第17回写真展 冬の花

春の気配

 

皆さんいかがおすごしでしょうか。街を歩いていると春の花が店先に並び,梅の香が漂い,心なしか桜の蕾が膨らんできているような気がします。久しぶりの写真展です。海外在住の友人に身近な日本の四季をお届けしたくて,不定期的に写真展を開催しています。簡単な御挨拶を添えることも,写真だけのこともあります。

 

今回は山茶花を選んでみました。晩秋の頃から咲き始め,長い冬に彩りを添えてくれる花。色,形,大きさ等,いろいろな種類があり,小さな木でも沢山の花をつけ,長期間咲き続けます。一重,二重,八重,クチナシのような咲き方をするものもあれば,今回の写真で登場するような大輪のものもあります。春の気配が感じられる光の中で撮影してみました。

 

ブログのフォトアルバムの機能が変わったとのことで,使い方を再検討してみましたが,昨年に引き続き旬の写真の即興展示会を開催することにしました。今年もカメラを通して季節ごとの日本の表情をお伝えする予定です。いつものように写真は約2週間掲載します。

 

もう一つ嬉しいお知らせがあります。映画千夜一夜を始めて2万回のヒットがありました。皆様の御訪問,心より感謝いたします。ありがとうございました!!!これからもよろしくお願いいたします。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

 

それでは,皆様お元気で!

ローカル/ユニバーサル 第4夜 「シンデレラマン」

ボクシングに賭けるもの

 

世界恐慌の頃にアメリカの希望の星であった「シンデレラマン」こと実在のボクサー,ジム・ブラドックの映画はいかがでしょう。現在DVDをレンタルできる今年のアカデミー賞ノミネート作品メモでもあります。ノミネートは3部門,助演男優賞(ポール・ジアマッティ),編集賞,メイクアップ賞です。編集が素晴らしく,いろいろな創意工夫を楽しむことができました。

 

この映画は,「ビューティフル・マインド」(2001年)で組んだロン・ハワード監督と主演ラッセル・クロウの第2作目にあたり,ノミネートこそされていませんが,ラッセル・クロウの演技も特筆に値すると思います。

 

ボクシングの映画は,既に沢山の名作がありますね。記憶に新しいところでは,昨年のアカデミー賞受賞作品「ミリオンダラー・ベイビー」があります。そのあたりから比較対照を始めることにしましょう。

 

ミリオンダラーは,ボクサー志願の女性と老いたトレーナーの物語です。家族の愛情を知らないボクサーと,家族を捨てたトレーナー。共通点はボクシングと頑固さだけ。主人公は,ボクサーとして活躍するにはピークを過ぎた31歳の女性。生活保護を受ける親兄弟から見放された主人公は,13歳の頃から細々とウェートレスをして生計をたてていました。彼女の唯一の楽しみはボクシング。彼女の熱意と気力が,次第にトレーナーの心を開き,不可能を可能に変えていきます。

 

「シンデレラマン」の主人公も,カムバックを果たしたのは31歳の時でした。若い頃には,そこそこの成績を上げていたものの,世界恐慌(1929年)と前後して怪我と不調が続き,遂にボクシングのライセンスを剥奪されてしまいます。妻と子ども3人の日々の糧も尽き,やっとの思いで波止場の日雇い労働に就きますが,やりくりできません。食料の配給や生活保護を受けるために並び,一番嫌な人にも頭を下げて光熱費の工面をしました。

 

そして訪れたチャンスは,若いボクサーの踏み台でした。誰もが負けることを期待していた時に,ブラドックは驚くべき気力と集中力を発揮します。家族をどん底の生活から守るために。アメリカの大恐慌の頃の歴史的な映像が重なります。「キング・コング」(2005年)も,時代背景はアメリカの大恐慌,場所は同じくニューヨーク。当時の人々にとって,どれほど希望を託す人が必要だったのか伝わってきます。

 

ポール・ハギスが「ミリオンダラー・ベイビー」の脚色(アカデミー賞ノミネート)を担当しました。今年のアカデミー賞ノミネート作品「クラッシュ」(作品賞,監督賞,脚色賞等の6部門)で,映画の初監督を達成したハギス氏自身,遅咲きです。あと2週間ほどで53歳になるそうです。もう若くないからといって,決して夢を捨てる必要はありませんね。

 

アカデミー賞の作品は,通例,秋から冬にかけて公開される作品が有利(審査員の記憶に新しいので)とされ,上半期封切り映画は不利とされてきました。「クラッシュ」は上半期にアメリカで公開され,口コミで段々話題になった作品ですし,「シンデレラマン」も上半期の封切りでした。他のノミネート作品の中にも,「Hustle & Flow」(原題)や「Junebug」(原題)等,上半期に公開されたものが含まれているのは面白い傾向とされています。

 

百万ドルのカノジョはアイルランド系とのことで,アイルランド語でモ・クシュラ(Mo Cuishle,愛しい人)と呼ばれるようになります。シンデレラマンもアイルランド系です。こちらの方は,実在の人気スポーツ記者デイモン・ラニアンが名付けたブラドックのニックネーム。家族のために戦うシンデレラマンも,家族には恵まれなかったモ・クシュラも,ボクシングに賭けるものは同じ。サバイバル,そして,存在の尊厳。希望のないところの希望。

 

