大地へ」(1992年)にも描かれています。

 

同じく後発のイタリア系移民,中国系,アフリカ系の人々と共に鉄道を敷き,探鉱を掘り,農場の季節労働者として,アメリカの肉体労働を支えてきました。後から来た者に新天地はいろいろな試練を課します。不屈の精神は,そんなところからやって来ていますので,文化・歴史的背景を知るとこの映画の楽しみ方が増えます。

 

この「後からやって来たもの」は,ボクシングの挑戦者の立場と重なります。チャンピオンに例え勝算がなくても,気力で挑むアンダードッグ(勝つ見込みの少ない方)が,人々の心を掴むことがあります。シンデレラマンも,モ・クシュラも,アンダードッグでした。その他の代表的なボクシング映画の例では,「ロッキー」シリーズ5本(1976年~1990年)があり,特に最初の映画は,アメリカ人の好きなアンダードッグの物語です。

 

「シンデレラマン」はマネージャー(ポール・ジアマッティ),「ミリオンダラー・ベイビー」はトレーナー(クリント・イーストウッド)との関係が重要な鍵を握っていますが,実在の女性マネージャー,ジャッキー・カレンの物語「ファイティングXガール」(2004年)もありましたね。男性の中で認められるよう,彼女自身の戦いでもあります。

 

素晴らしい演技を見ることができるのも,ボクシングの映画の特徴でしょう。自滅的なボクサー,ジェイク・ラモッタを演じたデニーロの「レイジング・ブル」(1980年,マーティン・スコセッシ監督)。ボクサーとしてピークを迎えた時に,無実の罪を負い30年間も投獄されたルービン“ハリケーン”カーターを演じたデンゼル・ワシントンの「ザ・ハリケーン」(1999年,ノーマン・ジュイソン監督)。そして,ウィル・スミスが伝説的なヘビー級チャンピオン,モハメッド・アリを演じた「ALI アリ」(2001年)等,実在のアメリカ人ボクサーの伝記的な作品があります。

 

古代から,この肉体の極限を競うスポーツが存在し,近代,イギリスでルールが完成し,ボクシングは相変わらず感心度の高い映画の題材のようですね。フィクション,実話を問わず,また伝説的なボクサーが登場するのかもしれません。

ローカル/ユニバーサル 第3夜 「バットマン ビギンズ」

カルチャーショック

 

最近,ブログをさぼっているのは,単に仕事が忙しいからだけなのですが,日本に帰国して,字幕にカルチャーショックを受けたという話などいかがでしょうか。今夜は,第78回アカデミー賞ノミネート作品メモでもあります。日本でも次々とアカデミー賞ノミネート作品が劇場公開されていますが,現在DVDをレンタルできるものから紹介しますね。

 

字幕というものは大変便利なのですが,バイリンガルの友人などから「かなりアバウトだ」と聞いていました。字数制限など多くの制約の中,文化的な背景を手短に説明するのは難しく,意訳(時には移訳・異訳)になるのは仕方がないと思います。もちろん,いい訳だと感心することも多々ありますし,字幕なしでは言語の違いを越えて映画を楽しむことができませんね。

 

帰国後,初見の映画を日本語字幕と共に観るのは,全く違和感がなかったのですが,ショックを受けたのは,原語(英語)のみで既に観ていた映画を,日本語の字幕と共に再び観た時でした。翻訳のおかげで理解が深まる場合もありますが,全く同じ映画とは思えないこともあります。確かに,かなりアバウトです。

 

そのうち,初見の映画も字幕と原語の音声にも,注意を払うようになりました。例えば,「バットマン ビギンズ」の字幕は,大変よくできていますし,日本語として一貫性があるのですが,原語(英語)だけで観た場合と,かなり印象が違います。

 

この辺の説明は,また別の機会にゆっくりお話していこうと思いますが,突然,気が付いたのですよね。なぜ,日本の友人達と洋画の話をしていても,ぜ~んぜん話しが通じなかったのか。やっとわかりました。なるほど,日本語タイトルを知らなかっただけではないようです。言葉だけでなく,文化的な背景を共有するのは難しいものだと改めて感じます。

