アート系 第4夜

ヴァージニア・ウルフの世界

 

今夜は,女流作家ヴァージニア・ウルフ(18821941年)に触発された映画を選んでみました。彼女の世界は大変プライベートなもので,感性と芸術性に溢れた繊細な表現を,どのように解釈し,映像化することができるのか,興味深いところです。

 

まずは,スティーヴン・ダルドリー監督の「めぐりあう時間たち」(2002年)から始めることにしましょう。マイケル・カニンガムの原作(ピュリッツァー賞受賞)の映画化で,時空を越えてヴァージニア・ウルフと2人の女性の1日が,ウルフの小説「ダロウェイ夫人」を接点に,間接的・直接的に重なり合っていくといった構成の作品です。フィリップ・グラスの音楽が印象的でした。

 

ダルドリー監督の前作「リトル・ダンサー」(2000年)では,内側からこみあげてくる芸術性への目覚めを,ストレートに描いていましたので,正直なところ全く油断していました。「めぐりあう時間たち」を観たときには,このような映画も創れるのかと,新鮮な驚きを感じました。直球を予期していたところに,秘密の変化球が来たような感じです。それも,ガーンというよりは,じんわりと効いてきました。

 

「めぐりあう時間たち」に登場する3人の女性の接点である「ダロウェイ夫人」の方も,1997年に映画化されています。こちらの方にも,少し触れておきましょう。舞台はロンドン,1923613日の1日を描いた作品です。その夜開かれるパーティーのために,ハイドパークで花を買うダロウェイ夫人。

 

議員夫人におさまったダロウェイ夫人の意識の流れ(stream of consciousness)は時空を超え,人生の分岐点であった30年前を再び訪れます。まだ夫の姓で呼ばれる前,クラリッサだった頃の情熱的な恋人。気になる女友達。後に夫となる堅実なダロウェイ氏。果たして,あの時の選択でよかったのかと自問します。

 

そして,1923年に交差するのは,第一次世界大戦のトラウマを抱えた復員兵と,1日の終わりに,窓越しに見えた老女の姿。ダロウェイ夫人の意識の分身とも解釈されています。若さ,老い,女性として生きるということ……。復員兵の選択に衝撃を受けつつも,今の生き方を受け入れるダロウェイ夫人。「めぐりあう時間たち」でも,このテーマが通奏低音のように流れています。

 

「めぐりあう時間たち」に戻りましょう。1941年,1951年,2001年に生きる3人の女性たちの1日が始まります。2001年,ニューヨーク。ダロウェイ夫人と,昔の恋人から愛称で呼ばれていたクラリッサは,作家である彼の受賞パーティーの準備をしています。「ダロウェイ夫人」の一節を引用しながら,祝賀会のために花を買うクラリッサ。

 

1951年,ロサンゼルス。主婦ローラは,生きる意味を見失い,幸せを感じることができず,愛のない結婚を選んだ「ダロウェイ夫人」を読むことで,かろうじて閉塞感と孤独感を飼いならしています。1941年,ロンドン郊外。もはや生きる意味を見出せなくなったヴァージニア・ウルフ……。いや,彼女は心の病を持ちつつも,今でも影響を与え続ける素晴らしい作品を生み出すことができたのです。

 

ちなみに,「ダロウェイ夫人」執筆時の仮題は,「めぐりあう時間たち」の原題The Hoursだったそうです。時の流れを遡り,意識の世界を掘り下げていく手法は,紛れもなくヴァージニア・ウルフそのもので,時空を自由に超え,複眼的な視点の提示と共に,パーソナルな意識・内面の世界の映像化が同時にできるのは,映画という媒体の特性でもあると実感しました。

 

同じく時の流れと意識が重なる「オルランド」(1992年)ですが,トランス・ジェンダーな主人公が,風のように400年の歳月を駆け抜けます。男性として生を受けたオルランドが,女性になった途端に家の相続権を失い,また,生まれてくる子どもが,男の子でなくては家を失ってしまうという事態に追い込まれます。