アイルランド系アメリカ移民は,イングランドやフランスからの移民に比べて,ずっと後の新参者です。アイルランドの歴史を紐解くと,イングランドの植民地化(12世紀頃~1798年),イギリスの連合王国化(1801年~1922年),北アイルランド問題と,複雑な関係が浮かび上がります。

 

ジャガイモ飢饉(1845年~49年)をピークに,大量のアイルランド人がアメリカに流入します。アイルランド移民(ボクシング好きの国民性,ジャガイモ飢饉,移民後の苦労話等)の様子は,ロン・ハワード監督の映画「遥かなる大地へ」(1992年)にも描かれています。

 

同じく後発のイタリア系移民,中国系,アフリカ系の人々と共に鉄道を敷き,探鉱を掘り,農場の季節労働者として,アメリカの肉体労働を支えてきました。後から来た者に新天地はいろいろな試練を課します。不屈の精神は,そんなところからやって来ていますので,文化・歴史的背景を知るとこの映画の楽しみ方が増えます。

 

この「後からやって来たもの」は,ボクシングの挑戦者の立場と重なります。チャンピオンに例え勝算がなくても,気力で挑むアンダードッグ(勝つ見込みの少ない方)が,人々の心を掴むことがあります。シンデレラマンも,モ・クシュラも,アンダードッグでした。その他の代表的なボクシング映画の例では,「ロッキー」シリーズ5本(1976年~1990年)があり,特に最初の映画は,アメリカ人の好きなアンダードッグの物語です。

 

「シンデレラマン」はマネージャー(ポール・ジアマッティ),「ミリオンダラー・ベイビー」はトレーナー(クリント・イーストウッド)との関係が重要な鍵を握っていますが,実在の女性マネージャー,ジャッキー・カレンの物語「ファイティングXガール」(2004年)もありましたね。男性の中で認められるよう,彼女自身の戦いでもあります。

 

素晴らしい演技を見ることができるのも,ボクシングの映画の特徴でしょう。自滅的なボクサー,ジェイク・ラモッタを演じたデニーロの「レイジング・ブル」(1980年,マーティン・スコセッシ監督)。ボクサーとしてピークを迎えた時に,無実の罪を負い30年間も投獄されたルービン“ハリケーン”カーターを演じたデンゼル・ワシントンの「ザ・ハリケーン」(1999年,ノーマン・ジュイソン監督)。そして,ウィル・スミスが伝説的なヘビー級チャンピオン,モハメッド・アリを演じた「ALI アリ」(2001年)等,実在のアメリカ人ボクサーの伝記的な作品があります。

 

古代から,この肉体の極限を競うスポーツが存在し,近代,イギリスでルールが完成し,ボクシングは相変わらず感心度の高い映画の題材のようですね。フィクション,実話を問わず,また伝説的なボクサーが登場するのかもしれません。

SF系 第1夜 「宇宙戦争」

人間の想像力の限界と創造力の可能性

 

未来への好奇心,そして,宇宙のどこかに存在するかもしれない地球外生命体への探究心が生むSFは,人間の想像力の限界へのチャレンジでもあり,また,創造力を発揮するチャンスでもあります。SF系の映画を考察するカテゴリを開始します。

 

異質なもの(地球外生命体)との出合いを想定した場合,異文化間コミュニケーションや心理的な反応といった視点が,よく用いられています。映画が作成された時代を反映するような映画や,社会的な色合いを帯びた作品が結構多いのも頷けます。

 

また,人工知能(ロボット)・人造人間(アンドロイド,クローン)・人間のアイデンティティを問う作品も作成されていますね。人間と区別する一線が限りなく曖昧になるといったテーマです。外(宇宙)を描くことで,比喩的に(哲学・精神的な)内面の宇宙を考察する作品が生まれるのは興味深いものです。

 

地球外生命体(ET)や,人工知能(AI)とくれば,スピルバーグ監督。第78回アカデミー賞ノミネート作品メモとして,「宇宙戦争」にも触れておきましょう。視覚効果賞,音響賞,音響効果賞にノミネートされています。DVDをレンタルすることができる作品です。

 

1898年に発表されたHG・ウェルズ原作の「宇宙戦争」は, その後108年の間に,舞台化,ラジオ・TV番組化,映画化,アニメやゲーム化等と,いろいろな媒体で再生され,パロディすら多数登場しています。

 

特に伝説的な例は,1938年のハロウィーン前夜に放送されたオーソン・ウェルズのラジオ劇場。劇中に演出された「火星人来襲」という臨時ニュースを,本物のニュースと勘違いして120万人の人々がパニックに陥ったといういわく付きの放送です。姿が見えないラジオが,かえって聴衆の恐怖心を呼び起こしました。

 

「宇宙戦争」の見える例では,当時のカリフォルニアに舞台を移した1953年の映画化があります。まだ,宇宙人=火星人の時代でした。そして,東西の冷戦時代を迎え,宇宙開発が過熱しました。もはや火星人の使えない現代の「宇宙戦争」は,アメリカ東海岸に舞台を移し,天地異変(竜巻・地震など),飛行機事故等を装ったテロ(911)や,戦時下のイメージが挿入され,現代人のリアルな接点となっています。

 

それでは,何が地球を襲っているのでしょうか。活字(本)の場合は,読者が想像力を自由に駆使することができますが,映像になると誤魔化しがききませんね。宇宙人を見せるか見せないか。キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)等のように,見せない判断の方が賢明かもしれません。地球外生命体の描写は本当に難しい。

