子どもから大人へ

ナルニアとCSルイス

子ども向けの映画から「チャーリーとチョコレート工場」にまつわる映画2本と原作,そして,「オリバー・ツイスト」にまつわる映画3本とTV番組に原作について書いてみました。今回は,子どもから大人へというテーマでお話するのと同時に,今回から,「変わる」というトピックに移行しようと思います。

「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」(2005年)の原作は,全7作のシリーズの第1作にあたり,英国で「指輪物語」とほぼ同じ頃,1950年代に出版されたファンタジーを代表する作品で,海を越えてアメリカでは「ゲド戦記」が生まれ,最近では,同じくイギリスのファンタジーの流れを汲む「ハリー・ポッター」シリーズと,子どもから大人まで,多くの読者の想像力をかきたてています。

また,映画作製の技術や視覚化が進歩し,ここ数年,質の高いファンタジーの映画化が実現しているのは,映画ファンおよびファンタジーのファンにとって嬉しいことです。原作を読むということ,そして,映画を楽しむことは,作品の理解を深める絶好のチャンスでもあります。

「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」は,ディズニー映画ということもあって,家族向けの映画に仕上がっています。ファンタジー作品の醍醐味は,叙事詩的なスケール,神話的な象徴性,そして,登場人物が試練を経て成長するところにありますが,この映画では,兄弟姉妹のそれぞれの持ち味が生かされていると思います。兄と姉の長子としての責任感,チャーミングな末っ子の素直さ,そして,反抗的な次男の成長。戦時中(第二次世界大戦)の子どもたちが,困難を乗り越えて成長していく物語です。

映画「永遠(とわ)の愛に生きて」(1993年)を観ると,ナルニアの原作者CSルイスは,まさにナルニアに登場する子どもたちの疎開先の教授。60歳を越えて未婚。恋愛とか,惚れた腫れたとは全く無縁の世間から隔離された学者生活。同じくオックスフォード大学で教鞭を執っていたトールキン(「指輪物語」)とも顔見知りだったそうですが,独身の年老いた兄と閑静な居を構えていました。ルイスに傾倒していた観衆相手に講演(というか説教)し,オックスフォードで生徒の指導にあたり,教授仲間と過ごす波風のない日々。

ファンと称するジョイ・グレシャムと出会い,CSルイスの安泰の日々に大きな変化が訪れます。夫と別居中(のち離婚)というジョイは,子連れのアメリカ人の詩人。思いがけず晩年に訪れた恋愛に戸惑いながらも,「永遠(とわ)の愛に生きて」では,愛の歓びと哀しみを受け入れる過程が誠実に描かれています。

また,ナルニアのモデルになった屋根裏のワードローブ(箪笥)や,オックスフォード大の寮の格式ばった食事のシーン等は,なるほど,ハリー・ポッターはここから来ているのか想像するほどです。

歯に衣を着せぬ率直さでもって,ジョイは本音を語り,ジャック(CSルイスの愛称)の殻を破っていきます。そんな彼女に魅かれていくジャック。お決まりの日々から一転して,箪笥の向こう側に逃げることなく,いつもの守備範囲から恐る恐る一歩踏み出すジャック。
 
そして,本当の自分の気持ちに気が付いたキッカケは,ジョイが不治の病に侵されていることを知ったことでした。時間がない。もっと話したいことが一杯あるのに……。決まりきった心地良い日々から,不確かな日々を受け入れるのは苦痛を伴いますが,ここでジャックは決意をします。

しかしながら,結婚したいと申し出たものの,きちんとプロポーズして欲しいとジョイに諭されたり,同じ部屋で眠ること(といってもシングルベッドを並べただけですが)に対して,どうしていいのかわからなかったり。ジャックにとって,全く未知の分野です。

経験を重視するというジョイに,それでは本を読むということは無駄なのかと問うジャック。アカデミックな問答ならお手の物ですが,必ずしも経験に裏打ちされているとは限りません。苦悩するということが人を磨くという本を著し,人生の苦難と試練について説教してきたジャックですが,自分自身がその立場に立たされ,やっと人並みの体験をしているのだと気付きます。

この試練を通して,ジャックの角がとれていくのですが,例えば,つかみどころがなく,折り合いの悪かった生徒と話してみると,通じる部分が見つかりました。その生徒に打ち明けます。その昔,「影の国」(Shadowlands,「永遠(とわ)の愛に生きて」の原題)という児童書を書いたことを。そこには光(希望)がなく,いつも他の土地ばかりに陽があたっている。

それに受け応えて,生徒は,父親の言葉を引用します。「本を読むことは,この世に一人ぼっちじゃないってことを知ること。」 ジャックは,この青年に,初めて親近感を抱き,心を開いていきます。読書は孤独を救うと,いつしか,ジャックは,その言葉を引用するようになっていました。

小康状態だったジョイは,ジャックの研究室にかかる美しい絵の地(ゴールド・バレー)に行きたいと,ジャックに頼みます。その昔,子ども部屋にかかっていたという絵は,実在の地ですが,訪れてみるということなどは思い付きもしませんでした。いざ訪れてみると,穏やかで静かな美しさをたたえた渓谷でした。二人は,束の間の幸せを味わいます。これから訪れる苦しみは,今の幸せの一部だと考えて欲しいと願うジョイ。

ジャックにとっては,二度目の身を引き裂くような苦しみです。最初の苦しみは,母親が亡くなった時でした。歯が痛くて,お母さんに一緒にいて欲しかったという9歳の少年。傷付かないよう心を閉ざすことを学んだジャックは,ある意味で,9歳のままの部分を秘めていたのかもしれません。教授仲間から,子どものいないジャックが,なぜナルニアのような児童書を書くのか問われると,その昔は自分も子どもだったと答えました。どこか子どもの殻を着けたままだったことを,薄々知っていたのかもしれません。

愛するからこそ,苦しみもある。今度こそは,想像の世界に逃げることなく,苦しみを受け入れる決意をします。60を越した青年CSルイス。Vulnerable(無防備,心の防備・壁のない状態)であるということ,そして変わるということを受け容れることは,大変勇気のいることです。Shadowlands(影の国,想像の世界・幽冥界)から,子ども時代の殻を破り,傷付くのがわかっていても,一人の女性を全身全霊で愛することを選ぶCSルイス。光も影もある大人の世界へと,影の国から一歩踏み出したのでした。

ダイアローグ 第14夜

「パリ,テキサス」(1984年)

 

