コンペアー&コントラスト24

ロード・ムービー第十九夜。「1959年: その5 北北西に進路を取れ: 

Ⅴ. まとめ&今後の進路」

 

2月17日からロード・ムービーをテーマに、ブログを書いています。寄り道しながらも、第十九夜を迎えました。ロード・ムービーとは何なのだろうかという、素朴な疑問からスタート。2/17に記した仮説は、

 

「旅映画の一部ともとれますが、独特のジャンルを確立していると思います。旅と言わず、『道』(ロード)、つまり道中(過程/プロセス)に、焦点を当てているのが、大きな特徴です。旅のプロセスでは、いつもと違った環境に身を置くことで、何らかの変化が起きます。」

 

限りなく広義な解釈を含めて、自分なりのロード・ムービーを探す道に出ました。暗中模索ながら、ここまでやってきました。映画史は比較的短く(110年ほど)、一度は大まかな流れにも触れたいと思っていましたので、1959年迄は大体年代を追って作品を紹介してみました。比較対照(コンペアー&コントラスト)という枠組みの中のシリーズですので、古い作品を紹介したら、なるべく新しいものにも繋げるよう試みました。

 

今後は、1960年以降の作品を中心に、テーマ別にお話ししていこうと思います。新しい作品だけではなく、歴史的観点、歴史的な位置付けも含められたらと考えています。

 

振り返れば、2月にコンペアー&コントラストのネタを探していたところ、ロード・ムービーが面白そうだと思ったのが、事の発端でした。最初は一話完結のつもりだったのに、採り上げたい映画が多くて絞りきれず、シリーズ化することに。

 

最初に書きたいと思ったのは、自称ロード・ムービーの「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004年)。これなら、ロード・ムービーに間違いない。さて、合わせる(比較対照する)作品は何にしよう。オートバイ系の映画なら「イージー・ライダー」(1969年)かな。「アラビアのロレンス」(1962年)の中でのオートバイの役割も棄て難い。「禅とオートバイ修理技術」(ロバート・パーシグ著)まで派生しても面白いかも。

 

それとも、ガエル・ガルシア・ベルナル主演という共通点のあるロード・ムービー「天国の口、終わりの楽園」(2001年)か。これなら女性的な視点にも触れることが出来る。いや待てよ。「モーターサイクル・ダイアリーズ」のウォルター・サレス監督の「セントラル・ステーション」(1998年)も、一種のロード・ムービーだ。それに、ロード・ムービーのルーツに触れないわけにもいかず、想像が膨らむばかり。

 

ともかくネタに事欠かないことに気が付きました。道中いろいろな作品をピックアップしていけるので、ここまでの道のりは楽しかったです。次回からのテーマは、最初の動機である「オートバイの登場するロード・ムービー」を、予定しています。

 

それでは、今までに来た道(ロード)のおさらい。1959年あたりに、ロード・ムービーの色合いの強いバラエティーに富んだ力作が登場し、その後の作品に多大な影響を与えます。ヌーベルヴァーグのコンセプト、コメディーの流れ(ビリー・ワイルダー監督)、新旧の史劇的な作品(叙事詩的アプローチ vs. ドキュメンタリー・タッチ)、そしてアクション娯楽作品の雛形となる「北北西に進路を取れ」と、ロード・ムービーの基盤が整った年として注目してみました。

 

1899年生まれのヒッチコック監督は、サイレント映画からトーキー(1920年代後半~)、モノクロからカラー(1930年代後半~)、そしてテレビの登場を目の当たりにしました。その経歴は映画史そのものと言っても過言ではないでしょう。積極的に新しい技術を採り入れ、映画という媒体の特性を理解し、独特のスタイルを確立して、今でも多くの人々から尊敬されています。スピルバーグ監督も、ヒッチコック監督に影響されたと語っていました。

 

ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」は、007シリーズ(イギリス)にも、大きな影響を与えています。007第一作「ドクター・ノオ」 (1962年、日本初公開時タイトル「007は殺しの番号」) から、現在まで20本、プラス番外編2本が公開されています。

 

007シリーズ原作者のイアン・フレミングは、ジェームズ・ボンドに、「北北西に進路を取れ」の主人公を演じたケイリー・グラントのような俳優をイメージしていたそうです。初代ジェームズ・ボンドであるショーン・コネリーを、最初は気に入らなかったそうですが、後には適役だったと認めたそうです。