 

ただ,敢えて見せようというチャレンジには敬服します。スピルバーグ監督は,見せる派ですね。「未知との遭遇」(1977年),「E.T.」(1982年)と,基本的に友好的な遭遇がテーマで,フレンドリーで寛容な地球外生命体は,見かけじゃないよ,心だよと受け入れられます。ちょっと不恰好な方が,かえって愛着が増します。

 

スピルバーグ監督の友であるルーカス監督の「スターウォーズ」シリーズでは,宇宙にはいろいろな生命体がいて,友好的なのもいるし,敵対的なのもいました。多文化共生社会(他の生命体の存在価値を認める宇宙)を目指す者と,宇宙征服をもくろむ者(帝国主義)との戦いです。

 

「宇宙戦争」では,敵対的な宇宙人を見せます。かなりうまくできているのですが,スピルバーグ監督の作品に限らず,真面目なシーンに突拍子もないものが出てくると,興ざめしてしまいますね。ヘタすると,パロディやコメディの格好のネタになってしまいます。

 

どこかで見たことのある紋切り型の寄せ集めであったり,人間の姿を借りていたり,人間に近い動物(猿系)や,気味の悪い蛇系であったり,軟体動物などネバネバ系であったり,巨大化した昆虫系や蜘蛛であったりします。これほど,人間の想像力の限界を見せつけられるものはありません。

 

オーソン・ウェルズのラジオ劇場のように,観衆のイマジネーションに勝る映像化は,スピルバーグ監督とはいえ,今のところ無理なのかもしれないと感じます。それでも,HG・ウェルズ原作の挿絵などを忠実に映像化していますので,「宇宙戦争」を原作者へのオマージュとして観ることはできます。また,この作品では,映像がグロくなり過ぎないような心遣いが感じられます。

 

音響・効果面での秀でた表現力,そして,光あふれるシーン。スピルバーグ監督のSF系作品のトレードマークは,ほぼ30年遡る「未知との遭遇」に,はっきりと読み取ることができます。SFノアールとは違った独特の視覚化が試みられ,「宇宙戦争」も,露出過多に撮影した白日夢のようなシーンや,フェリーが転覆した水中シーン等,光の扱い方が大変印象的でした。

 

「宇宙戦争」は,トム・クルーズと組んだ第2作目に当たりますが,最初の「マイノリティ・リポート」(2002年)でも,視覚的な光の表現が印象的でした。音楽では,シューベルトの交響曲「未完成」が,クルーズのテーマとして用いられています。未来でも,犯罪シーンの画像解析をコンピューターではなく,人間(未完成な存在)が行うところが象徴的で,人間の直観力や本能が重要な鍵を握ります。

 

「マイノリティ・リポート」の原作者フィリップ・K・ディックのSF短編小説の映画化では,SFノアールのカルト的作品「ブレードランナー」(1982年)や,「トータル・リコール」(1990年)等の秀作があります。立場の逆転や,存在そのものを問い,何が真実なのかといったテーマを扱っています。HG・ウェルズから約半世紀後に書かれたSF作品です。そのうちフィリップ・K・ディック特集を組みたいと,楽しみにしています。

 

A.I.」(2001年)は,スタンリー・キューブリック監督の遺志を受け継いだ作品で,ロボットと人間の関係が描かれています。キューブリック監督の最後の映画「アイズ ワイド シャット」(1999年)のカメラワークがいたるところに再現され,光と色調に敬意が払われているのには思わず目頭が熱くなりました。

 

子どもにあたるロボットが「A.I.」の主人公なので,基本的に「未知との遭遇」や「E.T.」(1982年)に続くファンタジー路線(ピノキオ)ですが,交流型のSFではなく,その後の「マイノリティ・リポート」や「宇宙戦争」に続く問題提起型のSF作品です。

 

ロボットに愛することができるのかという命題や,ロボットの存在を人間の都合で勝手にしていいのかといったところは,前出の「ブレードランナー」と重なる部分があります。愛する人を喪うこと,裏返せば,愛すること,生きること(存在)という人間らしい普遍的なテーマが全編に流れています。故キューブリック監督へのオマージュです。

 

人類が滅亡した遠い未来で,生命体が人間について考証し,芸術的な創造性を高く評価する「A.I.」のシーンを思い出しました。ロボットやアンドロイド,そして地球外生命体の知・情・意を問うことで,図らずも人間自身の知・情・意のバランスが問われます。未知の世界を探求することで,今迄知らなかった自分と出会う……。試行錯誤の分野であり,新しい表現を試すことのできるフロンティアでもあります。

ローカル/ユニバーサル 第3夜 「バットマン ビギンズ」

カルチャーショック

 

最近,ブログをさぼっているのは,単に仕事が忙しいからだけなのですが,日本に帰国して,字幕にカルチャーショックを受けたという話などいかがでしょうか。今夜は,第78回アカデミー賞ノミネート作品メモでもあります。日本でも次々とアカデミー賞ノミネート作品が劇場公開されていますが,現在DVDをレンタルできるものから紹介しますね。

 

字幕というものは大変便利なのですが,バイリンガルの友人などから「かなりアバウトだ」と聞いていました。字数制限など多くの制約の中,文化的な背景を手短に説明するのは難しく,意訳(時には移訳・異訳)になるのは仕方がないと思います。もちろん,いい訳だと感心することも多々ありますし,字幕なしでは言語の違いを越えて映画を楽しむことができませんね。

