人間の想像力の限界と創造力の可能性
未来への好奇心,そして,宇宙のどこかに存在するかもしれない地球外生命体への探究心が生むSFは,人間の想像力の限界へのチャレンジでもあり,また,創造力を発揮するチャンスでもあります。SF系の映画を考察するカテゴリを開始します。
異質なもの(地球外生命体)との出合いを想定した場合,異文化間コミュニケーションや心理的な反応といった視点が,よく用いられています。映画が作成された時代を反映するような映画や,社会的な色合いを帯びた作品が結構多いのも頷けます。
また,人工知能(ロボット)・人造人間(アンドロイド,クローン)・人間のアイデンティティを問う作品も作成されていますね。人間と区別する一線が限りなく曖昧になるといったテーマです。外(宇宙)を描くことで,比喩的に(哲学・精神的な)内面の宇宙を考察する作品が生まれるのは興味深いものです。
地球外生命体(ET)や,人工知能(AI)とくれば,スピルバーグ監督。第78回アカデミー賞ノミネート作品メモとして,「宇宙戦争」にも触れておきましょう。視覚効果賞,音響賞,音響効果賞にノミネートされています。DVDをレンタルすることができる作品です。
1898年に発表されたH・G・ウェルズ原作の「宇宙戦争」は, その後108年の間に,舞台化,ラジオ・TV番組化,映画化,アニメやゲーム化等と,いろいろな媒体で再生され,パロディすら多数登場しています。
特に伝説的な例は,1938年のハロウィーン前夜に放送されたオーソン・ウェルズのラジオ劇場。劇中に演出された「火星人来襲」という臨時ニュースを,本物のニュースと勘違いして120万人の人々がパニックに陥ったといういわく付きの放送です。姿が見えないラジオが,かえって聴衆の恐怖心を呼び起こしました。
「宇宙戦争」の見える例では,当時のカリフォルニアに舞台を移した1953年の映画化があります。まだ,宇宙人=火星人の時代でした。そして,東西の冷戦時代を迎え,宇宙開発が過熱しました。もはや火星人の使えない現代の「宇宙戦争」は,アメリカ東海岸に舞台を移し,天地異変(竜巻・地震など),飛行機事故等を装ったテロ(9・11)や,戦時下のイメージが挿入され,現代人のリアルな接点となっています。
それでは,何が地球を襲っているのでしょうか。活字(本)の場合は,読者が想像力を自由に駆使することができますが,映像になると誤魔化しがききませんね。宇宙人を見せるか見せないか。キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)等のように,見せない判断の方が賢明かもしれません。地球外生命体の描写は本当に難しい。
ただ,敢えて見せようというチャレンジには敬服します。スピルバーグ監督は,見せる派ですね。「未知との遭遇」(1977年),「E.T.」(1982年)と,基本的に友好的な遭遇がテーマで,フレンドリーで寛容な地球外生命体は,見かけじゃないよ,心だよと受け入れられます。ちょっと不恰好な方が,かえって愛着が増します。
スピルバーグ監督の友であるルーカス監督の「スターウォーズ」シリーズでは,宇宙にはいろいろな生命体がいて,友好的なのもいるし,敵対的なのもいました。多文化共生社会(他の生命体の存在価値を認める宇宙)を目指す者と,宇宙征服をもくろむ者(帝国主義)との戦いです。
「宇宙戦争」では,敵対的な宇宙人を見せます。かなりうまくできているのですが,スピルバーグ監督の作品に限らず,真面目なシーンに突拍子もないものが出てくると,興ざめしてしまいますね。ヘタすると,パロディやコメディの格好のネタになってしまいます。
どこかで見たことのある紋切り型の寄せ集めであったり,人間の姿を借りていたり,人間に近い動物(猿系)や,気味の悪い蛇系であったり,軟体動物などネバネバ系であったり,巨大化した昆虫系や蜘蛛であったりします。これほど,人間の想像力の限界を見せつけられるものはありません。
オーソン・ウェルズのラジオ劇場のように,観衆のイマジネーションに勝る映像化は,スピルバーグ監督とはいえ,今のところ無理なのかもしれないと感じます。それでも,H・G・ウェルズ原作の挿絵などを忠実に映像化していますので,「宇宙戦争」を原作者へのオマージュとして観ることはできます。また,この作品では,映像がグロくなり過ぎないような心遣いが感じられます。
音響・効果面での秀でた表現力,そして,光あふれるシーン。スピルバーグ監督のSF系作品のトレードマークは,ほぼ30年遡る「未知との遭遇」に,はっきりと読み取ることができます。SFノアールとは違った独特の視覚化が試みられ,「宇宙戦争」も,露出過多に撮影した白日夢のようなシーンや,フェリーが転覆した水中シーン等,光の扱い方が大変印象的でした。
「宇宙戦争」は,トム・クルーズと組んだ第2作目に当たりますが,最初の「マイノリティ・リポート」(2002年)でも,視覚的な光の表現が印象的でした。音楽では,シューベルトの交響曲「未完成」が,クルーズのテーマとして用いられています。未来でも,犯罪シーンの画像解析をコンピューターではなく,人間(未完成な存在)が行うところが象徴的で,人間の直観力や本能が重要な鍵を握ります。
「マイノリティ・リポート」の原作者フィリップ・K・ディックのSF短編小説の映画化では,SFノアールのカルト的作品「ブレードランナー」(1982年)や,「トータル・リコール」(1990年)等の秀作があります。立場の逆転や,存在そのものを問い,何が真実なのかといったテーマを扱っています。H・G・ウェルズから約半世紀後に書かれたSF作品です。そのうちフィリップ・K・ディック特集を組みたいと,楽しみにしています。
「A.I.」(2001年)は,スタンリー・キューブリック監督の遺志を受け継いだ作品で,ロボットと人間の関係が描かれています。キューブリック監督の最後の映画「アイズ ワイド シャット」(1999年)のカメラワークがいたるところに再現され,光と色調に敬意が払われているのには思わず目頭が熱くなりました。
子どもにあたるロボットが「A.I.」の主人公なので,基本的に「未知との遭遇」や「E.T.」(1982年)に続くファンタジー路線(ピノキオ)ですが,交流型のSFではなく,その後の「マイノリティ・リポート」や「宇宙戦争」に続く問題提起型のSF作品です。
ロボットに愛することができるのかという命題や,ロボットの存在を人間の都合で勝手にしていいのかといったところは,前出の「ブレードランナー」と重なる部分があります。愛する人を喪うこと,裏返せば,愛すること,生きること(存在)という人間らしい普遍的なテーマが全編に流れています。故キューブリック監督へのオマージュです。
人類が滅亡した遠い未来で,生命体が人間について考証し,芸術的な創造性を高く評価する「A.I.」のシーンを思い出しました。ロボットやアンドロイド,そして地球外生命体の知・情・意を問うことで,図らずも人間自身の知・情・意のバランスが問われます。未知の世界を探求することで,今迄知らなかった自分と出会う……。試行錯誤の分野であり,新しい表現を試すことのできるフロンティアでもあります。