今夜は,「愛のめぐりあい」(1995年)で,ミケランジェロ・アントニオーニ監督とコラボレーションしたヴィム・ヴェンダーズ監督の作品のうち,男女の関係を描いた「パリ,テキサス」を採り上げて見ることにしましょう。映画の舞台になったヒューストンの街の様子を織り込みながら書いてみようと思います。

 

まずは,脚本。俳優サム・シェパードの「モーテル・クロニクルズ」が,原案になっています。ロケの合間等に,安ホテルに泊まりながら書きとめられた日記のような追想のような雑記。家族のこと,思い出,旅の出会い。今風に言えばブログのような感じと言っても差し支えないのかもしれません。

 

サム・シェパードのみずみずしい感性は確かなもので,ピューリッツァー賞受賞作家(戯曲)であることを実感しました。映画と原案は,内容的にはほとんど独立していますが,父親のアルコール依存症と暴力,ないがしろにされた母,そのような環境の中で育った主人公という設定が根底に流れています。そして,アメリカを転々と流れる主人公。

 

アントニオーニ監督との関連では,「砂丘」(1970年)の脚本で,サム・シェパードはコラボレーションしています。荒涼としたアメリカの心象風景を扱ったという点で,何らかの共通点を見出すことができるかもしれませんね。

 

そして,ヴィム・ヴェンダーズ監督のアメリカ的なものへの好奇心や興味が,この作品の原動力です。ヨーロッパ系の監督さんでは,ゴダール監督等も,アメリカ的なエレメントを,自分なりに消化しているのですが,ゴダール監督がポップ・カルチャーやポップ・アートに主眼を置いたのに対して,ヴェンダーズ監督は,アメリカ南西部の浪漫と過酷さに目を向けています。「イージー・ライダー」(1969年)のビリーに惚れたヴェンダーズ監督。「パリ,テキサス」は,アメリカを外から覗いた作品ともとれます。

 

ヨーロッパの文化の洗練の象徴であるパリ(フランス)。そんな名前が付けられた,テキサスの小さな田舎町。その町で,受胎されたと信じる男。荒涼とした東テキサスの小さな町。不毛な地にさえ,愛が生まれるという一筋の希望です。

 

冒頭シーン。生死の間を彷徨ように,テキサスの荒野を歩く男。4年間失踪していたこの男が,メキシコと国境を分かつビッグ・ベンドのあたりで発見され,迎えに来た弟と共にロサンゼルスに車で向かいます。映画の進行と共に,口を開かなかった男の人生が,断片的に浮かびます。そして,弟夫婦に預けられた息子との再会。妻がヒューストンの銀行より息子のために送金しているという情報を頼りに再びテキサスへ。約2,500キロの旅ですが,約半分はテキサス州に入ってからの距離(エル・パソ~ヒューストン)です。

 

ダウンタウンの高層ビル。そう,あの橋は,フランクリンの中央郵便局の前のもの。映画の舞台になったドライブ・スルーの銀行は,今でもあります。サンクスギビングの頃にロケされたということで,まだ暖かい日もある秋日和のヒューストン。うとうと居眠りする男。

 

妻の赤い車を見つけて,ダウンタウンの北側からフリーウェイに乗ります。道路の拡張などで,いつも工事をしているので様子が変わっていますが,あの大きな看板は今でもあります。45号線から10号線に。おっと,見失わないで!シェパードのあたりで高速を降りて,左折し,フェイドアウト。この架橋は今でもあります。

 

フェイドアウトの先は,ピープ・ショーで働く妻の職場。ここは,セット撮影のようですが,有名なマジック・ミラーのシーンが登場します。妻からは見えない男。男は妻の反応を見て,その場を立ち去ります。そして,ヒューストンを出て,小さな田舎町へ。アメリカの道を旅すると,どこにでもあるような町です。その晩,息子に自分の両親のことを話します。

 

翌日,一度は去ったものの,ヒューストンの覗き小屋に再び戻ってきた男。マジック・ミラーを通して,男は過去を清算するかのように,今までの2人の関係を語ります。深く愛すれば愛するほど,擦れ違ってしまった男と女。壊れてしまった関係を修復し,2人の間の溝を埋めることができるのでしょうか。

 

男が一体誰なのか気付いた妻に,鏡に映った男の姿が一つになります。カラカラに干からびた荒野を歩いていた男は,小雨で潤うヒューストンの街で,妻と再び繋がることができました。しかし,マジック・ミラーで隔てられたままです。「これでいい」と言わんばかりに,ホテルの部屋の番号を残して男は立ち去りました。

 

メリディアン・ホテル1520号室。高層ビルに囲まれたダウンタウンの一角。ホテルの名前は変わってしまいましたが,今でも実在しています。アレン・パークウェイからダウンタウンに臨むホテルの15階の部屋。そこで息子と再会する妻。

 

向かいの駐車場の屋上で,再会した母子を見守る男は,満足したかのように,雨のあがった夕焼け空のヒューストンを後にします。ライ・クーダーの音楽と共に,45号線のオーバーパスからの眺めが夜のとばりに変り,観る者の心にフェイドアウトしていくのでした。パリ,テキサスへの道でしょうか。確かに,45号線方面で街を出ると,たどり着くことができます。全てを失った男の再生と,家族の物語です。

 

2夜にわたり,ミケランジェロ・アントニオーニ監督とコラボレーションした監督さんの関連作品を選んでみました。いかがでしたでしょうか。どの作品も,男女の複雑な関係を描いたものですね。ウォン・カーウァイ監督,スティーヴン・ソダーバーグ監督,そして,今夜のヴィム・ヴェンダーズ監督。もう一つの共通点は,アントニオーニ監督を含めて,カンヌ国際映画祭受賞監督であるということです。

 

(コラボレーション その4: カンヌ国際映画祭に寄せて)

ダイアローグ 第13夜

「花様年華」,「ソラリス」,「セックスと嘘とビデオテープ」

愛と死と生きること

 

ダイアローグ第11夜と第12夜では,ミケランジェロ・アントニオーニ監督が,他の監督さんたちとコラボレーションした作品を選んでみました。第11夜で採り上げた「愛の神,エロス」(2004年)のウォン・カーウァイ監督とスティーヴン・ソダーバーグ監督。2人の監督さんの関連する作品に,今夜は軽く触れてみることにしましょう。

 

1.ウォン・カーウァイ監督 (「愛の神,エロス」第1話 「若き仕立屋の恋」を担当)

 

カーウァイ監督の「花様年華」(2000年)は,「愛の神,エロス」に登場するチャイナ・ドレスを仕立てる青年の導火線とも考えられます。チャン夫人(マギー・チャン)のチャイナ・ドレス姿が艶やかで,花のように麗しい。