 

さて,「バットマン ビギンズ」ですが,クリストファー・ノーラン監督の作品というだけで要チェックですし,アメコミのヒーローものを,オリエンタル風ブリティッシュに料理していて,大変面白かったです。バットマン・シリーズ第5作目の映画にあたり,ティム・バートン監督の第1作(1989年)の前編として,主人公ブルース・ウェインが,バットマンになる動機と過程が描かれています。

 

アカデミー賞では技術面の撮影賞で評価されていますが,音響も素晴らしい作品です。ゴッサム・シティは,シカゴのスカイラインをロケしたそうですが,イギリス的な感じに(もしくはアメリカらしくなく)仕上がっています。ノーラン監督の前作「インソムニア」(2002年)の氷の世界も活用されていましたね。

 

また,インターナショナルな豪華キャストを迎え,特にイギリス勢は芸達者を集めています。マイケル・ケインの肩の力の抜けた執事アルフレッドは人間味にあふれ,大仰さを抑えたゲイリー・オールドマンが,地道に普通の人(真面目な警官)を演じているのには大変驚きました。トム・ウィルキンソン,リーアム・ニーソン,ルトガー・ハウアー,渡辺謙と,主役級の人々が,しっかり脇を固めています。

 

会社の片隅で細々と先端技術を開発・管理し,後にバットマンへの化身を手助けするモーガン・フリーマンの役割と,産業メカの数々には,007に登場する秘密兵器開発担当のQを思い出しました。アメリカのマンガ(DCコミック)を,イギリス人が解釈すると,こうなるのかなぁなんて,ちょっと興味あり。

 

あまり人付き合いのない主人公ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)に,バットマンの二重生活をカバーするには,プレイボーイを演じるのがよいと進言するアルフレッド。この辺で,ジェームズ・ボンドのイメージが重なり始めますが,幼馴染に打ち明けられないほどシャイです。

 

近年の人気イギリス映画の例に漏れず,お相手役を演じるのはアメリカ人女優(ケイティ・ホームズ)。はっきりしない主人公に,意志の強いアメリカ人女性というパターン。しかしながら,映画に花を添えるだけではなく,ヒーローと対等に描かれているところに好感が持てます。数少ない主人公の友達は,まっすぐな検事補に成長し,自立した現代女性として描かれています。

 

初めてイギリス人の演じるバットマン。「太陽の帝国」(1987年)の子役時代から注目していたクリスチャン・ベイルが,子ども時代のトラウマ(恐怖心)を抱えた主人公を好演していると思います。物理的および比喩的な転落,愛する人(両親)を無意味な犯罪で失うこと(死),罪悪感。社会の悪に立ち向かう内的動機は,それらへの恐れを理解し,克服しようとする個人的なニーズからきています。

 

「バットマン ビギンズ」はマンガが原作とはいえ,表面的な紋切り型に終わらず,大変真摯な作品に仕上がっていると思います。

ローカル/ユニバーサル 第2夜 「グッバイ,レーニン!」

ベルリンの壁の向こう側で

 

今夜の映画は,「グッバイ,レーニン!」(2003年,ヴォルフガング・ベッカー監督)です。ドイツの東西統一という歴史的な出来事を,東側に住む青年の目を通して描いた作品です。

 

その土地独特(ローカル)の様子が手に取るようにわかるのと同時に,普遍的(ユニバーサル)な接点を確立することに成功した映画だと思います。1年ぶりに,ローカル/ユニバーサルのカテゴリを再開します。

 

歴史的な出来事に血を通わせることができた理由の一つは,東側の人々がどのようにベルリンの壁の崩壊(1989119日)を体験したのか垣間見ることができること。そして,自家製映画というクリエイティブな接点を通して,個人の目線から描くことができたことが挙げられます。

 