 

英国秘密諜報部員であるジェームズ・ボンド。ダンディで、美食家で、プレイボーイで、タフ・ガイのくせに、機転が利いて、猫のようにしなやかなイメージ。華麗でユーモアのセンスがあるタイプ。女が好きで、煙草や酒にもウルサイ。ボンドが愛飲したのは、ステアせず、シェイクしたウォッカ・マティーニ。最新の「007 ダイ・アナザー・デイ」(2002年)では、キューバでモヒートを。

 

ヒッチコック監督と、007シリーズ初代プロデューサーは懇意だったそうで、007第二作「ロシアより愛をこめて」 (1963年、日本初公開時タイトル「007危機一髪」)のヘリコプターのシーンは、「北北西に進路を取れ」からヒントを得たそうです。

 

007シリーズ第五作目「007は二度死ぬ」 (1967年) は、高度経済成長期の日本が舞台でした。外国人の見たアヤシイ日本と批判されていますが、東京でのロケ(丸の内線など)や、当時の日本の風景は、歴史的な記録として面白かったです。ボンド・ガールは浜三枝さんで、丹波哲郎さんが共演していました。

 

既に今後二本の007シリーズ映画化も決まっているそうです。次々回の作品の舞台は、日本だそうで、ロケ地(北海道と瀬戸内海の直島)の誘致キャンペーン中と聞きましたが、どうなるのでしょうね。

 

アクション、最新のメカ(ボンド・カーから武器に至るまで)、お色気(ボンド・ガール)、テーマ・ソング、オープニングのグラフィック・デザイン的なアプローチと、スパイ映画のフォーミュラとスタイルを確立。3200キロの道を行く「北北西に進路を取れ」の流れを汲み、世界を舞台に007が活躍します。

 

その後、007もどきの亜流スパイ映画や、TV番組、漫画、パロディーが多数登場し、記憶に新しいところでは、映画「オースティン・パワーズ」シリーズ(1997、1999、2002年)などが思いあたります。

 

冷戦のもたらした核の恐怖が生み出したスパイ活動。「北北西に進路を取れ」は、東西のスパイ活動に巻き込まれた普通の人間(ケイリー・グラント)のお話しです。

 

1989年11月9日ベルリンの壁の崩壊に続くソビエト・東欧圏の崩壊で、東西の緊張が緩和され、それまでのようなスパイの必然性が問われます。新たなる見えない敵との戦いは、内部の陰謀(「ボーン・アイデンティティー」、映画「ミッション・インポッシブル」など)であったりします。今後もスパイ映画の方向性に、注目していきたいと思います。

 

最後に、ヌーベルヴァーグの旗手であったフランソワ・トリュフォー監督の言葉で締めくくりたいと思います。1974年に、ニューヨークのリンカーン・センターで、ヒッチコック監督を讃える祝賀会が催された時のことです。トリュフォー監督は、ヒッチコック監督とのインタビューをまとめた本を出版していたこともあり、祝賀会で「二つの卓越したシーン」の一つとして、「北北西に進路を取れ」(1959年)の飛行機の追跡シーンを紹介しました。

 

祝賀会の後で、トリュフォー監督は、ヒッチコック監督のユニークさについて語りました。「ラブ・シーンを殺人シーンのように、殺人シーンをラブ・シーンのように撮影しているかのように、どうしても見えるのです。ヒッチコック監督の作品では、愛することと、死ぬことは同じなのではないのかと考えました。」

 

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その9。明治38年築の旧ハリヤー邸です。外側の壁が、天然石のスレートで、鱗のように見えるところから、「うろこの家」と呼ばれるようになりました。オランダ坂を上りつめた所にあります。どうやってこんな急な坂を、上っていたのだろうかと不思議でしたが、眼下に広がる景色が素晴らしく、来た甲斐があるものだと納得しました。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

 

 

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附録: ロード・ムービー1959年シリーズ・ロード・マップ

 

その1 「ヌーベルヴァーグ」(第六夜、2/24)

その2 「ワイルダーなロード・コメディー」(第八夜、3/5)

その3 「史劇のロード・ムービー」(第九夜。3/6)