 

帰国後,初見の映画を日本語字幕と共に観るのは,全く違和感がなかったのですが,ショックを受けたのは,原語(英語)のみで既に観ていた映画を,日本語の字幕と共に再び観た時でした。翻訳のおかげで理解が深まる場合もありますが,全く同じ映画とは思えないこともあります。確かに,かなりアバウトです。

 

そのうち,初見の映画も字幕と原語の音声にも,注意を払うようになりました。例えば,「バットマン ビギンズ」の字幕は,大変よくできていますし,日本語として一貫性があるのですが,原語(英語)だけで観た場合と,かなり印象が違います。

 

この辺の説明は,また別の機会にゆっくりお話していこうと思いますが,突然,気が付いたのですよね。なぜ,日本の友人達と洋画の話をしていても,ぜ~んぜん話しが通じなかったのか。やっとわかりました。なるほど,日本語タイトルを知らなかっただけではないようです。言葉だけでなく,文化的な背景を共有するのは難しいものだと改めて感じます。

 

さて,「バットマン ビギンズ」ですが,クリストファー・ノーラン監督の作品というだけで要チェックですし,アメコミのヒーローものを,オリエンタル風ブリティッシュに料理していて,大変面白かったです。バットマン・シリーズ第5作目の映画にあたり,ティム・バートン監督の第1作(1989年)の前編として,主人公ブルース・ウェインが,バットマンになる動機と過程が描かれています。

 

アカデミー賞では技術面の撮影賞で評価されていますが,音響も素晴らしい作品です。ゴッサム・シティは,シカゴのスカイラインをロケしたそうですが,イギリス的な感じに(もしくはアメリカらしくなく)仕上がっています。ノーラン監督の前作「インソムニア」(2002年)の氷の世界も活用されていましたね。

 

また,インターナショナルな豪華キャストを迎え,特にイギリス勢は芸達者を集めています。マイケル・ケインの肩の力の抜けた執事アルフレッドは人間味にあふれ,大仰さを抑えたゲイリー・オールドマンが,地道に普通の人(真面目な警官)を演じているのには大変驚きました。トム・ウィルキンソン,リーアム・ニーソン,ルトガー・ハウアー,渡辺謙と,主役級の人々が,しっかり脇を固めています。

 

会社の片隅で細々と先端技術を開発・管理し,後にバットマンへの化身を手助けするモーガン・フリーマンの役割と,産業メカの数々には,007に登場する秘密兵器開発担当のQを思い出しました。アメリカのマンガ(DCコミック)を,イギリス人が解釈すると,こうなるのかなぁなんて,ちょっと興味あり。

 

あまり人付き合いのない主人公ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)に,バットマンの二重生活をカバーするには,プレイボーイを演じるのがよいと進言するアルフレッド。この辺で,ジェームズ・ボンドのイメージが重なり始めますが,幼馴染に打ち明けられないほどシャイです。

 

近年の人気イギリス映画の例に漏れず,お相手役を演じるのはアメリカ人女優(ケイティ・ホームズ)。はっきりしない主人公に,意志の強いアメリカ人女性というパターン。しかしながら,映画に花を添えるだけではなく,ヒーローと対等に描かれているところに好感が持てます。数少ない主人公の友達は,まっすぐな検事補に成長し,自立した現代女性として描かれています。

 

初めてイギリス人の演じるバットマン。「太陽の帝国」(1987年)の子役時代から注目していたクリスチャン・ベイルが,子ども時代のトラウマ(恐怖心)を抱えた主人公を好演していると思います。物理的および比喩的な転落,愛する人(両親)を無意味な犯罪で失うこと(死),罪悪感。社会の悪に立ち向かう内的動機は,それらへの恐れを理解し,克服しようとする個人的なニーズからきています。

 

「バットマン ビギンズ」はマンガが原作とはいえ,表面的な紋切り型に終わらず,大変真摯な作品に仕上がっていると思います。

映画フォーラム第2夜

ミラー・イメージ(鏡像)

 

今夜は,オープン・フォーラム(自由討論)です。映画にまつわるトピックを皆さんと一緒に考えよう試みですので,気軽にコメントしていってくださいね。

 

前回のフォーラムのテーマは,「映画館・DVDTV」でした。「TV放送でも充分なのではという映画もある」という点が挙げられていましたが,TV放送だけではなく,劇場で公開されて欲しい番組(TV映画)もあるでしょうか。大きなスクリーンに向いている映画とは,皆さんにとってどんな作品でしょうか?

 

アメリカでは,ケーブルや衛星放送の初期の頃から,映画番組のプログラミングの際,現存する映画の数では足りないことが指摘されていました。そこで,ケーブルTV局などが,独自のTV映画を作成し始めまたのですが,なかなかよい作品が登場しています。(後日,いくつか紹介しますね。)

 

スポンサー(CMの広告主),もしくは視聴者から,作製の資金を調達するTVの場合,視聴率に内容が大きく左右されます。つまり,TV映画には,スポンサーのターゲット市場に受け入れられることが資金繰りの基盤にあります。視聴者に最も受け入れられる番組を作製することが目的なので,最大公約数的なフォーミュラが否応なしに作用します。TVも,映画も,ビジネスです。売れなくては,ビジネスとして成立しません。

 

実験的な作品の登場する余地は,ほとんどないようなものの,同時に,フォーミュラだけを踏襲するだけで安泰というわけにはいきません。退屈な作品になった時点で,ゲーム・オーバーです。適度に新鮮な息吹を吹き込まなくては,ビジネス自体が衰退していく運命にあるのも事実です。創造的な媒体である映画やTV番組では,視聴者の知的好奇心を刺激する工夫を織り込むチャンスがあるのが興味深いところです。

 

映画がTVで放送されるのは日常茶飯事ですが,逆の場合はどうでしょう。TV番組として作製された作品が,映画として劇場で上映された例はありますか?