 

「オルランド」は,1928年に執筆されましたが,ジェーン・オースティンの「プライドと偏見」(「高慢と偏見」)や「いつか晴れた日に」の時代背景(女性は遺産を相続できない)と,まだまだ重なる部分があります。実際に,ヴァージニア・ウルフのパートナーでもあったヴィタ・サックヴィル=ウェストが,女性であるがために,愛着のある家を相続できなかったことが,「オルランド」執筆の動機とされています。

 

ボーヴォワールの「第二の性」(社会的に定められたジェンダーへの開眼)が登場するのは,まだ先,1949年を待たなくてはなりません。

 

サリー・ポッター監督の「オルランド」の映像化は,主人公を演じたティルダ・スウィントンの魅力と存在感を生かし,原作の意図を汲み取りつつ現代に繋げています。また,サンディ・パウエルの衣装が時に息吹を与え,時間の流れがワルツのように視覚化されています。クリエイティブな作品だと思います。

 

ベルリンの壁崩壊後に,旧ソビエト圏で行われたロケも効果的です。エリザベス一世の長い君臨(15581603年)が終わりを告げ,大寒波に襲われたロンドンで運命の人と出会うオルランド。氷に閉ざされた世界を再現したサンクト・ペテルブルグでのロケ。そして,失恋したオルランドは,辺境の地へ志願します。ウズベキスタンでのロケから,時空を超えた質感と,東方の空気が伝わってきました。

 

そして,現代のロンドンに,娘と共に颯爽と登場するオルランド。自分の肖像画の前で,傍観者的にカメラに向かい目配せします。

 

オルランドを演じるティルダ・スウィントンが,ゴダールの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」に登場するベルモンドのように,カメラに目線を送ったり,ユーモアや茶目っ気を導入したり,映画という媒体を意図的に用いた作品でもあります。(「ファイト・クラブ」のブラピの例の方がわかりやすいかな。1999年公開と,こちらの方が「オルランド」より新しいので悪しからず。)

 

ヴィタ・サックヴィル=ウェストの子息が,「オルランド」は,ヴァージニア・ウルフから母への長い長いラブレターだと称していましたが,意気消沈していた人に,このような素敵な励ましの言葉をかけることができるのは,彼女の才能そのものであり,また,これらの作品に,時空を超えて意味を見出した人も沢山いることかと思います。

第22回写真展 キルト変奏曲

About Last Weekend

 

先週末は,親友BOOさんを訪れ,一緒に「ダ・ヴィンチ・コード」を観に行き,「高慢と偏見」(TV映画,1995年)を鑑賞。今年も,BOOさんの手作りのバースデー・ケーキ(写真)で,お祝いしていただき,いい1年であったことに感謝しつつ,また今年も一緒に過ごすことができました。

 

BOOさんとは同級生なのですが,偶然にもアメリカ在住時に,3年間ほど,ご近所でした。そのおかげで,一緒に映画を沢山観ることができましたし,七面鳥を焼いたり,季節のお料理を作ったり,アジアン・マーケットに買い物に行ったり,行事に参加したり,遠出したり,楽しい思い出を一杯作ることができました。

 

その中でも,大収穫は,BOOさんの趣味のキルトを通して,知らない世界に触れることができたことでしょう。手先が器用でない私は,キルトと聞くだけで緊張し,冷や汗が出そうになりますが,作るのは無理でも,デザインやアイデアには,大いに相通ずるものがあると開眼。できないなんて,最初から尻込みせず,自分なりの関わり方があってもよいのかと思いました。

 

地元で開催されていたインターナショナル・キルト・フェスティバルへ, BOOさんに何度か案内していただきました。世界各地から寄せられた力作の数々に圧倒されながらも,伝統的な作品から最新のテクニックを導入した作品,昔懐かしいものから抽象的な作品,技術性および芸術性の高い作品と,いろいろな作風とアイデアに溢れていて,本当に刺激になります。