その4 「史劇のロード・ムービー番外編」(第十夜、3/10)

その5 「北北西に進路を取れ」(第十二夜~第十九夜)

   Ⅰ. イントロ (第十二夜、3/21)

   Ⅱ. 映画(第十三夜、3/23)

   Ⅲ.  ヒッチコック

          (a)  映画とTV(第十四夜、3/26)

          (b)  映画史と重なる経歴(第十六夜、4/2)

          (c)  恐怖(第十七夜、4/10)

   Ⅳ. 出演俳優(第十八夜、4/23)

   Ⅴ. まとめ&今後の進路(第十九夜、4/29)

コンペアー&コントラスト23

ロード・ムービー第十八夜。「1959年: その10 北北西に進路を取れ: 

Ⅳ. 出演俳優」

 

ヒッチコック監督は、知られている俳優を起用することを好み、同じ個性派俳優で脇役を固めたといいます。理由は、観客が映画の始めから、登場人物に親しみを感じ、既に知っているような気がするので、改めて紹介しなくていいから。一般に映画は2時間程度で、まとめなくてはならないので、効率が良いという訳です。

 

「北北西に進路を取れ」は、ケイリー・グラントと、エバ・マリー・セイント主演。ケイリー・グラントは、ヒッチコック監督のお気に入りの一人で、「悪名」(1946年)、「泥棒成金」(1954年)にも出ています。ヒッチコック監督も、ケイリー・グラントも、イギリス出身。

 

1904年生まれのケイリー・グラントは、「北北西に進路を取れ」撮影時には50代も半ばでしたが、アクションをこなしています。グレース・ケリーと共演した「泥棒成金」でも然り。経歴を見てみますと、14歳で家出して、お笑いとアクロバットの一座に加わり、曲芸までこなしたとあります。一座は1920年より二年間アメリカ巡業し、グラントは終了後も、アメリカに残りました。ケイリー・グラントの人生は、ロード・ムービーそのものであったわけです。

 

「北北西に進路を取れ」の主人公(ケイリー・グラント)は、ニューヨークの広告マンという設定で、口八丁手八丁で世渡りをするようなところがあります。決して悪人というのではなく、普通の人間が、人違いで誘拐され、事件に紛れ込まれていきます。(簡単なストーリー紹介は、ロード・ムービー第十三夜、3/23参照。)  広告マンの機転の利く臨機応変さ、海千山千なところが、何度も危機から身を救い、それがちょっとしたユーモアになっています。

 

お相手役のエバ・マリー・セイントは、アメリカ生まれ。エリア・カザン監督に見出され、映画初出演の「波止場」(1954年)で、マーロン・ブランドの相手役を務めました。「波止場」で、3人(セイント、カザン監督、ブランド)ともアカデミー賞を射止め、作品賞など他の分野でも受賞。

 

ロード・ムービー第八夜(ブログ3/5)で、メソッド・アクターに触れましたが、エバ・マリー・セイントもアクターズ・スタジオ出身で、エリア・カザン監督の指導を受けました。一挙一動にわたる演技指導で有名で、「波止場」では、手の動きや、視線など、細部に至るまで耳元で注文しながら監督したそうです。エリア・カザン監督の秘蔵っ子としては、ジェームス・ディーンが有名で、きめ細かな演技指導を受け、「エデンの東」で映画デビューしました。

 

ヒッチコック監督は、「どういう絵になるのか」に細心の注意を払ったものの、「北北西に進路を取れ」では、演技に関する指示は三つだけ与えたそうです。

   1. 声を低くし

   2. 手を使わず

   3. ケイリーの目を真直ぐ見ること

 

エバ・マリーは、ヒッチコック監督からの信頼が、大きな自信になったとインタビューで答えていました。「波止場」で演技派女優として育まれ、「北北西に進路を取れ」で、大人の女優として成熟したと感じます。

 

フィルム・ノアール(定義はロード・ムービー第五夜、ブログ2/22参照)では、フェムフェタールに魅惑されて、破滅の道をたどるパターンができ、フィルム・ノアールの前身であるギャング映画(アメリカ)で、悪女と聖女のステレオタイプが登場しました。

 