 

例えば,「マルホランド・ドライブ」(2001年,デヴィッド・リンチ監督)はどうでしょう。この映画は,「ブルーベルベット」(1986年)や,映画とTV番組を生んだ「ツイン・ピークス」(198992年)の流れを汲むものですが,はっきりとした結末を期待すると,わけのわからない映画といった印象を受けます。

 

TV番組として撮影されたもののパイロット番組の段階でボツになり,映画として編集し直して公開された作品です。1999年に,ABC(アメリカ3大ネットワークの1つ,オーナーはディズニー)の番組ラインアップでしたが,ディズニーとデヴィッド・リンチという組み合わせ自体が,一種ブラック・ユーモアなのかと。

 

「ツイン・ピークス」で,映画→TV→映画と,媒体のクロスオーバーを,既に手がけていたデヴィッド・リンチ監督。今回は,より完成度の高い映画化です。しかしながら,デヴィッド・リンチの世界を体験するための作品とのことで,何が言いたいのかは明確にされていません。そんなのあり?その答えによって,映画の見方が違ってくるでしょう。

 

印象派の絵のような世界に例えてみることができるかもしれませんね。例えば,印象主義という名前が授けられたモネの作品「印象,日の出」(1872年)は,伝統的な正統派の技法を捨て,ただ直感的な印象に頼っているだけと,公開当時,記者ルロワに酷評されました。最初は蔑称として使われた印象主義という絵画の分野が,今では多くの人々に受け入れられているのは不思議なものです。

 

文学では,象徴主義の(マラルメ,ランボー,ヴェルレーヌ等)が,印象派の絵画とほぼ同時期に登場しましたが,直接的な表現を避け,イメージや音楽による暗示にとどめる表現法を用いています。音楽もその頃,大きな変革期を迎えました。印象派にせよ,象徴主義にせよ,日本的,もしくは東洋的な世界と相通じるものがあります。沈黙,暗示,象徴の美学です。

 

さて,「マルホランド・ドライブ」ですが,映画の中盤に鏡が置かれたような作品で,2人の女性の関係が鏡に映し出されているように,2通りに描かれています。どちらかが夢?それとも,どちらも夢?前半は,そう言えば現実離れした理想の世界でもあるような。いや,後半も映画的な悪夢かもしれません。真面目なのか,不真面目なのか,陳腐な紋切り型が結構笑えて,全体的に映画の繋ぎになっています。

 

中盤に登場する劇場(Club Silencio)の興行が,虚構の世界をグロテスクに,そして,感動的に象徴していますが,それでも何かを信じたくなる不思議な衝動にとらわれます。映画のポスター(リタ・ヘイワース)から取った名前や,レストランのウエートレスの名札からとった名前を名乗る主人公達。嘘と真実。映画は全てつくりごと。しかしながら,映画を創造したプロセスは存在します。多分,それがこの映画の真実なのかもしれません。映画は現実を映し出す鏡のようなものでもあります。

 

映像だけの映画や,抽象的な映画,コンセプトに主眼を置いた映画など,実験的な映画や,直感的な映画の中で,好きな作品がありますか?理解できないけれど,それでもなぜか気になったという作品を観たことがありますか?また,これらの作品を,映画としてバランスの取れた作品と,どのように比べることができるのでしょうか?

 

皆さんは,どう思われますか?

ローカル/ユニバーサル 第2夜 「グッバイ,レーニン!」

ベルリンの壁の向こう側で

 

今夜の映画は,「グッバイ,レーニン!」(2003年,ヴォルフガング・ベッカー監督)です。ドイツの東西統一という歴史的な出来事を,東側に住む青年の目を通して描いた作品です。

 

その土地独特(ローカル)の様子が手に取るようにわかるのと同時に,普遍的(ユニバーサル)な接点を確立することに成功した映画だと思います。1年ぶりに,ローカル/ユニバーサルのカテゴリを再開します。

 

歴史的な出来事に血を通わせることができた理由の一つは,東側の人々がどのようにベルリンの壁の崩壊(1989119日)を体験したのか垣間見ることができること。そして,自家製映画というクリエイティブな接点を通して,個人の目線から描くことができたことが挙げられます。

 

東ベルリンに住む主人公(ダニエル・ブリュール)は,父親が西側に亡命したため,母親に育てられました。東側に残された母親は,愛国者ではあるものの,決して盲従しているわけではありません。官僚主義からくる無意味さや画一的な無駄を理解し,前向きに人々の陳情を根気よく代弁し続けました。東側の生活の様子が,温かくユーモアを込めて描かれています。

 

70年後半から80年代に子ども時代を過ごした主人公は,宇宙飛行士になることが夢でした。子ども時代のホーム・ムービーに記録された映像の断片が,懐かしさとともに映画の中で再生されます。東西を問わず,宇宙飛行士に憧れた人は多いでしょうし,そんな人が身近にいたかもしれませんね。ローカルであり,ユニバーサルな接点です。