 

「花様年華」は,2組の三角関係が交差し,ダブル不倫一触即発の状態を描いた作品です。それぞれ結婚相手の不倫に感づいていますが,どうすることもできません。そんな気持ちを一番理解できるのは,不倫されているという同じ痛みを持った人です。2人の距離は,つきつ離れつ,やがて,同情が愛情に変わっていく危険と緊張感。行き場のない感情をどうすることができるのでしょうか。

 

2046」(2004年)でも,「花様年華」の後遺症を抱いた主人公が登場します。「花様年華」,「2046」と生成発生し,「若き仕立屋の恋」は,その番外編ともとれます。一筋縄ではいかない大人の男女の関係を描いた作品の中でも,特に「花様年華」は秀作だと思います。

 

※参照:「2046」 愛のかたち 第3夜(3/17) 

 

 

2.スティーヴン・ソダーバーグ監督 (「愛の神,エロス」第2話 「ペンローズの悩み」を担当)

 

「ソラリス」(2002年)と,「セックスと嘘とビデオテープ」(1989年)。どちらも,じっくり採り上げてみたい作品ですが,今回はざっと見てみましょう。

 

「ソラリス」(2002年)は,スタニスワフ・レムの原作(SF)をもとに,タルコフスキー監督が1972年に映画化した「惑星ソラリス」のソダーバーグ・ヴァージョンです。タルコフスキー監督の静謐な映像美に対し,ソダーバーグ監督の現代的な透明感のある映像。タルコフスキー監督の約3時間(165分)の作品に比べて,ソダーバーグ監督版は,99分とタイトに仕上げています。

 

どちらの作品も,SFという設定ですが,視点は外側にではなく,人間の内なる宇宙に向けられていると思います。意識と無意識。記憶の具現化。そして,自己と他者との境界。愛する人でも,永遠に分かり合えない部分があるということ。人を愛する時の一体感と,別個の人間であるという実感に伴う疎外感。それでも愛するということとは……。人間関係に関する命題が盛り込まれています。

 

旧ソビエト体制のもとに作製されたタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」では,人間を超越する存在の可能性が示唆されているのが興味深く,ソダーバーグ監督の作品では,映画の中で引用されたディラン・トーマスの詩(And Death Shall Have No Dominionより)が,映画の核になっていると思います。愛する人の死と,愛の普遍性を問う一節で,2人が繋がる出会い。ソダーバーグ監督のセンスに,ゾクゾクしました。

 

Though lovers be lost

Love shall not

 

恋人は消えども

愛は消えず

 

美しい花も,ピークを過ぎれば,やがて枯れてしまいます。アントニオーニ監督の「愛のめぐりあい」(1995年)に登場した青年は,花は枯れるので嫌いだといいます。それに対して,この青年が死を恐れているのだと察知した女性。

 

花は刻一刻と変わる光の中で変容を遂げます。この変化の可能性が面白く,ブログのために花の写真を撮っていると,花は朽ちるから美しいのだと実感します。その瞬間の美しさを見逃さず,愛でるしかない。花は生命の象徴であり,美しさという抽象的なコンセプトを具現化しています。そして,花が枯れても,美しさという概念は消えません。美,そして,愛はいつもそこにあるのだから。

 

美や愛という抽象的なコンセプトが,花,もしくは恋人というかたちで体現されるのは,抽象的な世界(宇宙)に戻っていく束の間の出来事なのかもしれません。愛するということは,そのようなものなのかと。この映画を観ながら,エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)などをイメージしました。ソダーバーグ監督の知性と集中力は,いつもながらお見事。

 

また,ソダーバーグ監督の長編デビュー作「セックスと嘘とビデオテープ」には,新鮮な衝撃を受けました。ルイジアナは,ソダーバーグ監督の育ったバトンルージュが舞台です。表面的には理想的な弁護士の夫を持つ妻。でも,何かがおかしい。自分の気持ちに素直になれない妻。妻の妹と不倫する二枚舌の夫。お堅い姉に対して,自由奔放な妹。そして,つかみどころのない夫の学生時代の友人。やがて,嘘くさい生活のバランスが,遂に崩れる時が訪れます。ルイジアナという土地独特の空気を背景に,自分に正直であることを描いた秀作。

 

次回は,「愛のめぐりあい」(1995年)で,アントニオーニ監督にコラボレーションしたヴィム・ヴェンダーズ監督の作品のうち,男女の関係を描いた「パリ,テキサス」に繋げていくことにしましょう。

 

(コラボレーション その3

ダイアローグ 第12夜

「愛のめぐりあい」(1995年)

 

1985年の脳卒中のため,言語と体の自由を失ったミケランジェロ・アントニオーニ監督の短編作品集を,ヴィム・ヴェンダーズ監督が,真珠の首飾りのように繋げて完成させた作品です。アントニオーニ監督の絵画的な光と色彩,そして古い建築様式を生かした構図に,ヴェンダーズ監督が受け応えています。男女の関わりを描いた一種のロード・ムービーともとれます。

 

短編を繋ぐ案内人は,監督の分身。映画の題材を探しているという設定です。

 

1話 「ありえない恋の物語」

2話 「女と犯罪」

3話 「私を探さないで」

挿話 「日曜画家と友人」

4話 「死んだ瞬間」

 

「ありえない恋の物語」の舞台は,アントニオーニ監督の故郷フェルラーラ(イタリア)。そこに伝わるお話という設定です。霧の中から姿を現した村で出会った2人。あえて手に入れないことで,愛を成就することもあるのかというのが,第1話の命題です。ずっと探していた花を野原で見つけた時に,そのままそっとしておくことも愛なのでしょうか。あと一歩で手に入るという時に,手に入れなかったことはありますか。

 

1話と対象的な「女と犯罪」。季節はずれのフェルラーラのラグーナ(海)で見つけた一枚の絵葉書を頼りに,海辺の町ポルトフィーノ(フランス)へ。ヴェンダーズ監督の夢のようなパステルの砂浜から,アントニオーニ監督の雨に洗われた深い色合いの港と坂の街へ。ミステリアスで魅力的な女性との出会い。彼女は見知らぬ男に秘密を打ち明けます。そして,二人は関係を持ちますが,それ以上の進展はありません。簡単に結ばれた関係は,簡単に終わるということなのでしょうか。

 