東ベルリンに住む主人公(ダニエル・ブリュール)は,父親が西側に亡命したため,母親に育てられました。東側に残された母親は,愛国者ではあるものの,決して盲従しているわけではありません。官僚主義からくる無意味さや画一的な無駄を理解し,前向きに人々の陳情を根気よく代弁し続けました。東側の生活の様子が,温かくユーモアを込めて描かれています。

 

70年後半から80年代に子ども時代を過ごした主人公は,宇宙飛行士になることが夢でした。子ども時代のホーム・ムービーに記録された映像の断片が,懐かしさとともに映画の中で再生されます。東西を問わず,宇宙飛行士に憧れた人は多いでしょうし,そんな人が身近にいたかもしれませんね。ローカルであり,ユニバーサルな接点です。

 

また,自家製の映画づくりが意味を持ち,いたるところで重要な役割を果たしています。この映画は,ホーム・ムービーで始まり,ホーム・ムービーで終わります。映画ファンによる映画です。

 

ストーリーの設定は,ベルリンの壁の崩壊の直前に母親が心臓発作を起こし,昏睡状態のまま東と西の統合を迎えるというものです。西側のライフスタイルの浸透,東西通貨の統合,ワールドカップ優勝の盛り上がり,西側のTV番組……,眠り続ける母親をよそに世の中は急速に変化していきます。

 

東西統一で,主人公の勤務していたTV修理業務が廃業したのを機に,衛星放送の受信設置会社に再就職します。そこで,西側からのパートナーと組んで仕事をすることになりますが,そのパートナーは,大のキューブリック監督かぶれ。独自の映画を作ることが夢です。のちに,その願望が大いに役に立ちます。

 

そして,8ヵ月後。母親は目覚めたものの,刺激を与えないようにという医師のアドバイスを,かたくなに守る主人公。ベルリンの壁崩壊以前の生活を再現します。壁のチェ・ゲバラ。そして,入手困難になった昔ながらの食料品。西側の物品が大量に流入する中,主人公は文字通り東西奔走して,東側の品々を調達します。調度品や壁紙は趣味が悪いけれど,なぜか懐かしく愛着のある部屋。ここで,観衆は東側の生活の様子を垣間見ることが出来ます。

 

TVを見たいという母親のために,一計を案じた主人公は,映画監督志望のパートナーに,ニュース番組の作成を依頼します。もちろんOKです。一世一代の熱意の込められた番組作成が始まります。ある日タクシーに乗ると,運転手はなんと子ども時代の憧れの宇宙飛行士ではありませんか。捏造TV番組に出演してもらうことになります。

 

主人公とパートナーは東側のTV番組の捏造にのめり込んでいきますが,主人公の姉や彼女は本当のことを言えないフラストレーションが募ります。(観衆の疑問を代弁し,脚本に盛り込むチャンス!)やがて,主人公は「こうあって欲しかった」東側を演出していることに気付きます。時には滑稽に,時には切なく,ユーモアと愛情に満ちた嘘。悪意のない嘘。

 

映画も嘘の世界と言えばそうかもしれませんね。しかしながら,そこに何らかの真実を見出すことが出来る人は,幸せな人なのかもしれません。ベルリンの壁の向こう側にも,こんなに素晴らしい家族の愛があったことが,映画という形で記録されたことは素敵なことだと思います。嘘の世界と創造の世界の境界線が曖昧になります。

 

混乱と珍騒動のうち,主人公は旧ソ連から来ていた看護士ララと恋仲になります。政治的,社会的,経済的,文化的な大変化を縦糸に,子どもの頃の夢と家族愛を横糸に紡いだ映画づくりの映画に,ロマンスまで絡めているなんて……。2時間あまりの作品に,これだけ盛り込むことができたのは驚きです。いや,ただ盛り込んだだけというのではなく,歴史を身近なものにすることができたのは,映画というコミュニケーションの媒体のおかげですね。

 

ソ連からの可愛いララ。私も同級生に,ソ連から来たララがいたことを懐かしく思い出しました。「以前から日本に興味があったのよ」と,話しかけてくれた彼女。ララは,日本語表記によってはラーラになり,ラリッサの愛称です。そう,映画ファンなら,「ドクトル・ジバゴ」(1965年)のラーラ(ラリッサ)を,思い出したかもしれませんね。