 

また,自家製の映画づくりが意味を持ち,いたるところで重要な役割を果たしています。この映画は,ホーム・ムービーで始まり,ホーム・ムービーで終わります。映画ファンによる映画です。

 

ストーリーの設定は,ベルリンの壁の崩壊の直前に母親が心臓発作を起こし,昏睡状態のまま東と西の統合を迎えるというものです。西側のライフスタイルの浸透,東西通貨の統合,ワールドカップ優勝の盛り上がり,西側のTV番組……,眠り続ける母親をよそに世の中は急速に変化していきます。

 

東西統一で,主人公の勤務していたTV修理業務が廃業したのを機に,衛星放送の受信設置会社に再就職します。そこで,西側からのパートナーと組んで仕事をすることになりますが,そのパートナーは,大のキューブリック監督かぶれ。独自の映画を作ることが夢です。のちに,その願望が大いに役に立ちます。

 

そして,8ヵ月後。母親は目覚めたものの,刺激を与えないようにという医師のアドバイスを,かたくなに守る主人公。ベルリンの壁崩壊以前の生活を再現します。壁のチェ・ゲバラ。そして,入手困難になった昔ながらの食料品。西側の物品が大量に流入する中,主人公は文字通り東西奔走して,東側の品々を調達します。調度品や壁紙は趣味が悪いけれど,なぜか懐かしく愛着のある部屋。ここで,観衆は東側の生活の様子を垣間見ることが出来ます。

 

TVを見たいという母親のために,一計を案じた主人公は,映画監督志望のパートナーに,ニュース番組の作成を依頼します。もちろんOKです。一世一代の熱意の込められた番組作成が始まります。ある日タクシーに乗ると,運転手はなんと子ども時代の憧れの宇宙飛行士ではありませんか。捏造TV番組に出演してもらうことになります。

 

主人公とパートナーは東側のTV番組の捏造にのめり込んでいきますが,主人公の姉や彼女は本当のことを言えないフラストレーションが募ります。(観衆の疑問を代弁し,脚本に盛り込むチャンス!)やがて,主人公は「こうあって欲しかった」東側を演出していることに気付きます。時には滑稽に,時には切なく,ユーモアと愛情に満ちた嘘。悪意のない嘘。

 

映画も嘘の世界と言えばそうかもしれませんね。しかしながら,そこに何らかの真実を見出すことが出来る人は,幸せな人なのかもしれません。ベルリンの壁の向こう側にも,こんなに素晴らしい家族の愛があったことが,映画という形で記録されたことは素敵なことだと思います。嘘の世界と創造の世界の境界線が曖昧になります。

 

混乱と珍騒動のうち,主人公は旧ソ連から来ていた看護士ララと恋仲になります。政治的,社会的,経済的,文化的な大変化を縦糸に,子どもの頃の夢と家族愛を横糸に紡いだ映画づくりの映画に,ロマンスまで絡めているなんて……。2時間あまりの作品に,これだけ盛り込むことができたのは驚きです。いや,ただ盛り込んだだけというのではなく,歴史を身近なものにすることができたのは,映画というコミュニケーションの媒体のおかげですね。

 

ソ連からの可愛いララ。私も同級生に,ソ連から来たララがいたことを懐かしく思い出しました。「以前から日本に興味があったのよ」と,話しかけてくれた彼女。ララは,日本語表記によってはラーラになり,ラリッサの愛称です。そう,映画ファンなら,「ドクトル・ジバゴ」(1965年)のラーラ(ラリッサ)を,思い出したかもしれませんね。

 

彼女から聞いた東西統一の生の話は,大変印象深いものでした。若い人は新しい生活に適応できるけれど,お年寄りの人にとっては,新しいやり方や,変化についてくのはストレスであると。「グッバイ,レーニン!」に描かれている年配の人々の反応を見て,彼女から聞いたことを改めて実感しました。そんな人々への愛情が込められた作品とも受け取れます。東側の人々が身近に感じられた映画でした。

比較対照 第6夜 「ヘヴン」

ヘヴン in トリノ

 

トリノ冬季オリンピック(210日~26日)の開催間近となりましたので,イタリアはトリノ(英語表記Turin)を舞台にした映画はいかがでしょう。1年ぶりに,比較対照のカテゴリを再開します。

 

アルプス山脈を隔ててフランス国境に近接する,イタリア北西部トリノに行ってみることにしましょう。トリノはイタリア映画産業発祥の地とされ,毎年11月にはトリノ国際映画祭が開催されています。トリノが舞台の作品や,ロケ地として使われた映画は結構あるのですが,「ヘヴン」(2002年,トム・ティクヴァ監督)を選んでみました。

 

まずは,「ヘヴン」の脚本から。ポーランド出身のクシシュトフ・キエシロフスキー監督の遺稿「天国・地獄・煉獄」(直訳)三部作から,天国の部分の映画化です。

 

キエシロフスキー監督は,トリコロール三部作(199394年)等で,何らかの接点も持ちつつ,幾つかの物語が並行するスタイルの映画を得意としていました。このポリフォニー的スタイルでは,ポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」(1999年)や,メキシコのアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の「アモーレス・ぺロス」(1999年),「21グラム」(2003年)が思い浮かびます。

 