ヌーベルヴァーグ(ロード・ムービー第十一夜、ブログ2/24参照)に評価されたアメリカのフィルム・ノアール(ギャング映画)は、元来B級映画でもあり、低予算で作製されました。A級映画と二本立てにされる為に、長さは50分以上70分以下と決められていました。短い作品では、説明している暇がないので紋切り型的な表現法が重宝します。ヒッチコック監督の作品も、ヌーベルヴァーグの監督達に注目され、再評価されました。

 

エバ・マリー・セイントは、「北北西に進路を取れ」で、イブという女性を演じていますが、敵なのか、味方なのか、最初はわかりません。悪女と聖女の対極的な人物像というよりは、両方が同時に混在している女性が面白く、そこにサスペンスが生まれます。はっきりしていないところが、神秘的で魅力的です。そんな女性が、ヒッチコック監督の映画に登場します。

 

既に基礎を学び、経験を経た女優への信頼感は、「北北西に進路を取れ」での役柄に必要不可欠だったと感じます。イブの真直ぐ見つめる瞳、落ち着いた低い声、洗練されたスタイルと、ヒッチコック監督が何を求めていたのか、一目瞭然です。

 

今日の写真は椿です。気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト22

ロード・ムービー第十六夜。「1959年: その9 北北西に進路を取れ: 

Ⅲ.  ヒッチコック (c) 恐怖」

 

恐怖を題材にした映画を、沢山手がけたヒッチコック監督。何か個人的な理由があったのでしょうか。逸話を読むと、必ず言及されているのは、少年時代のトラウマです。父親からの手紙を持って、警察に行ったヒッチコック少年。手紙を読んだ警官は、少年をすかさず刑務所に入れて、「悪いことをすると、こうなるのだ」と言い渡したそうです。警察に恐怖心を抱いたのは、無理もありませんね。

 

警察への恐怖心は、かなり深刻だったらしく、その為に運転免許証を取らなかった位です。免許がなければ、警官に車を止められ、取り締まりされることがないと考えたそうです。ヒッチコック監督の映画によく登場するのは、無実の人間が事件に巻き込まれるというモチーフ。その根底には、この恐怖心があると言われています。

 

恐怖を題材にした作家といえば、スティーブン・キングが思い浮かびます。ギネスブックに、最も映画化されている作家として記録されていますので、映画の話題にも適切でしょう。アメリカで、最も売れている作家の一人です。

 

ホラー系は、正直言って苦手分野でした。「なんで、お金を払ってまで、苦しい目に合わなくてはいけないのか」と、思っていました。そう言うと、必ず奇特な人が現れます。クローネンバーグ監督(カナダ)の作品を、カナダの親友にチャレンジされて、観てみることにしました。

 

まずはビジュアルな面が素晴らしい。グラフィック・デザイン的なセンス。これはヒッチコック監督にも通じるものがあります。友人はそれも計算済み(デザイン的、コンセプト的に優れた作品に弱い)だったと思います。偏見が多少なりとも覆されました。

 

ヒッチコック監督が、残酷シーンを、品の良い処置をしていたのに比べて、クローネンバーグ監督は、もっとリアルなキワドイ表現を試みています。時代の反映もあるでしょう。

 

クローネンバーグ監督は、技術的な実験を試みた時期があったといいますが、これは多分どの監督さんも通る道だと思います。映画はビジュアルですが、先端の技術を駆使した総合的なメディアです。前回お話ししましたように、音が加えられることによって、台詞(言葉)、音楽、効果音の重要性が増しました。私が映画に興味があるのも、芸術もしくは娯楽性、技術、ビジネスを統合した現在進行形のメディアだからです。

 

クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」(1986年)は、1958年の「蝿男の恐怖」のリメーク(どちらも原題はThe Fly)です。普段観ないタイプの映画ですし、かなりグロいのですが、当時の技術を結集して、クリエイティブな表現法が試されていました。普遍的なテーマとしては、人間の存在に関する哲学的な疑問、科学者(DNA組み換え)のジレンマと限界、そして愛するということを考えさせられた作品です。

 

「クラッシュ」(1996年)は、イギリスのJ・G・バラードが原作というので観てみました。これも、普段観ないタイプの倒錯した世界です。刺青のデザインの用い方や、センシュアルなデザインは素晴らしい。カナダの友人には「わからん」と言ったものの、破綻した世界観の中に、真実のようなものが見え隠れする面白い作品でした。