 

そして,キルトを作る人々の連帯感のようなものが温かくて,なんだか嬉しくなってきました。男性の方も,キルト作家として活躍されていますし,元エンジニアだとか,理系出身の方も結構いらっしゃいます。幾何学模様や,複雑なデザインの辻褄を合わせることに長けているはずです。また,話術やプレゼンテーションの巧みな方も多く,豊富な人生経験からの体験談,ものを創る喜びまで,面白いお話を伺うことができました。

 

3年前(2003年)のインターナショナル・キルト・フェスティバルの講演会に,BOOさんが招待してくれたのですが,その時の話題に上ったのが「ダ・ヴィンチ・コード」(原作)。「読んだことがある人」という質問に,満場の会場で,ほとんどの人の手が上がりました。あの時ほど,「ダ・ヴィンチ・コード」の影響力を実感したことはありません。

 

そのようなわけで,私達の会話にも「ダ・ヴィンチ・コード」が,いつしか浸透し,映画が公開されたら一緒に観に行こうと話すようになりました。公開時には,今は近くに住んでいないこともあり,なかなか時間の都合が付きませんでしたが,やっと実現しました。会えば,最近観た映画の情報交換や,感想を思う存分話すことができて,楽しかったです。

 

ジェーン・オースティン(原作)のTV映画「高慢と偏見」(原題Pride and Prejudice)の方は,最近では,「プライドと偏見」というタイトルで映画化された英文学を代表する文芸作品です。BOOさんがDVDを入手してくれたので,一緒に見ることができました。TV映画版では,コリン・ファースのダーシー様が英国で話題の的でしたが,なるほど,嫌なタイプ(誤解されるタイプ)を好演しています。

 

ダーシー様は,現代にもタイム・ワープして,「ブリジット・ジョーンズの日記」(2001年)の脚本にも登場しています。そう言えば,ブリジットも,現代版「高慢と偏見」のベネット家の姉妹達のように,結婚願望があるものの,なかなか思うようにいかないというお話です。ウィッカム氏の姿に,ブリジットの狡猾な上司ダニエル・クリーヴァー(ヒュー・グラント)の姿が重なったり,イギリスで「高慢と偏見」が社会的現象であったことや,今でも愛読され続けている一冊であることが伝わってきました。

 

「高慢と偏見」は,時代の制約(娘は遺産を相続できない)を背景にした,跡継ぎ(息子)のいないベネット家の一騒動なのですが,美しく奥ゆかしい長女,聡明な次女,風変わりな三女,自由奔放な四女と五女の五姉妹。そして,結婚適齢期に達した娘たちに,いい縁組をと大騒ぎの母に,白一点の傍観者的父。脇役を含めて,オースティンの人物描写が見事です。

 

ジェーン・オースティン原作の映画化では,同じく相続権のない姉妹達の父親が亡くなってしまった「いつか晴れた日に」(1995年,原題Sense and Sensibility)があります。女性は遺産を相続できないばかりか,身分の高い女性が職業に就けない等の制約があったため,たちまち経済的に窮地に追い込まれてしまいました。

 

なお,「高慢と偏見」では,父親健在のため,「いつか晴れた日に」のような切羽詰まった状況ではありませんが,父親亡き後の心配が,影のようにぴったりと寄り添っている理由が,この映画を観るとよくわかります。

 

「いつか晴れた日に」では,思慮深い長女と,自分の気持ちに正直な次女の対照的な恋愛が描かれていますが,原題のSense(分別)は長女,Sensibility(感性)は次女でした。分別があるからといって,感情がないわけではなく,辛い立場の長女を演じたエマ・トンプソンの解釈(脚色,アカデミー賞受賞)が,作品に深みを与えていたと思います。

 