「私を探さないで」は,フランス在住のアメリカ人の夫と,ヨーロッパ出身の妻が,夫婦としての関係を持てなくなった状況のスケッチです。前夜(5/20付けブログ)の「愛の神,エロス」(2004年)に登場したアントニオーニ監督の「危険な道筋」と,よく似た設定です。夫とイタリア人の女性と三角関係が3年続き,一触即発の状況へと進みます。パリ。無機質な部屋の窓枠に縁取られた風景。なかなか共感を得にくい題材ですが,アントニオーニ監督が話したかったことなのだと思います。

 

「日曜画家と友人」は,老境に達した男女の友人の会話。屋外で,セザンヌを模写する男。なぜ自分の作品を描かないのかと問う女。模倣は,天才のプロセスをたどることだという男。それぞれ違った見解を持ちつつも,友達でいることができる,もしくは,友達でいても,違った意見を持ってもかまわないというような小品。

 

「死んだ瞬間」では,若い男女の出会いの1日をカメラが追います。「日曜画家と友人」に登場した女性と擦れ違う画学生らしき青年。若く聡明な女性に出会います。心を開かない彼女に魅かれていきます。平行線上の手に入らない恋。やがて,古都エクス・アン・プロヴァンス(フランス)の重厚な街並みに,夜が訪れます。明日も会いたいという青年。でも,もし明日が来ないとすれば,何ができるのでしょうか。

 

「愛のめぐりあい」の原題は,Al di la delle nuvole(雲の彼方に)。監督の分身(ジョン・マルコヴィッチ)が,映画の制作ないし創造のプロセスの始まりは,闇の中(無の境地)から湧き上がってくるものを待つようなものだと語る場面から始まります。見えないところに潜む世界に目を凝らしてみるけれど,真の姿を見出すことはできるのかと問う監督。どこかで擦れ違ってしまう男と女。本当に理解することができるのでしょうか。監督は,再び闇の中に消えていきます。

 

ヴェンダーズ監督は,「パリ,テキサス」(1984年)等で,男女の相容れない関係を描いていましたが,「愛の神,エロス」(2004年)でコラボしたウォン・カーウァイ監督(「2046」,「花様年華」等)と,スティーヴン・ソダーバーグ監督(「ソラリス」,「セックスと嘘とビデオテープ」等)も,大人の男女の関係を描くことにおいてはベテランです。アントニオーニ監督が,これらの監督さんとコラボレーションしたことが,なんとなくわかるような気がしました。次回は,これらの監督さんの関連する作品に軽く触れてみることにしましょう。

 

(コラボレーション その2

ダイアローグ 第11夜

「愛の神,エロス」(2004年)

 

ダイアローグというコンテクストの中で映画を選ぶとしますと,基本的に全ての映画が含まれるかもしれませんね。男と女,親と子,職場の人間関係,友,姉妹・兄弟,先生,親戚,近所付き合い,ペットとのかかわり,コミュニティ,旅の出会い,自然と文明,テクノロジーとヒューマニティー……。ダイアローグがある,もしくは,ないことに起因する問題を題材にした映画が沢山作られています。きっと,皆さんも幾つか思い付かれたことでしょう。

 

今夜は,1つの映画を数人の監督がコラボした作品から選んでみることにしました。スタジオの意向で監督を降ろされたり,愛想を尽かして降りたり,製作上のイザコザは付き物ですが,3人の監督が協力して1本の作品を綴った「愛の神,エロス」(2004年)。オムニバス形式の作品です。

 

イタリア映画の巨匠ミケランジェロ・アントニオーニ監督の呼びかけで,ウォン・カーウァイ監督,スティーヴン・ソダーバーグ監督が,Eros(原題,エロス)というテーマでコラボしています。ヨーロッパ,アジア,アメリカの代表的な監督さんが,エロスをどのように表現するのか興味深く,これも一種のダイアローグかと思いました。

 

まずは,映画の内容と直接関係ありませんが,題名の背景を少し。エロスは,ギリシャ神話では愛をつかさどる神であり,ローマ神話の表記から,今日ではキューピッドとして広く親しまれている愛のシンボルです。

 

神話では,自分の打った矢に誤って射抜かれたエロスが,プシュケ(魂,精神の意)と恋に落ちます。そして,恋の試練を経て,人を信じること,愛するということに目覚めていくプシュケ。面白いのは,「かぐや姫」や「鶴の恩返し」等の御伽噺と対照的に,男女の役割と立場が逆転していることです。キューピッドの正体を知ったがゆえに,女性(プシュケ)の方に難題が降りかかり,まさに命がけで愛を証明しなくてはなりません。愛と魂。凄い名前(象徴性を抱いた)のカップルですね。

 

「愛の神,エロス」の3作に共通するテーマは,あえて言うならば,愛するということの試練でしょうか。めでたしめでたし(結婚)の後に訪れる試練,そして,かなわぬ愛。どの作品も確固とした結論には到達せず,問題提起,もしくは,考えることを促すような形で語り継がれていきます。

 

1話 「若き仕立屋の恋」(エロスの純愛) ウォン・カーウァイ監督

2話 「ペンローズの悩み」(エロスの悪戯) スティーヴン・ソダーバーグ監督

3話 「危険な道筋」(エロスの誘惑) ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 

ミケランジェロ・アントニオーニ監督は,1985年の脳卒中のため,言語と体の自由を失ったものの,このように,ほぼ20年後にも,創作活動を続けているのは嬉しいことです。アントニオーニ監督の作品は,特に60年代の頃のものが素晴らしく,是非ともそちらの方を観ていただきたいのですが,ヨーロッパを舞台にした「危険な道筋」では,倦怠期を迎えた国際結婚カップルの擦れ違いと,自由な女性との出会いが描かれています。

 

スティーヴン・ソダーバーグ監督の作品「ペンローズの悩み」は,第1話と第3話の中間に位置し,能の間に上演される狂言的な小品。やはり,倦怠期を迎えているらしきカップル。でも,まだ気付いていないよう。1950年代アメリカ。広告業界のストレスと妄想は表裏一体?面白いのは,作品が「ペンローズの三角形」(内が外・外が内)のような構成になっていること。ソダーバーグ監督の天才的な閃きが感じられます。

 

ウォン・カーウァイ監督の「若き仕立屋の恋」。3作中,最も優れた作品だと思います。意図された舞台は上海。高級娼婦(コン・リー)の仕立屋として成長していく主人公。彼女に翻弄されながらも,誠実であり続けた若き仕立屋を,チャン・チェンが熱演しています。女性を最も美しく見せることが仕立屋の愛の表現であり,創作の原動力です。平行線上の愛のかたちを丹精に描いた作品。

 