イニャリトゥ監督の2作品では,幾つかの人生が,交通事故という共通の接点に重ねられていきます。今年のアカデミー賞にノミネートされているポール・ハギス監督・脚本の「クラッシュ」と,これ等の作品を比較対照してみると面白いかもしれませんね。

 

ソダーバーグ監督の「トラフィック」(2000年)の下敷きになったTV映画「トラフィック!ザ・シリーズ」(1989年,英国)も同じく,共通接点のある複数のストーリーが,イギリス,ドイツ,パキスタンで同時進行するといったものでした。麻薬犯罪という重いテーマを,流通(生産地からユーザーまで)の各段階で起きる社会問題(貧困,若者の中毒など)と,個人の問題を,複眼的視点から真摯に掘り下げた作品でした。ソダーバーグ監督版は,メキシコ国境,オハイオ,首都ワシントンDCと,舞台をアメリカ大陸に移しています。

 

「ヘヴン」では,イタリアで英語を教えるイギリス人の女性(ケイト・ブランシェット)は,長年,警察(憲兵)に,麻薬の取り締まりを陳情しているにもかかわらず,麻薬中毒に夫と生徒を失ってしまいます。映画では,夫と同級生だった麻薬ディーラーに,復讐を企てるところから始まります。しかしながら,運命のいたずらで,ディーラーは難を逃れ,罪のない親子連れと,年配の清掃係の女性が巻き込まれてしまいます。どうしようもない行き詰まりから映画は始まります。

 

行き詰まりの展開では,トム・ティクヴァ監督(脚本・音楽も)は既に「ラン・ローラ・ラン」(1998年)で,映画の特性を上手く生かしたテンションの高い作品を創作していましたが,「ヘヴン」では,ティクヴァ監督の全く違った力量を見ることができて面白かったです。

 

「ラン・ローラ・ラン」では,麻薬の取引に巻き込まれた絶体絶命の恋人を救うため,主人公ローラ(フランカ・ポテンテ)が,主要な鍵を握る20分間を3度生きることになります。3つの可能性のシナリオが,MVばかりのアップテンポで展開し,フランカ・ポテンテの持ち味を生かした作品でした。

 

「ヘヴン」では,クシシュトフ・キエシロフスキーの脚本ということで,もっと現実的な展開を見せますが,適度の緊張感が作品全体的に保たれています。重いテーマをよどみなく見せるところはティクヴァ節。上映時間81分の「ラン・ローラ・ラン」,96分の「ヘヴン」と,2時間を越える映画が多い中,タイトな作品作りには無駄がありません。音楽家でもあるティクヴァ監督は,テンポのコントロールが大変上手い。また,「ヘヴン」でも,個性的な女優(ケイト・ブランシェット)の魅力を上手く発揮していると思います。

 

この映画が,通例の犯罪カップルのロード・ムービーと違うのは,「俺たちに明日はない」(1968年)のボニーとクライドのようなモラルの欠如,「トゥルー・ロマンス」(1993年,タランティーノ脚本)のような無意味なバイオレンスとは,一線を画する作品であることです。

 

「ヘヴン」では,主人公に恋心を抱く通訳担当の青年(ジョヴァンニ・リビシ)の協力を得て,初夏のトリノからトスカーナ地方への逃避と展開します。この内気な青年の家族の愛情が素晴らしく,主人公に英語を教えてもらっていた弟,そして,この女性を愛することが,息子の人生にとってどれほど重要なことか理解した父親。警察官である父の立場を考えると,大変勇気のいることです。

 

「トゥルー・ロマンス」でも,主人公(クリスチャン・スレーター)の警察官である父親(デニス・ホッパー)が,同じように,息子の選択を受け入れますが,エンディングは全く違ったものになっています。因果応報から逸脱している(犯罪を逃れてメキシコに逃げおおせる)点で,北米の大学レベルの講義などで,ディベートの題材として用いられてきました。

 

比較対照できる作品として,「25時」(2002年,スパイク・リー監督)を挙げておきましょう。主人公(エドワード・ノートン)と幼馴染み(フィリップ・シーモア・ホフマン,バリー・ペッパー)の性格描写,父親(ブライアン・コックス)の息子への愛情が素晴らしい映画でした。祈りのような父の愛が,スクリーン上で結晶と化した詩的なロード・ムービーとしては,最高の作品だと思いますし,主人公が逃げないという点で,大変真摯なエンディングになっていると思います。

 

「ヘヴン」のエンディングにも,賛否両論があります。主人公は自分の行いを自覚していますし,2人にモラルの曖昧さがありません。そのあたりを明確にしたエンディング,もしくは,クシシュトフ・キエシロフスキーが監督していれば,全く違ったものになっていたと言われています。しかしながら,場合によっては最後まで言う必要はないと思います。見る人に判断を委ねるティクヴァ監督らしい詩的なエンディングです。

 

この手の詩的エンディングでは,「シャドウ・オブ・ウルフ」(1993年,イブ・テリオー原作)が思い浮かびます。カナダのイヌイット(エスキモー)と,文明社会との軋轢と葛藤が描かれていますが,イヌイットの族長(三船敏郎)が選んだ結末は,全てをはっきり言わないことによって,かえって余韻が残りました。どちらの作品も,視覚的に表現することができる映画の特性を,うまく生かしていると思います。

 