そして,オースティン原作では,おせっかいなキューピッド役に専念する「Emma エマ」(1996年)があります。エマの失敗と成長を通して,人のことに執心している間に,自分も丸くおさまったというラブコメに仕上がっていますが,ベネット家の父親が傍観者的(なんせ61ですから)なのに比べて,エマは紛れもなく父親に愛された娘。基本的に,「終わりよければ……」(All’s well that ends well)のコメディー路線です。

 

次回は,ビクトリア朝からエドワード朝に生きた英国女流作家の作品を,「アート系第4夜」として採り上げてみることにしましょう。

アート系 第3夜

「カラヴァッジオ」(1986年)

 

アート系の映画となりますと,デレク・ジャーマン監督抜きに語ることはできません。今回は,「カラヴァッジオ」を,選んでみました。

 

カラヴァッジオ(15731610年)は,イタリアの実在の画家の名前です。最近の映画では,「ダ・ヴィンチ・コード」で,ルーブル美術館のソニエール館長が,セキュリティ・システムを作動するために壁からはずした絵が,カラヴァッジオの作品でした。

 

また,前回,アート系第2夜で登場した「気狂いピエロ」(1965年)の冒頭で引用されている画家ベラスケスに,影響を与えたとされています。ベラスケスのみならず,レンブラント,ルーベンス,フェルメール(「真珠の耳飾りの少女」2003年)に,もちろん,アルテミシアも(「アルテミシア」,“Painted Lady” 共に1997年作)。

 

映画「カラヴァッジオ」では,伝記的な枠組みを追いつつも,デレク・ジャーマン監督の目を通した絵画の再現部分が,見どころでした。伝記的な部分は,400年も経てば風化し,良きにつれ悪しきにつれ伝説化します。絵そのものが語りかけてくるものに,耳を澄ませてみると,いろいろな音色が聞こえてきます。

 

「希望なきところに怖れなし」と,ナイフの柄に刻まれた言葉のように,カラヴァッジオの人生は波乱万丈でした。画家の一生を詩のように,象徴的に表現しつつ,映画という媒体を使って絵画を再現する試みをした作品です。デレク・ジャーマン監督の直感,感性,解釈とのハーモニーが生み出したリアリティ。

 

芸術,すなわち人生なりき。この映画では,サミュエル・フラー監督の映画の定義「映画とは,戦場のようなもの。愛・憎しみ・アクション・バイオレンス,そして,死。すなわち,emotion(感動・感情)だ」(「気狂いピエロ」より)が,再現されています。アートとは,私的な体験であり,主観的なものであり,全身で感じるもの(エモーション)。芸術家は,知らずとも,自分自身を描いているものだと言います。

 

また,この映画を一言で表せば,「画家の目」と集約できるのかもしれません。つまり,画家が,どのように世界を見たのか。モデルの選び方,構図,意図的な照明(光と影のコントラスト),キアロスクーロ(明暗)等。そして,写真的なリアリズム(フォトリアリズム)的手法の萌芽(カメラ・オブスキュラ)。ジャーマン監督の案内で,カラヴァッジオの作品が,生き生きと現代に甦っていくのには感動しました。

 

創造的な画家から,創造的な監督へ。この映画の面白さは,デレク・ジャーマン監督自身の視点,「どのように絵を見たのか」であり,そこに新鮮さが宿っているのだと思います。意図的に,かつ,さりげなく,現代・近代のオブジェを導入することで,カラヴァジオ的視点の再生が,映画のいたるところに息づいています。

 

カラヴァッジオとかかわりを持った登場人物として,若き日のショーン・ビーン(「ロード・オブ・ザ・リング」等)と,ティルダ・スウィントン(「ナルニア国物語……」の白い魔女,「ブロークン・フラワーズ」等)が,絵のモデルとして,映画に登場します。

 

創造的な監督から創造的な女優へ。ティルダは,デレク・ジャーマン監督の常連でしたが,彼女の存在感,アート性,変幻自在ぶりには,いつもながら,目をみはるものがあります。

ゴダールの卵

「ヒポクラテスたち」(1980年)

 