 

彼女から聞いた東西統一の生の話は,大変印象深いものでした。若い人は新しい生活に適応できるけれど,お年寄りの人にとっては,新しいやり方や,変化についてくのはストレスであると。「グッバイ,レーニン!」に描かれている年配の人々の反応を見て,彼女から聞いたことを改めて実感しました。そんな人々への愛情が込められた作品とも受け取れます。東側の人々が身近に感じられた映画でした。

コンペアー&コントラスト4

今日は、比較文化を少し。題して、ローカル/ユニバーサル(土地性/普遍性)。

例えば、コンピューターのパーツ(集積回路等)は、ユニバーサル。どこに行っても、ほぼ同じです。ローカルなのは、お料理。世界共通の材料を使ったとしても、土地それぞれの料理ができます。例えばラーメン。その土地独特のものがありますよね。スープ、具、麺等。材料、料理法、組み合わせ、プレゼンテーションの工夫ができます。マルコポーロの持ち帰った中華麺が、イタリアのスパゲティの元祖だそうですし、「所変われば品変わる」です。ユニバーサルを目指したマクドナルドでさえ、ローカルメニュー(国それぞれのメニュー)があります。細かく言えば、それぞれの家庭の味もありますよね。

映画の好き嫌いの話しをしている時、一番意見が異なるのが、ユーモア、ジョーク、お笑い、コメディの類。めちゃ面白~いと思っていたことが、おバカに見える人もいることに気付いて、愕然とすることがあります。温度差が激しく、ヘタすると、寒ぅ~くなっちゃう。見ただけで笑えたり、人類共通の普遍的な笑いもありますが、前提になること(ローカル性、内輪/内部事情)を知らないと、理解できないユーモアも沢山あります。わからないジョークは、疎外感を与えてしまいますね。ついていけない。つまらない。おもしろくない……。不思議な世界です。それぞれの人にとって、笑いの意味が違っているからでしょうね。

笑いというものは、説明されて初めてオモシロイというのでは、情けないような気もしますが、わからないものは、わからない。恥も外聞もなく、教えてもらうことにしています。 ナビしてくれる人がいると、ありがたいです。知らない世界を広げるチャンス。映画、文化、そして人間理解の好機でもあります。週末に、「映画でイギリス英語」という講座に出てきました。イギリス流のユーモアを、少しでも理解したいというのが動機でしたが、なかなか面白かったので、そこで学んだことをもとに、お話ししますね。

題材は、「ブリジット・ジョーンズの日記」(英、2001年)。実は、この作品、原作を読んでいれば、映画も観ていたのですが、じっくり説明してもらって、やっとわかった事が沢山ありました。ボロボロ抜けていても、面白かったのですが、ローカル性(背景や文化的意味)を教えてもらって、楽しさ倍増です。

まずは、予備知識。原作は、大爆笑です。映画は原作をかなり割愛してあって、ラブ・コメディーの部分に焦点をあてていますが、チャーミングな作品に仕上がっていると思います。イギリスで愛されているブリジット・ジョーンズを、アメリカ人(しかもヒューストン郊外出身)のレニー・ゼルウィガーが演じると聞き、どうなることやらと思いましたが、なんとピッタリなのです。イギリスでも好評だったとかで、続編が日本で近々公開とのこと。

映画のオープニングは、正月休暇。雪の中、実家に帰省したブリジット・ジョーンズ。親戚等を招いたホーム・パーティ。イギリスで、とってもありそうな設定、日常的な世界の描写だそうです。ターキー・カレーのバイキングが出てくるのですが、クリスマスのご馳走で残った七面鳥のカレーのこと。残り物を、手変え品変え出てきたあとの苦肉の策だそうで、イギリス人なら「またかよぉ~」。ここで、ターキー・カレーの意味が、私の意味と違っていたことに気付きました。おせちに飽きたらカレーというのとも、違っているようです。