 

そして、「デッドゾーン」(1983年)。これは、クローネンバーグ監督、スティーブン・キング原作と言うことを知らずに観て、好きになった映画でした。交通事故に遭った主人公の悲劇と決意、昔の恋人への切ない想いが描かれています。タイトルから、グラフィック・デザイン的なアプローチがなされ、「北北西に進路を取れ」の冒頭シーンと並行するものがあります。

 

タンクローリー車に激突される交通事故のシーンは、「北北西に進路を取れ」の有名なシーンを彷彿しました。主人公の車に衝突したタンクローリー車から流れるミルク。その質感が、やけに艶めかしかったのを、今でもはっきりと覚えています。そして、スピードの変調。「マトリックス」(1999年)などで使われたコンセプト(スピードを落とすことで、早いスピードを表現する逆説的手法)のお手本ともとれます。ブレットタイムと呼ばれる撮影法に引き継がれていきます。

 

スティーブン・キング自身、ニューイングランドの自宅近辺で日課の散歩中、悲惨な交通事故に遭っています。わき見運転のアル中、薬中の男性に車で撥ねられ、瀕死の重傷を負ったキング。道端に残されたまま逃走されたのは、1999年の初夏でした。

 

幸い一命を取り止めたものの、スティーブン・キング再起不能かと、当時は噂されました。まあ、あれだけのページ数をこなしていた作家ですから、元のレベルに戻るのは無理かと推測されたのも無理もないことです。

 

事故から約5年後にあたる昨年(2004年)、スティーブン・キング原作のTV番組が、アメリカで放送されました。「キングダム・ホスピタル」という15時間ものです。スティーブン・キングの事故に関する記事を、新聞等で読んでいたので、初回エピソードは、事故の体験談だとわかりました。ロケ地迄、事故の現場を使っていました。

 

タイトルは、キング、キングダム(王国)とかけた、シャレでしょうが、内容も諧謔を弄したもので、自分の身に起きた不幸を、よくもここまで茶化できるなあと感心しました。いつもながら、どこにでもいる嫌なタイプの人間が登場し、その描写に苦笑しました。

 

「デッドゾーン」では、予知能力のある高校教師が主人公ですが、スティーブン・キングも作家になる前は教師でした。偶然の一致でしょうか。「もしかして」という恐怖の可能性と、予感(アンテシペイション)は、ヒッチコック監督の映画の根底にあると、お話し(ブログ3/23参照)しましたが、文字通り「もしかして……」です。

 

ある日、スティーブン・キングが、「なんで、そんな恐ろしいものばかり書くのですか」と、TVインタビューで尋ねられているのを見ました。それに対して、「自分の恐怖心を、書くことで発散してるんですよ。それで、お金が貰えるなんて嬉しい。セラピーより安いし。」と、飄々と答えていました。回答は質問者にバカウケで、スタジオ中、苦笑から大爆笑の渦に。

 

悲劇と喜劇は背中合わせだと感じます。自分の不幸を、笑いに変えることが出来るコメディアン。キングのホラーにも、どんな悲劇でも、笑えるパワーが潜んでいるのかもしれませんね。そんなところが、スティーブン・キングの魅力の一つなのでしょう。

 

キングの子供時代のエピソードを読むと、「タバコを喫いに行く」と、ふっと外に出た父親が、行方不明になり、二度と帰って来なかったそうです。書くことは、そんなトラウマを抱えていた内なる少年の、クリエイティブな捌け口になっていたのでしょうね。

 

教師だったスティーブン・キングが、書き溜めた最初の小説は「キャリー」です。行き詰ってゴミ箱に捨ててあった原稿を拾ってきて、諦めないよう励ましたのは、キング夫人でした。高校を舞台にした、処女作「キャリー」は映画化され(1976年、ブライアン・デ・パルマ監督)て、その後約80本の作品が作製され、加えて現在約7本が作製中です。

 

大衆ホラー的で嫌だなあと思っていましたが、「ショーシャンクの空に」(1994年)の原作者が、スティーブン・キングだと知った時は驚きました。小説をいくつか読むうちに、売れる作風の作品の中にも、必ず深い考察が、さりげなく組み込まれていることに気付きます。ひょっとしたら、深層レベルで、本当にやりたいことを、やっているのかもしれないと思い始めました。