今夜は,「アート系第2夜」に登場した「気狂いピエロ」(1965年),そしてゴダール的なアプローチに影響を受けていると思われる作品を選んでみました。映画メモです。

 

「ヒポクラテスたち」は,映画が好きで,医学生だった大森一樹監督の自伝的作品とのことですが,臨床実習や寮の仲間たちの日々がスケッチ風に展開します。

 

医者になることを目前に控え,医者になること自体に疑問を抱く者や,映画作成に熱中する者,他の夢(野球)が忘れられない者,優等生,二代目,二枚目,体育会系,再スタート(脱サラ)組みに,学生運動に没頭する者等々。いろいろなタイプの医者の卵が登場します。

 

理想的な医師像からかなり逸脱した人間臭い人々。冒頭の事故現場から,こっそり逃げるような本音のアンチ・ヒーロー。そして,仲が良くても,時には衝突し,悩みもあれば,思い上がりもあり。思うようにいかず挫折することもある。脇を固める友人・知人・寮生の生態を,複眼的な視点からとらえているのは面白く,なかなかリアルなアンサンブルだと思いました。

 

そして,医者になるというパラドックス。人の命をあずかるものの,自分の非力さや無力さにも気付いているということ。もちろん,医者でなくても,社会人になる前の漠然とした不安や不安定な状況は,誰もが通る道ですが,青春の狭き門です。

 

映画作成に没頭する寮生の部屋のポスターは,もちろん,「気狂いピエロ」でした。精神科に進む仲間から,「気狂い」は差別用語だとクレームが付いていましたっけ。ゴダール的ジャンプ・カットや,引用も登場しますが,背中を撃たれたり,爆発しないとなると,まぁ,あの結末かと。

 

映画で輪廻転生を遂げると,社会人1年後にジャンプした「セント・エルモス・ファイアー」(1985年),10数年後の再会なら「再会の時」(1983年)。同じく,複数の医学生を題材にした「フラットライナーズ」(1990年)等があります。

アート系 第2夜

「気狂いピエロ」(1965年)

 

ゴダールから始めることにしましょう。「気狂いピエロ」は,パリから南フランスの光と影をキャンバスに,絵画,本,詩の引用からできたコラージュを紡ぎながら,犯罪カップルが時空を移動し続けるといった感じの作品です。

 

ゴダール監督というフィルターを通した映画の断片・要素が,いたるところで直感的に結合・生成され,新たな質感と色を生み出していきます。映画の中の映画。フィルム・ノアール,ミュージカル,演劇の要素にヌーヴェルヴァーグ。いうならば,実験的な錬金術のような作品です。

 

そして,時には観客の世界に入り込んでみたりする。映画という媒体を意図的に用い,境界が曖昧になるものの,即興的な自由さも盛り込まれているため,ノアールでありつつも透明感があります。

 

同じく犯罪カップルを題材にした名作「俺たちに明日はない」(1967年)等と見比べてみると,視点や作風の違いが歴然としていますが,テレンス・マリック監督の「地獄の逃避行」(1973年)の透明度という点では相通じるものがあるかもしれません。

 

「気狂いピエロ」のオープニング・クレジットは,黒のバックグラウンドに赤と緑の文字が浮き上がるグラフィック・デザイン的な導入から始まり,2人の女性の白昼のテニス・シーンへと移ります。主人公の声が重なり,内省的な映画の空気と色調が設定されていきます。ベラスケスの絵画の根底に眠る沈黙の交響曲を呼び起こすモノローグ。

 

昼間のキオスクで,主人公が本を物色しているシーンが続きます。形は絶え間なく融合し,色と重なり合う触感。黄昏色の光と透明な空気で絵を描いた晩年のベラスケス。水面に映るかすかな光が揺らぐ夜のシーンへ。大気へと拡散し,やがて一つになる。

 