アメリカでも、クリスマスのご馳走で残った七面鳥が、いろいろなメニューで再生しますが、カレーは一般的ではありません。もちろん、イギリスゆかりの方のお宅や、ご家庭によって、ターキー・カレーが出てくるかもしれませんが。新年のパーティーに、残り物のターキー・カレーが出るというのも、聞いたことがありませんでした。

個人的には、クリスマスのターキーで、日本式のカレーを作ったことはありますが、とっても美味しかったです。ですから、ターキー・カレーのバイキングと言われても、苦笑どころか、なんで変なのかわかりませんでした。全く違った反応をしていました。(北米で、クリスマスの残り物といえば、フルーツケーキです。ジョークになっています。)

それでも、映画では登場人物の反応を見たり、音楽や照明、言い方で、大体の雰囲気がわかります。文化的背景はわからなくても、ある程度、理解できなければ、観客を限定してしまいます。それから、映画にせよ、広告にせよ、対象になる観客層が想定されます。観客層が狭義に設定されると、一般ウケは難しいでしょう。俗に言うハリウッド系(娯楽大作系)のターゲットは、一般に青年層(若い男性)だそうです。アメリカ映画でも、アートハウス(小劇場)系の中には、いろいろな観客層向けの作品がありますので、オープンマインドで観てみると、面白い作品に出合うことがあります。

「ブリジットの母親は、自分はハイソなつもりですが、実はダサい。」これも、見ていて、なんとなくわかるのですが、説明されてはっきりしました。例えば、ガーキン(gherkin)のピックルスが、高級だと思っています。ガーキンなどと言われても、ピンときませんでしたが、イギリス人なら誰でも知っていて、「は~ん、なるほど!」と、共感できるのでしょう。残念ながら、これはローカル過ぎて、単語(ガーキン)が頭上を素通りしていました。

ガーキンは、ピックルス用の小型きゅうりのこと。う~む、ちょっと待って下さい。まずは、イギリス、日本、アメリカのきゅうりは、同じではありません。アメリカのきゅうりは太くて、水分が多く、ウリに近いような感じがします。ピックルス用の小さなものも売られていて、日本のきゅうりの代用になります。アメリカで売っている英国きゅうりは、スラっと長く、果肉のきめが細かいような気がします。つまり、きゅうりと言えども、国によって、イメージするものが違います。

ガーキン自体は、昔からあったようで、その歴史を調べると、メソポタミアで、今から4500年前に、漬物にされていた記録があるようです。クレオパトラは、ガーキンを食べると、美しくなれると思っていたようですし、シーザーやナポレオンの軍隊の食事に、ガーキンが出たようです。

ちょっと想像してみましょう。アメリカでも、友人の実家を訪れると、「(もう流行ってないけど)特別な」ピックルスをすすめられることがよくあります。日本でも、「(もう流行ってないけど)特別な」お漬物を、うやうやしく出してくれることがあります。状況に平行する例をあてはめれば、少しは理解できそうです。ガーキンのピックルスに言及することで、世代のギャップや、意識のズレのようなものを、感じることが大切なのかもしれませんね。

ローカルなエレメントの中の普遍性。そのあたりが、文化を超えて、共感できる作品になるか、どうかの鍵を握っているようですね。

ブリジットの母親は、めぼしい男性を、娘に引き合わせようとしますが、二人でいるところに割り込んできたり、気が利きません。そのうえ、差別的で、偏見も丸出し。「アウシュビッツのよう」と娘の服装を、ズケズケ批判します。バツイチの弁護士(「高慢と偏見」のダーシー様)を紹介しますが、前妻(日本人)のことを、「残酷な人種の」(日本語字幕には訳されていません)と形容したり、何かと寒ぅぅぅ~~~い。根は悪い人ではないのですが、自覚症状がありません。こんなタイプの人って、イギリスに限らず、どこにでも必ずいますよね。コメディーには、笑えるイヤなタイプが出てきます。のちに、気取って、お高い彼女の変身ぶりが笑えます。