3作の共通点は,愛の矛盾でもあります。「危険な道筋」では,救いようのないマンネリを打破するキッカケは,意外なところからやってくるのかもしれないと感じましたし,「ペンローズの悩み」では,問題の核心が無意識のうちに投影されていました。2本の線が重なり,もつれ合い,堂々巡りして,やがて振り出しに戻ってくる。そして,「若き仕立屋の恋」では,2本の線が重ならないことで,より強く繋がれていく愛の矛盾。愛の痛みと哀しみの中にも,不思議な達成感のようなものを感じた作品です。

 

次回は,アントニオーニ監督のもう一つのコラボ作品,「愛のめぐりあい」(1995年)を見てみることにしましょう。

 

(コラボレーション その1

愛のかたち 第4夜

グリーン・デスティニー

 

チャン・イーモウ監督(愛のかたち第2夜),ウォー・カーウァイ監督(愛のかたち第3夜)とくれば,第4夜はアン・リー(李安)監督はいかがでしょうか。

 

中国出身(1951年生まれ)のチャン・イーモウ監督,中国生まれ(1958年)香港育ちのウォー・カーウァイ監督,台湾生まれ(1954年)でアメリカに留学したアン・リー監督。中国,香港,台湾,それぞれの土地柄と気質が映画にも反映されていて,「ローカル/ユニバーサル」のカテゴリで採り上げると面白そうなトピックですが,今回は「愛のかたち」を続けることにしましょう。

 

「グリーン・デスティニー」(2000年)は,日本ではいまひとつだったようですが,アメリカでは外国語映画として興行成績の記録を塗り替えたほど人気がありました。中国でもいまひとつだったそうですが,これは,中国語でも全く違う方言を話す俳優さん達のセリフが聞き取れない,見慣れた武侠もののとは違った作品であること等が指摘されています。

 

子ども時代に観て育った香港ワイヤー・アクション武侠ものの映画へのオマージュと,アン・リー監督は呼んでいますが,武侠ものの映画は約40年の歴史がありますし,伝統的な形や形式と違う作品に違和感が生じても仕方がありません。台湾での反応はOKだったそうです。「キル・ビル」(20032004年)や「SAYURI」(2005年)のようなものなのでしょうか。

 

アメリカで受け入れられたのは,東洋の武道への憧れが根強いことと,「マトリックス」(1999年)のアクション監督ユエン・ウーピンが立ち回りの指導をしていることでエレガントな動きがダンスに近く,映像の美しさも指摘されています。「グリーン・デスティニー」(2000年)のアクション・シーンの演出は,なるほどミュージカルの形に近く,ダンス(動)と同じように見せ場として,ストーリー(静)と交互に登場します。

 

ミュージカルに欠かせない音楽の部分も充実し,タン・ドゥン(譚盾)の音楽とヨーヨー・マのチェロが素晴らしい。国境を越えて活躍する芸術家達が,アジアの魂を表現したと言っても過言ではありません。カンヌ国際映画祭の特別上映では,早朝の上映にもかかわらず拍手喝采を博し,アカデミー賞では台湾映画として,外国語映画賞を受賞のみならず,計10部門のノミネートのうち4部門(撮影・美術・作曲・外国語)で受賞を達成しました。

 

脚本はワン・ドウルーの原作(武侠もの)をもとに,長年アン・リー監督と組んできたジェームズ・シェイマスが,ワン・ホエリンとツァイ・クォジュンと共著し,西洋的な視点が導入され,欧米の観客にわかりやすく東洋を説いている点が,この映画の人気の秘密だと思います。今のところ英語字幕版でしか観たことがないのですが,そのうち日本語の字幕で観て,日本ヴァージョンならココを変えるといったようなことを考察してみると面白いかもしれませんね。

 

ストーリーですが,もう若くない2人(ミシェル・ヨーとチョウ・ユンファ)と若いカップル(チャン・ツィイーとチャン・チェン)が登場します。大人のプラトニックな想いと,勝手気ままな若さゆえの恋。アン・リー監督の作品では,「いつか晴れた日に」(1995年)のジェーン・オースティン(原作)の世界に共通点を見出すことができます。女性の視点から描かれている点でも,ジェーン・オースティンです。

 

原題の「臥虎藏龍」は,英語タイトルでは直訳されていますが,「能ある鷹は爪を隠す」,「ものごとは見た目だけでは判断できない」のような意味があり,若いカップルの名前に虎と龍が入っているそうです。日本語タイトルのグリーン・デスティニーは,いわれのある剣の名前(碧名剣)で,その剣を巡る人々の皮肉な運命といったストーリーです。

 

もう若くない2人のプラトニックな想い。修行僧(チョウ・ユンファ)は,ある日,瞑想中に疑問が生じ,俗世に戻ることを決意します。修行僧に恨みを持つ女性(チェン・ペイペイ)に師と親友を殺された修行僧は,亡くなった親友の婚約者(ミシェル・ヨー)に長年秘かに想いを寄せていましたが,親友への心遣いと修行僧という立場から,気持ちを打ち明けることができませんでした。

 

女性実業家として独立していた親友の元婚約者に碧名剣を託し,北京に届けてもらうよう頼みます。修行僧より武術を学ぶうちに気持ちが傾き始めていましたが,「いつか晴れた日に」の長女(エマ・トンプソン)のように慎み深い彼女は,お互いの社会的な立場を理解し,距離を置いた関係を保っていました。碧名剣のことで相談に訪れた修行僧が,自分の気持ちに素直になれたらと,そっと彼女の手を取るシーンがあります。竹林のジェーン・オースティンです。

 

届けた碧名剣が北京で盗まれてしまうことで,本格的なアクションの始まり始まり。隣家の嫁入り前の娘(チャン・ツィイー)の気まぐれだったのですが,修行僧に恨みを持つばあや(チェン・ペイペイ)に仕込まれ育てられたというイワク付き。表向きは箱入り娘なのに,裏では屈折した不良娘です。

 

父親の転勤で西域の砂漠地帯を通った時に,盗賊(チャン・チェン)に襲われ,盗まれた櫛を取り返すため賊の頭と戦ううちに,お互いにひかれ,反発するものの恋仲になります。自由気ままに生きる盗賊と,そんな生き方に憧れる箱入り娘。「いつか晴れた日に」の次女(ケイト・ウィンスレット)の奔放さと重なります。

 