そして,室内へ。白いバスルームで,本を引用する主人公が登場します。夜の画家ベラスケスの描いた道化師(ピエロ)。広告業界で干上がった主人公は,お愛想でパーティーに出席するため,夜のパリへ。

 

虚飾の世界が繰り広げられる中,「悪の華」の撮影のために,アメリカからパリを訪れているという設定の映画監督(実在のサミュエル・フラー監督)に出会い,映画とは何かと問います。

 

「映画とは,戦場のようなもの。愛・憎しみ・アクション・バイオレンス,そして,死。すなわち,emotion(感動・感情)だ。」

 

映画「気狂いピエロ」では,サミュエル・フラー監督の定義が,全て体現されていました。

 

主人公は,魅かれ合うものの,結局うまくいかず別れた女性と再会し,2人の逃避行が始まります。女と犯罪。彼女のアパートの日常と非日常。誠実さの微塵もないフェムフェタール。話を聞かない女。最後まで,彼女は主人公をピエロと呼び続けました。会話を持つことができない2人。

 

映画は,ベラスケスの闇と沈黙の雄弁さに始まり,ランボーの詩「永遠」の引用で終わっています。あふれる太陽の光と地中海の海をバックに,

 

見つけた

何を

永遠を……

アート系 第1夜

アートハウスへ行こう!

 

暫くの間,アート系の映画,もしくは,私の思うところのアート系の映画から,いくつかお話することにしましょう。

 

「ミニシアター」系,もしくは単館上映系の映画がありますが,アメリカでは,「アートハウス」と呼ばれています。これらの作品は,複数の劇場で全国同時上映(ロードショー)する一般向けの映画と,配給の面で大きく異なり,簡単に分類すると,メジャーな作品に対して,マイナーな作品と分類することができると思います。

 

劇場数,観客数のみならず,映画の製作費もマイナーです。大型予算がないため,アイデア,創意工夫の腕の見せどころでもあります。また,メジャーな作品の制作が,売れること(出資者の意向)に仕切られ,最大公約数の人々にアピールすること(エンターテーメント性)がゴールであるのに対して,かなり自由な発想が許されるのも特徴です。

 

独創性・実験性の高い作品が多いので,場合によっては,意図するところが伝わってこなかったり,意味不明であったり,失敗に終わることもある反面,一味違った映画や,斬新なコンセプト,新鮮な作品に出合えるのが,アート系の魅力であり醍醐味であります。また,観る人によって賛否両論,全く違った見方ができるのが,これらの作品の面白さだと思います。

 

なお,エンターテーメント性の高い,メジャーな作品を,頭ごなしに否定しているわけではなく,それぞれの作品をじっくり観てみると,インデペンデントな気風を持つ芸術性の高い映画も沢山ありますし,マイナーな作品の中にも,商業的に成功している作品がありますので,一概には言えません。大きな予算をかけた芸術的試みには,技術の洗練を見ることができます。

 

ミニシアター,単館上映,アートハウス,ロードショーにこだわらず,私の思うアート性の高い作品,クリエイティブな作品を選んでみることにしましょう。ここでは,アート系の映画と広義に,包括的に呼ぶことにします。アート系の作品に共通しているのは,観る者が自由に解釈する余地が残されていること。面白い題材だと思います。

第21回写真展 薔薇と帆船

皆さんいかがおすごしでしょうか。6月は私の誕生月です。昨年度の「海辺の薔薇」に引き続き,薔薇の写真集第二弾をお届けいたします。今回は帆船が登場します。そして,雨の中の薔薇を撮影してきました。なかなか面白かったです。

 

一ヶ月の間に,写真の追加・入れ替えをしますので,時々覗いてやってくださいね。(以前の写真展でコメントの付いた写真は,アルバムの後方にあります。コメントありがとう!)

 

同じく6月生まれの皆さん,Happy Birthday to You!

 

61日 バニラ・スカイ (Vanilla Sky)

62日 帆船出現!

6月6日 船首像 (Golden Girl)

 

Month of Roses (to celebrate June birthdays)