ブリジットは、母親のいいなりに、「カーペットのような」古臭いワンピースに着替えます。バツイチ弁護士も、母にもらったトナカイのセーターを、平気で着ています。(ひょっとして同類?)二人がパーティーで引き合わされて、ブリジットが話しのキッカケと作ろうとします。新年の決意に、節酒、禁煙、そして、新年の決意を守ることと、三つの決意を並べます。が、ぜ~んぜんノッてこない!一人でしゃべっていることに気付いたブリジットが、知らない人に、べらべらしゃべらないことと、苦笑しながら付け加えます。そこで、助け舟を出さないバツイチ弁護士。二人の間の温度が、ぐ~んと下がり、雪の窓の外のように、凍り付きます。アイソ笑いするしかないブリジットが、一人とり残されます。

バツイチ弁護士のリアクション。母に文句を言います。弁護士流(tricolon)に、三つの決意に応酬しつつ、人をバカにしたグサグサ発言。映画の画面から、意地悪なコメントが、本人に聞こえていることがわかります。ぼんやり背景に写ったブリジットが、「このままではいけない」と決意。ほろ苦いけど、誰にでも経験のあるシーン。共感、感情移入のチャンスです。ここで、オープニング・ソングが流れます。コメディーですから、オーバーで、皮肉な選曲に苦笑します。他にも、登場人物の性格描写が、短時間に手際よくできていて、上手いオープニングだと思いました。原作者へレン・フィールディング自身が、脚本も手がけ、プロデュースした作品です。

今回、「ブリジット・ジョーンズの日記」を観て、思い出したのは、「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」(米、2002年)。ギリシャ移民の娘と、英国系アメリカ人のラブ・コメディーです。アメリカで観たのですが、観衆の反応がサイコーでした。いろいろな年齢層にウケていて、気が付くと劇場は笑いの渦でした。観客一同笑える映画って、いいですよね。「ブリジット・ジョーンズ」を、イギリスで観てみると、どうなのか気になるところです。観客の反応の比較文化も、できそうですね。

「マイ・ビッグ・ファット」は、トム・ハンクスの奥さん(女優リタ・ウィルソン)が、ギリシャ系アメリカ人とのことで、思い入れを込めてプロデュースした作品だそうです。主人公を演じるニア・ヴァルドロスの脚本。自分自身の体験をもとに書かれたストーリーは、移民の国アメリカらしい作品なのですが、「ブリジット・ジョーンズ」との共通点が、いくつかあります。オープニングのほろ苦いシーン。そして、「このままではいけない」と奮起。主人公に感情移入しやすく、応援したくなる重要なエピソードです。コメディーは、どこまで感情移入できるかが、勝負のような気がします。

コメディーでは、笑うことしか出来ないような悲惨な設定(大ピンチ)が多く、悲劇と紙一重のことも多々あります。「ブリジット・ジョーンズ」と、「マイ・ビッグ・ファット」では、面白おかしく現状打破が試みられます。悲劇との違いは、状況が可笑しく、結果的に笑えることです。ただ、アホさ/ダメさ加減、そして人迷惑さが、許容範囲を超えていると、ウケないようですね。この辺、観察していきたいと思います。

ローカル/ユニバーサル。一度では書ききれませね。映画で比較文化の観察も、続けていきたいと思います。それから、笑いの温度差も。個人差が激しい分野ですね。ローカル/ユニバーサルは、一つの要因ですが、他にもいろいろなファクターが影響しているようです。

ところで、今日の映画は、バレンタインデーに、おすすめの作品です。どちらも、悪意のないコメディーですので、きっと笑ってもらえると思います。本日の写真は、びわの花。初夏に果実のなる木ですが、花は12月頃から真冬に咲きます。花言葉は治癒。笑いは、心を癒してくれます。皆さんも、大いに笑って下さいね。

今週は忙しいので、次回は、来週の夜を予定しています。また来てくださいね。月曜の夜に、お会いできるのを楽しみしていますね。スマイルでいきましょう!!!