 

映画「ショーシャンクの空に」(1994年、フランク・ダラボン監督)は、ホラーではなく、ヒューマンドラマですが、ある意味で、ヒッチコック監督お得意の「巻き込まれ型ホラー」(罪を着せられた男、ショーシャンク刑務所での惨酷さ、そして友情と自分なりの解決)とも言えます。ダラボン監督の「グリーンマイル」(1999年)も、罪を着せられた男という共通点があります。これもスティーブン・キング原作の作品です。

 

他にも、キューブリック監督の「シャイニング」(1980年)。ロブ・ライナー監督の「スタンド・バイ・ミー」(1986年)と、「ミザリー」(1990年)。テイラー・ハックフォード監督の「黙秘」(1995年、ハックフォード監督は昨年の佳作「レイ」の監督さんでもあります)。スコット・ヒックス監督の「アトランティスのこころ」(2001年)と、面白い作品が挙げられます。(「ミザリー」あたりの作品も、「もしかして」という恐怖の予感、事故の前兆だったのでしょうか……。)

 

スティーブン・キングの言葉を借りれば、ヒッチコック監督は、自己の恐怖心を、映画を作ることで発散できたのかもしれませんね。それで、お金は貰えるし、セラピーより安いし。創作活動を通して、恐怖心を、ポジティブなエネルギーに変えることが出来のだと感じました。

 

今日の写真は、染井吉野。先週、開花宣言をした桜が、もう満開です。

 

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コンペアー&コントラスト21

ロード・ムービー第十六夜。「1959年: その8 北北西に進路を取れ: 

Ⅲ.  ヒッチコック (b) 映画史と重なる経歴」

 

アルフレッド・ヒッチコック監督(1899-1980年)の経歴は、サイレントからトーキー、モノクロからカラーと、映画史そのものと言っても、過言ではありません。

 

1895年12月28日は、世界初の映画興行の日。トーマス・エジソン(アメリカ)の映写機(技術)を使い、リュミェール兄弟(フランス)が、パリのカフェで「汽車の到着」等を上映しました。エジソンは、お金を払ってまで、サイレント映画を見に来る人はいないと踏んだのですが、全くの杞憂でしたね。

 

ヒッチコック監督が、映画の仕事を始めた頃は、まだモノクロのサイレント映画の時代でした。ロンドンで、会社、デパートの広告デザインを経て、1919年にサイレント映画の字幕デザイナーとして、映画界入りを果たします。監督を任される前は、脚本家、美術監督、助監督を務め、その経験が後の作品に生かされていると感じます。

 

「北北西に進路を取れ」の主人公が、広告マンであるという設定は、偶然ではありません。ヒッチコック監督は、遊び心のある映画の広告キャンペーンに、積極的に参加しています。グラフィック・デザインの仕事をしてきた私にとっても、個人的に面白い作品です。

 

1920年も中盤を迎えると、トーキー映画(音声付の映画)への試みが、見られるようになります。新興ラジオ産業と、電話産業の映画界参入、投資のおかげで、音声面の技術的な躍進が可能になりました。

 

ラジオは、第一次大戦(1914-1918年)あたりを境に、商業化が進み、アメリカでラジオの民間放送が、1920年に開始されました。1922年にはBBC(イギリス)、翌1923年には、ドイツ、イタリア、フランスと続き、関東大震災が起きた日本にとっても、放送の必然性が高まった年でした。

 

ハリウッドでは、「ジャズ・シンガー」(1927年)の大ヒットで、サイレント映画から、トーキー映画に移行していきます。ワーナー社と、ウエスタン・エレクトリック社(電話)の技術提携で可能になりました。電話の歴史を紐解くと、19世紀後半から、20世紀にかけて、最先端の技術が注ぎ込まれたことがわかります。

 

電話発明の逸話には、今日のテクノロジー競争の厳しい世界と、研究者の情熱を垣間見ることができます。1876年2月14日、わずか二時間差で、二人の研究者が、電話の特許登録(アメリカ)を提出しました。皆さんも、ご存知だと思います。二時間遅かったのは、エリシャ・グレイ。そして、電話発明の名誉は、グラハム・ベルに。