表面はお嬢様なのに,山賊のように豪快に風のように生きることに憧れる娘の裏と表の人生が「臥虎藏龍」であり,両家に嫁ぐはずなのに山賊と愛し合う秘密が「臥虎藏龍」です。そんな娘(龍)が剣を盗んだと見破った修行僧ですが,武術の素質を認め,心身の指導と引き換えに見逃すと申し出ます。屈折した彼女がそう簡単に折れるはずがありません。

 

姉と慕う修行僧の想い人と死闘を繰り広げ,育ててくれたばあやを傷付けた挙句の果てに,修行僧とばあやの戦いになってしまいます。憎しみとは不毛なものです。自分のやったことに気付いたのは,時既に遅し。修行僧は,「好きな人に好きだとも言えなかった人生が悔やまれる」と言い残して,息を引き取ります。

 

愛する人を失い不良娘に激怒(復讐)しても不思議がないのですが,哀しみをこらえ,大人である彼女は負の連鎖を止めます。悔いのない人生を送るよう,幸せになるよう娘を諭し,かくまっていた盗賊の居場所を教えます。

 

大人のプラトニックな愛の方も,社会的な立場から,秘められた想いを隠していました。これも一種の「臥虎藏龍」です。殺人犯である身を隠していたばあやも,「臥虎藏龍」と解釈できるかもしれません。若いうちはやったこと(愚行)を後悔しますが,年を重ねるとやらなかったことを後悔するものだと感じます。思えばばあやも復讐心にさいなまれて人生を無駄にし,娘の人生まで狂わしてしまうところでした。

 

「グリーン・デスティニー」は,武侠ものと約200年前に書かれた英国の階層社会での恋の意外な共通点を生かした脚本,そして,ミュージカル的な展開とアクション(ダンス)が,東洋と西洋のクロスオーバーを可能にしたのかもしれません。愛のかたちとしては,若い感情のまま突っ走った恋と,結ばれることのない大人のプラトニックな関係が描かれていました。

愛のかたち 第3夜

2046

 

アジアの映画を続けましょう。もかさん等からコメントに提案していただいきました「2046」(2004年)です。ブログを始めた頃から幾度となくコメントに浮上するウォー・カーウァイ(王家衛)監督の作品は,要チェックですね。

 

さて,「2046」ですが,滑り込みセーフだったカンヌ(国際映画祭)ヴァージョンの評(未完という噂)や,紛らわしいマーケティング・キャンペーン(SF,アンドロイドとの恋,ミステリー・トレイン,キムタク等)とのギャップや,撮影を担当したクリストファー・ドイルのコメント(「2046」は蛇足的発言)から,ほとんど期待していなかったのですが,無欲の勝利というか,好きなタイプの映画でした。

 

カンヌ・ヴァージョンから補足しているためか,辻褄が合った作品に仕上がっていると思います。5年間の作成中に,「花様年華」(2000年)の方が先に完成し,2作品の関連性が高いため,クリストファー・ドイルのようなコメント(「蛇足」)が出ても不思議がありません。また,「欲望の翼」(1990年)の流れを汲む作品でもあります。

 

2046」の当初の意図は,SF(未来)作品だったようですが,脚本なしでスタートしたそうで,作成中にコンテンツの変容を遂げていったようです。ミステリー・トレインやアンドロイドとの恋は,主人公チャウ(トニー・レオン)の執筆するSFに,かろうじて姿をとどめています。

 

2046が香港にとって象徴的な年である理由は,香港の中国返還(1997年)後,50年間は基本的に従来の体制と変わらないという協定の期限切れの年にあたるということ。そして,チャウの滞在する宿の部屋番号20462047に住む男女の数奇な運命と偶然の一致。クリスマスイブ,愛する人の名スー・リー。

 

映画の舞台は,中国返還まで30年となった1967年の香港。この映画を実質上「1967」と呼んでも差し支えがないのかもしれませんが,不確かな未来が2046であり,チャウの執筆するSFのタイトルが「2047」です。2046の愛のかたちは,基本的に愛の記憶です。未来を描こうとして,結果的に過去を語るというパラドックス。

 

人妻(マギー・チャン)との恋(「花様年華」)から逃れるようにシンガポールに渡った新聞記者のチャウは,そこでも恋に破れ,香港に戻ってきたところから映画がスタートします。昔なじみのルル(カリーナ・ラウ)と再会したチャウですが,彼女はチャウのことを覚えていませんでした。恋人と死別し,記憶を封印したルルに,清算されていなかった哀しみが訪れます。

 

ルルの滞在する香港の宿の部屋番号が2046でした。2046は不毛な男女の関係の象徴であり,過去から逃避してきたチャウの過去が甦ります。チャウの執筆するSF小説に登場するミステリー・トレインの乗客も,過去を探しに2046に向かっています。そして,アンドロイドも乗客も,どこかで出逢ったことのある人。小説の主人公は,他人の姿を借りた筆者自身の分身。

 

未来(希望)のない愛を繰り返すチャウは,愛から最も遠いところで情事を繰り返すようになります。部屋番号2046に引っ越して来た娼婦(チャン・ツィイー)との恋愛ゲーム。結局は誰もが負ける虚しく残酷なゲーム,傷付けあうだけの“惚れたら負け”。高嶺の花であればあるほど熱が入り,本気になればゲーム・オーバーです。

 

「恋のタイミングは早過ぎても遅過ぎてもダメ」というようなチャウのセリフがありました。部屋番号2046に出入りする宿の支配人の娘たち。早熟な妹は簡単過ぎて,若年の娘を利用するような人間ではないチャウにとって何の興味も湧かず,姉(フェイ・ウォン)の方は既に日本人の恋人(木村拓哉)がいました。

 

やがて,チャウは父親に認めてもらえない恋に苦しむ長女の文才を発見し,助手として手伝ってもらうようになりますが,自分の許されない過去の恋が彼女の苦しみと重なり,いつしか情が転移していきます。チャウはSF小説「2047」を,彼女のために書き始めます。

 

SFの登場人物は,日本人の恋人の姿を借りたチャウの分身であり,アンドロイドに恋したのはチャウであり,また,生身の人間ではなくアンドロイドである意味は,女遊びに長けたチャウが,彼女への淡い想いを大切にしたかったからではないのかと思います。

 

不毛な恋(不倫)から逃れてシンガポールに渡ったチャウは,過去の秘密を背負う女性と出会いますが,心を開いてくれず,1967年の香港に戻ってきます。過去を記憶から消し去った昔なじみと再会しますが,哀しい記憶(恋人の死)が甦ります。彼女の住む部屋番号は2046。そこでの新たな関係は全て過去を引きずり,今度は恋愛経験が豊富になったチャウが心を開かない番です。そして,同じような傷みを持つ女性へのプラトニックな想い。