トム・ティクヴァ監督は,ここ数年注目している監督の1人で,ドイツ出身,1965年生まれです。「ヘヴン」の中の挿入曲(ピアノ,チェロ)も手がけていて,マルチ・タレントな監督さんですね。今後の活躍を楽しみにしています。

 

トリノで見つけた小さな天国です。

映画の情報交換しましょう4

131日(現地時間)に,第78回アカデミー賞ノミネート作品の発表がありましたので,そのあたりから始めることにしましょう。※

 

ゴールデン・グローブ賞で健闘した「ブロークバック・マウンテン」が,こちらでも最多部門(8部門)でノミネートされています。内訳は,作品賞,監督賞(アン・リー),主演男優賞(ヒース・レジャー),助演男優賞(ジェイク・ギレンホール),助演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ),脚色賞(ラリー・マクマートリー,ダイアナ・オサナ),撮影賞,作曲賞です。

 

6部門ノミネートは,「グッドナイト&グッドラック」,「クラッシュ」,「SAYURI」。「グッドナイト&グッドラック」の内訳は,作品賞,監督賞(ジョージ・クルーニー),主演男優賞(デヴィッド・ストラザーン),脚本賞(ジョージ・クルーニー,グラント・ヘスロフ),撮影賞,美術賞。「クラッシュ」の方は,作品賞,監督賞(ポール・ハギス),助演男優賞(マット・ディロン),脚本賞(ポール・ハギス,ボビー・モレスコ),編集賞,歌曲賞。「SAYURI」は,撮影賞,美術賞,衣装デザイン賞,作曲賞,音響賞,音響効果賞と,主に技術面での評価です。

 

5部門ノミネートは,「カポーティ」,「ミュンヘン」,そして「ウォーク・ザ・ライン/君に続く道」。「カポーティ」の内訳は,作品賞,監督賞(ベネット・ミラー),主演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン),助演女優賞(キャサリン・キーナー),脚色賞(ダン・ファターマン)。「ミュンヘン」は,作品賞,監督賞(スティーヴン・スピルバーグ),脚色賞(トニー・クシュナー,エリック・ロス),編集賞,作曲賞。ゴールデン・グローブ賞で健闘した「ウォーク・ザ・ライン/君に続く道」は,主演男優賞(ホアキン・フィニックス),主演女優賞(リース・ウィザースプーン),編集賞,衣装デザイン賞,音響賞のノミネートです。

 

4部門ノミネート作品は,「プライドと偏見」,「キング・コング」,「The Constant Gardener」(仮題「ナイロビの蜂」)。3部門は「シンデレラマン」,「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」,「宇宙戦争」。2部門では,「シリアナ」,「スタンド・アップ」,「ヒストリー・オブ・バイオレンス」,「Transamerica」,「Mrs. Henderson Presents」,「Hustle & Flow」でした。

 

日本からは,「ハウルの動く城」が,アニメーション作品賞で候補にあがっています。

 

皆さんの気になる映画,ありましたか?今年のダークホースはいかに?

 

発表は35日(米国現地時間)です。

 

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※参照

全ノミネート作品リスト(英語ですが,写真付)は,以下のリンクから。

http://www.oscar.com/nominees/list.html

 

作品賞:
「ブロークバック・マウンテン」
「カポーティ」
「クラッシュ」
「グッドナイト&グッドラック」
「ミュンヘン」

監督賞:
アン・リー(「ブロークバック・マウンテン」)
ベネット・ミラー(「カポーティ」)
ポール・ハギス(「クラッシュ」)
ジョージ・クルーニー(「グッドナイト&グッドラック」)
スティーヴン・スピルバーグ(「ミュンヘン」)

主演男優賞:
フィリップ・シーモア・ホフマン(「カポーティ」)
テレンス・ハワード(「Hustle & Flow」)
ヒース・レジャー(「ブロークバック・マウンテン」)
ホアキン・フェニックス(「ウォーク・ザ・ライン/君に続く道」)
デヴィッド・ストラザーン(「グッドナイト&グッドラック」)

主演女優賞:
ジョディ・デンチ(「Mrs. Henderson Presents」)
フェリシティ・ハフマン(「Transamerica」)
キーラ・ナイトレイ(「プライドと偏見」)
シャーリーズ・セロン(「スタンド・アップ」)
リース・ウィザースプーン(「ウォーク・ザ・ライン/君に続く道」)

助演男優賞:
ジョージ・クルーニー(「シリアナ」)
マット・ディロン(「クラッシュ」)
ポール・ジアマッティ(「シンデレラ・マン」)
ジェイク・ギレンホール(「ブロークバック・マウンテン」)
ウィリアム・ハート(「ヒストリー・オブ・バイオレンス」)

助演女優賞:
エイミー・アダムス(「Junebug」)
キャサリン・キーナー(「カポーティ」)
フランシス・マクドーマンド(「スタンド・アップ」)
レイチェル・ワイズ(「The Constant Gardner」,仮題「ナイロビの蜂」)
ミシェル・ウィリアムズ(「ブロークバック・マウンテン」)

脚本賞:
「クラッシュ」
「グッドナイト&グッドラック」

Match Point
The Squid and the Whale
「シリアナ」

脚色賞:
「ブロークバック・マウンテン」
「カポーティ」
The Constant Gardner」(仮題「ナイロビの蜂」)
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」
「ミュンヘン」

 

今年のゴールデン・グローブ賞については,「Grapevine 口コミ」カテゴリ(ページの右上)をクリックしてご覧になってくださいね。