 

発明王エジソンは、ビジネス面で、ベルとライバル関係にあり、競合を通して、電話の開発、改良に貢献しました。グラハム・ベルは、父の代から聾唖教育に携わり、聴覚障害を持つエジソンと、電話技術の開発は、個人的に意味のあるプロジェクトだったわけです。この二者間、及びライバル社との熾烈な特許紛争が、繰り広げられました。エジソンは電話設備の充実、ベルは電話発明及び、電話網の構築者として、電話史に名を残しました。

 

二時間遅かったグレイ氏は、トーキー映画を可能にした、ウエスタン・エレクトリック社を創立。1879年には、世界初の電話交換機を発表しました。グレイ氏は発明を続け、約70件の特許を取得。経済的に、ベル氏より成功した時期もあるそうですが、財産は全て研究費に投げ打ち、研究中に亡くなりました。

 

ウエスタン・エレクトリック社は、1881年にグラハム・ベルの創立したアメリカン・ベル社に買収(M&A)されました。1907年にAT&T社の技術部門と統合され、1925年にベル研究所と改名。トランジスタ(1947年)の発明をはじめ、ノーベル賞の巣窟(11名輩出)でもありました。電話のみならず、1969年のUNIXの開発をはじめ、パソコンの歴史、インターネットの歴史、レーザーの歴史とも重なり、物理学、天文学、宇宙研究の分野などにも貢献しています。

 

マレーヒル(ニュージャージー州)のベル研究所のロビーには、グラハム・ベルの胸像がありましたが、そこに刻まれた言葉は、「舗装された道を外れて、森に足を踏み入れよ。面白いものが見つかるに違いない。」

 

森から、映画に戻りましょう。ヒッチコック監督は、1929年に早々とトーキー映画を手がけました。同時に、サイレント映画で培った、表現力のあるスタイルを、生み出していきます。

 

モノクロからカラーも、同じ頃に技術革新が見られました。テクニカラー社(カルマス博士と夫人)が、1926年に開発したテクニカラーは、初期は不安定な青と黄を活用できず、二色からスタート。1934年にプリズムで、光の三原色(赤、青、緑)を分光、プリントすることに成功し、翌年より実用化が始まりました。1939年の「風と共に去りぬ」、「オズの魔法使」(共にビクター・フレミング監督)で、カラー映画時代の幕開けとなります。

                                                  

「オズの魔法使」作製の動機は、ディズニーの「白雪姫」(1938年、アニメーション)の大成功。もともとは、柳の下のどじょうを狙った作品でした。先端の技術であった三原色を使ったテクニカラーを、ふんだんに導入しています。カンザスの農場のシーン(現実)は、白黒で撮影され、魔法の国(夢)はカラーでした。予算を抑える為の苦肉の策とはいえ、飽き飽きしていた田舎の生活をモノクロで撮り、ドロシーの心理描写が素晴らしい。

 

近年の作品[「アメリカン・ヒストリーX」(1998年)、「メメント」(2000年)、「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004年)など]でも、回想シーンや記憶の断片として、白黒の挿入が効果的に用いられていますね。「シンドラーのリスト」(1993年)では、モノクロにスポット・カラーが、効果的に導入されていました。赤いコートの少女の悲しい運命は、言葉がなくとも、しっかりと伝わってきます。セリフに頼らず、視覚的に強烈なメッセージが、胸に届きました。

 

ヒッチコック監督の最初のカラー作品は、1948年の「ロープ」でした。その後も、効果的なノアール・スタイル(白黒)の作品を監督し、ヌーベルヴァーグの監督達のお手本となりました。3Dの技術を導入(「ダイヤルMを廻せ!」、1954年)したり、テレビにも積極的に参入(ブログ3/27参照)しました。

 

今でも生きていられましたら、きっとインターネット(例: 「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」、1999年)にも、チャレンジされていたことでしょう。ネット文学の映画化(例: 「オオカミの誘惑」、2004年)なんてのもね。ヒッチコック監督なら、顔文字多用でも、映像で表現するのは、お得意なのではと、一人想像してみたりするのです。

 

今日の写真は、神戸の風景から、私のロード写真、その8。北野の風見鶏の館と、萌黄の館に隣接する公園の花壇です。

 

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