 

2046」に登場する多くの不幸な男女の関係のうち,唯一のハッピーエンド(結ばれる恋)は,娘の本当の幸せに気付いた父親に許された長女と日本人の恋人でした。いろいろな女性がチャウの人生を通り過ぎていく中,2046(未来)に続く一筋の願い。愛の破壊力とかすかな希望。チャウにとっては,手に入れないことで成就する愛のパラドックス(思いやり)だったのかもしれません。

愛のかたち 第2夜

チャン・イーモウ(張藝謀)監督の世界

 

コメントに面白そうなお勧め作品の紹介がありますと,ブログを続けていて良かったなぁと思います。SAQUMIさん等から提案していただいきました「Hero」(2002年,原題「英雄」)と,「Lovers」(2004年,原題「十面埋伏」,英語タイトル「House of Flying Daggers」)を観ました。まずは,チャン・イーモウ監督の作品は要チェックですね。教えていただいて本当に感謝しております。

 

チャン・イーモウ監督の名前は,「紅いコーリャン」(1987年)以来ほとんどアメリカで耳にすることがなかったのですが,またもや注目されているのは嬉しいことです。「Hero」と「Lovers」の共通点は,スタイルと様式の美しさを追求した映画であるということ。中国の雄大な自然をバックに,ワダエミさんの衣装とタン・ドゥンの音楽(「Hero」)が素晴らしい。技術面では非の打ちどころのない作品です。

 

Hero」はオペラ的なスケールで展開する武勇伝であり,「Lovers」の方は舞と立ち回り(アクロバット)の動く絵巻物です。京劇的(唱・念・做・打)な誇張の様式化,そして,静/動,非現実/現実を現代風にチャン・イーモウ監督独特の世界としてアレンジしたと言っても差し支えないかもしれませんね。もちろん,非現実の中に何らかの真実が隠されているのですが,それは観る人それぞれの解釈によって変幻自在な世界でもあります。

 

ストーリーは武侠ものとのことで,何でもアリ。「Hero」は秦の始皇帝によって統一される前の紀元前200年の戦乱の世,「Lovers」は唐の衰退期であった9世紀の混乱の世を舞台にしています。「愛のかたち」的視点からは,欺きと陰謀の渦巻く中,復讐と正義(大義名分)が問われ,アクション仕立てのロマンス(宿敵との恋・三角関係・純愛)が挿入されています。

 

Hero」は,基本的に3通りのヴァージョンの回顧談を横糸に,語り部と聞き手との関係(縦糸)を紡ぎだす錦絵のような形式をとっています。無名(ジェット・リー)のヒーローが,のちに始皇帝となる秦王に,王の命を狙う3人の刺客を,いかに倒したかを語ります。シナリオは3つ,赤・青・白のストーリー。加えて,秦は黒,回顧談の中の回顧が緑で表現されています。

 

赤のストーリー。宿敵の長空(ドニー・イェン)を破った後,恋人である残剣(トニー・レオン)と飛雪(マギー・チャン)の仲を裂くためデマ(飛雪と長空の浮気)を流し,残剣を慕う如月(チャン・ツィイー)を利用して,お互いに傷付け合い自滅に導いたと証言する無名。うまい話ですが,あまりにも簡単過ぎると,2人を知る秦王からクレームが付きます。激しくドロドロした愛のかたち(赤)です。

 

青のストーリー。恋人(残剣)を生かそうとする飛雪がヒーローです。飛雪の愛と自己犠牲が理想化される一方,赤のストーリーから一転して如月のかなわぬ恋が切ないヴァージョンでもあります。湖のシーンと重なる水と静寂。愛するものを喪う悲しみのかたち(青)です。今度は残剣の偉大さを侮っていると,無名から「待った」がかかります。

 

白のストーリーと緑のストーリーが織りなすものは,国の行く末を案じる残剣の希求するもの,そして残剣の書に込められたメッセージを受けとめた秦王と無名の物語です。残剣,そして残剣を愛する2人の女性(飛雪と如月),無名,秦王と,それぞれに秘められたヒーロー性が,波紋が広がるかのように呼び起こされていきます。多少眉唾物ではありますが,英雄伝と化す世界観が,過去(緑)から未来(白)への可能性として描かれています。

 

疑惑の渦巻く混迷する世の中で,それでも愛すること,そして三角関係(かなわぬ恋)。このテーマと,どんでん返しは「Lovers」に受け継がれています。チャン・ツィイーが,今度は2人の男性から慕われる番です。欺きながらも惹かれていく盲目の踊り子(チャン・ツィイー)と,敵である政府の役人(金城武)。そして,スパイとして身を隠す踊り子の恋人(アンディ・ラオ)。

 

人が恋するのに都合の良し悪しは関係ないものだと感じます。恋人のいる小妹(チャン・ツィイー)と,遊び人風の金(金城武)が,お互いの目的を達成するために騙し騙され,誘惑し合ううちに瓢箪から駒。

 

陰謀の渦巻く中,2人が純粋に惹かれていくキッカケはいつだったのか考えてみました。夕暮れに盲目の女性を喜ばせようと,晩秋の野原に残花を探しに行った金の思いやりのようなものだったのかなぁと考えます。少なくともあのシーンには素直な時が流れていました。

 

Lovers」は,ダンサー出身であるチャン・ツィイーの魅力を最大限に生かした作品で,新体操のような身のこなしが,お見事。また,牡丹坊(遊郭)の人工的な絢爛さとコントラストをなす,竹林に潜む飛刀門(反乱グループ)の自然と調和した衣装は芸術的でさえあり,ワダエミさんの衣装の素晴らしさが引き立ちました。

 

そして,季節の移り変わりの美しさ。「Hero」でも黄金のイチョウのシーンが印象的でしたが,晩秋の紅葉のシーンから雪のシーンへの転換は夢のようでした。東洋のエッセンスを体現化したチャン・イーモウ(張藝謀)監督の美意識の中に生まれた愛のかたちは形式化され,非現実/現実,そして静/動の間に息づいているようです。

愛のかたち 第1夜

トゥーランドット

 

数ヶ月前の「映画百選チャレンジ」で,そのうち書いてみたい映画のカテゴリとして「男女の仲」を挙げました。はっきりとした答えがないカテゴリですし,墓穴を掘り地雷を踏むかもしれませんが,とりあえず始めてみることにしましょう。

 

トリノ・オリンピックで印象に残った一曲といえばトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」。世界の3大テノール(パヴァロッティ,ドミンゴ,カレーラス)の有名なレパートリー(サッカーのワールドカップ等で披露)でしたが,パヴァロッティの十八番としてオリンピックのオープニングに登場し,何と言ってもフィギュアスケートの荒川静香選手を金メダルに導いた曲として記憶されている方が多いことでしょう。

 

さて,このプッチーニの遺稿を完成させたオペラ「トゥーランドット」(初演1926年)ですが,中東の謎かけ姫トゥーランドット物語を起源にした作品で,この物語をヨーロッパに紹介したのはぺティ・ド・ラ・クロワの「千一日物語」(1710年頃)でした。「千一日物語」の「カラフ王子と中国の王女の物語」に登場する中国の王女がトゥーランドット。名前自体の語源はペルシャ語(トゥーランの女王)です。

 

ストーリーですが,舞台は北京の紫禁城,絶世の美女トゥーランドットと結婚するためには,3つの謎を解かなくてはなりません。失敗すると死(斬首刑)が待ちうけています。このいわゆる求婚ものは,日本では「かぐや姫」,シェイクスピアではポーシャ(「ベニスの商人」)の3つの箱選び等があり,どんな困難をも辞せず,果敢な若者がチャレンジしますが,愛は手に入りにくく稀少なものということを象徴しているかのようです。エントリー・レベルでこれですから,先が思いやられます。

 

なお,「トゥーランドット」は,プッチーニ以外(10人以上)もオペラ化を手がけていますが,プッチーニのものが一番有名です。他のヴァージョン(例:「ラ・ボエーム」や「マノン・レスコー」等)が存在していても,プッチーニの創作意欲が失せたわけではないようですね。芸術というものが,クリエイション(創造)のみならずリクリエイション(再生)であることを実感します。

 

西洋人の東洋趣味は,プッチーニの「喋々夫人」にも共通点を見出すことができますが,愛と自己犠牲の象徴であるヒロイン(マダム・バタフライ)に対し,トゥーランドットは氷のような心を持つ女性です。しかしながら,「トゥーランドット」にも献身的な女性リューを登場させ,彼女が亡くなったところでプッチーニも絶筆しています。

 

リューの存在を含めると,三角関係ともとれる作品ですが,ライバルが登場するのは恋の常。この場合,ドロドロしたものはなく,かなわぬ身分違いの恋を貫く女性(奴隷)として,リューは理想的に描かれています。プッチーニ自身の三角関係の投影とも詮索されています。

 

ストーリーを続けましょう。彼女だけは「やめておけ」というアドバイスに耳を貸さず,カラフ王子は,トゥーランドットに一目惚れしてしまいます。恋は盲目,理屈ではありません。また,適度な困難さ(チャレンジ)である方が,かえって恋に落ちるものですね。簡単すぎても難しすぎても,チャレンジする気が起きませんので,その辺のバランスが微妙なところです。難儀な求婚の課題は,一般に財力・名声・体力だけで達成できるものではなく,機知に富んだ者にアドバンテージがあります。

 

ちょっとストーリーから外れますが,獲物をゲットすることがゴールである狩猟型(ハンター・タイプ)の恋愛は,愛のもう一つの課題である維持の段階に到達することなく,また新たな獲物探しに執心するようになるパターンも,よく恋愛ものに登場します。手に入れた途端に興味を失うタイプですが,不可能なものを手に入れたくなるのは最も人間らしい欲望なのかもしれません。「危険な関係」や「春の雪」などを始め,古今東西,沢山の作品の題材になっていますね。

 

実際,「めでたしめでたし」の後日談が気になるところです。ゴールインというコンセプトは一種の幻影に過ぎないかもしれないと感じます。謎かけではありませんが,ここで皆さんに質問。ゴールインするまでの駆け引きと,ゴールイン後の関係の維持・成育とでは,どちらの方が難しいと思いますか。

 

「トゥーランドット」に話しを戻しますと,王子は難なく3つの謎を解きますが,肝心のトゥーランドットに拒絶されます。そして,まだ名乗っていなかった王子の名前を当てることができれば身を引くという条件付きで,今度は王子からの謎解きチャレンジが課されます。その夜,「誰も寝てはならぬ」が歌われ,王子の身の上を知るリューが王子を守るために絶命します。

 

氷のような心を持つトゥーランドット。何故,彼女の心がかたくなになってしまったのでしょうか。かつて,ダッタンに征服された自国の美しきローリン姫が,非業の死を遂げたことに恨みを持ち,男嫌い(人間不信)になったという経緯があります。このようなトラウマをかかえたヒーローやヒロインが,人間らしさ(心の温かさ)を取り戻すという筋立てのおとぎ話や伝説は結構ありますね。(思い付きますか?)

 

トゥーランドットの心を溶かしたのは,愛する人を生かすために身を捨てたリューであり,ダッタンの王子であるカラフは自ら名乗り出て,トゥーランドットに運命を委ねます。憎しみを抱いてきたダッタンに復讐する絶好のチャンスでしたが,トゥーランドットは王子を受け入れ,人々に王子の名は「愛」であると告げるのでした。

 

さて,荒川選手のフリープログラムで使われた「トゥーランドット」ですが,ヴァネッサ=メイ(ヴァイオリン)ヴァージョンだそうです。この機会に「トゥーランドット」が収録されたヴァネッサのCD「チャイナ・ガール」(1998年)を,久しぶりに聴いてみました。収録されている曲(うち1曲は香港返還記念)全て,フィギュア選手に幾度となく使われています。シンガポール生まれのヴァネッサは,4歳で家族と共に英国に移り住み,クラシックのみならず,クロスオーバーした作品でも感性豊かな演奏を披露してくれています。

 

なお,中国では,「トゥーランドット」は中国蔑視とされてきましたが,香港の中国返還を迎えた翌年の1998年に,紫禁城での公演が実現しました。ズービン・メータ指揮,チャン・イーモウ監督の演出で,TV番組やDVDがリリースされています。次回は,チャン・イーモウ監督の世界に触れる予定です。

 

:::::::::「愛のかたち」今後のアイデア・メモ:::::::::

 

1.始まり(きっかけ)

2.恋愛:追うものvs. 追われるもの

3.不可能なものを手に入れたくなる欲望

4.ゴールインは終わり,それとも始まり?

5.コントロール:支配 vs. 依存

6.1人の孤独と2人の孤独

7.愛すること/愛されること

8.トラウマからの帰還(再び愛すること)

9.愛とは?

 

大風呂敷を広げてしまいましたが,それに値するトピックということで進めていきましょう。