昨日・今日・明日

「父親たちの星条旗」と「トゥマロー・ワールド」を観てきました。

星条旗の方は,間もなく上映される「硫黄島からの手紙」と対になっており,是非とも劇場で観ておきたかった映画です。コンセプトのレベルから,一本の作品に両側の視点を詰め込むより,一対の作品として,じっくりそれぞれの立場を語るという企画はお見事。

クリント・イーストウッド監督,ポール・ハギス氏の脚本と,アカデミー受賞作品「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)の最強のチームが手がけています。ドリーム・チームでも,コケることがありますが,これは,相乗的な功を奏したといった感じです。

不条理を得意とするイーストウッド監督と,同じ出来事を複眼的な視点から描くハギス氏のスタイルが生かされていますが,スティーブン・スピルバーグ氏の製作とのことで,凄いメンバーですね。もちろん,「プライベート・ライアン」(1998年)や「バンド・オブ・ブラザース」(2001年)等の経験も充分に生かされています。

第二次世界大戦で,激戦を経たトラウマの傷を癒す暇もなく,茶番に巻き込まれていった3人の青年の物語ですが,演出に積極的に関与した者,参加はするが良心を忘れなかった者,トラウマと良心の軋轢に飲み込まれた者,それぞれの孤独をイーストウッド監督らしい切り口で描き,名もない英雄たちと,メディアの生み出した偶像を対比させていました。

それぞれの立場を理解しようとするポール・ハギス氏の視点と,醜さも傷も全てあるがままに描きながらも,何か心動かされるイーストウッド監督の姿勢。イーストウッド監督は,音楽も担当されているとのことで,残虐な殺戮を素朴な旋律で包み込んでいたのが印象的でした。(以前はもっとシニカルで,突き放した感じがしましたが,ダーティー・ハリーも人の子だったのかと。) 是非とも硫黄島の方も劇場で観たいと思います。

「父親たちの星条旗」が,うやむやになっていた過去の出来事を理解しようとしているのに対して,「トゥマロー・ワールド」の方は,比喩的に“what if”(仮想未来)を投げかけていますが,どちらも,今の生き方を考えるキッカケに出会うことができる作品だと感じました。昨日,明日,そして,残ったのは今日。今日をどう生きるのか。

アルフォンソ・キュアロン監督の「トゥマロー・ワールド」は,近未来(2027年)を舞台にした作品ですが,やけにリアルでした。中東,南米,アフリカ……。War Zone。悪夢の未来編。Things went terribly wrong. アメリカのインナー・シティーにだってありえる状況です。

グレッグ・レイクの透明な声(「クリムゾン・キングの宮殿」)が流れてきたところで,個人的には,映画がボツでも許せると思いましたが,最後迄観てよかったです。全体的に,このアルバム(宮殿)が出た1960年代の匂いがします。マイケル・ケインを始め,登場人物のライフ・スタイルはヒッピー的ですし。

ところで,この映画,クライヴ・オーウェン,マイケル・ケインと,名優の演技も見どころでした。同じような前提をテーマとした「イーオン・フラックス」の視覚化や解釈とは,違ったアプローチがとられているのも興味深いものです。

昨日への理解と明日の可能性から,今日という日が生まれる……

第32回写真展 眼明らかなれば

勤労感謝の日(11/23)は,あいにくの雨。中学の頃の同級生TAKAMIさんと,お昼には紅葉を見ながらお弁当でもと話していましたが,天気予報は傘マーク。先月,一緒に訪れたテーマパークで,小学生の御子息に大好評だった恐竜の映画。そこで,今回はプラネタリウムで別の恐竜映画を観ることにしました。

先日,TAKAMIさんのブログで,中学の教科書に掲載されていた「赤帯の話」(梅崎春生著)にまつわる思い出を懐かしく読んだばかりだったのですが, TAKAMIさんは,お昼に鮭のチラシ寿司を作って待ってくれていました。

忘却の彼方から,「赤帯の話」を掘り起こす作業は思った以上に楽しく,二人でそれぞれの記憶の穴を埋めていきます。第二次世界大戦後,俘虜だった日本人のソビエト監督官にまつわる回想記です。ストーリーを再構築してみましょう。

シベリアの厳しい自然の中,肉体労働のノルマを強いられていた主人公。ろくな食べ物もなく,ひもじい思いをしています。捕らわれの身は心細く,肉体的にも精神的にも不安な日々。赤帯と呼ばれていた監督官が,ある日,お腹一杯の鮭を振舞ってくれました。

それから間もなく,配属が変わり,消息が途絶えてしまった赤帯。ぼんやりとした記憶の霧の中から,ストーリーの輪郭が現れてきます。どのように「赤帯の話」を感じ取り,どのように記憶していたのか興味深いものがあります。TAKAMIさんのおかげで,鮭のチラシ寿司が,特別に美味しく感じられました。

プラネタリウムで映画を観る頃には,雨がポツポツ降り始めました。でもプラネタリウムは,おかまいなく快晴の空。恐竜の映画だけではなく,秋から冬の夜空の星の説明もあり,段々暗くなっていく会場に星が輝き始め,天の川に数々の星が浮かび,満天の星空になりました。

砂漠で見た星空や,凍てつく夜に流星群を眺めたことを思い出します。そして,段々白んでいく東の空。早送りの1日に,なぜかワクワクしてきます。化石や隕石等,プラネタリウムの外にある展示を見学して,楽しい一日になりました。

雨の音を聞きながら,TAKAMIさんの手料理をつつくのもオツなものです。メニューは鴨鍋。鴨・春菊・ゴボウと,個性が強い食材の組み合わせから生み出された味のハーモニーは絶妙です。大地の馨りがするレシピは,甲州屋のものとか。大満足でした。

It’s a fine day for ducks.

という英語の表現(雨降りの日のこと)がありますが,まさに鴨にピッタリの日。アメリカでは,サンクスギビング(感謝祭)で,七面鳥の日でしたが,今年は鴨鍋。英語で言うと,こんな感じです。

Duck Soup

いとも簡単(お茶の子さいさい)という意味もあります。映画ファンには,マルクス兄弟の「我輩はカモである」(1933年)のスラップスティック・コメディーを思い出された方もいらっしゃるでしょうね。

と,雨の中を,Singin’ in the Rain(「雨に唄えば」1952年)。ジーン・ケリーは,雨の中,傘を他の人にあげたのですが,私は傘を忘れていたので,TAKAMIさんにお借りして帰途につきました。

写真は,私のスケッチブック……

Reinaさんから教えていただいた言葉で締めくくり,写真展の解説とさせていただきます。

眼(まなこ)明らかなれば途(みち)にふれてみな宝なり

(道すがら目にふれるものは全て宝として見えてくる)

空海の言葉だそうです。

TAKAMIさんのブログは,こちらから↓から。彼女の目に同じ一日がどう写ったのか,興味深いものです。

http://blog.goo.ne.jp/pf-vo-takami/

Fixin’ to Say…

先週,外国からのお客様の通訳や案内した時の会話から,ちょっと拾ってみることにしましょう。

ニューヨークからの彼女は,MoMAの学芸員だったということで,近代・現代美術への造詣が深く,アートに関する会話が盛り上がります。おもむろに,

彼女「あなた,バリバリのニューヨーク訛りね。生粋のNYって感じがしますけど,ニューヨークは,どちらでしたの。」

一呼吸置き,笑顔で,

私「ええ,ニューヨークは,南西のはずれの小さな町,ヒューストンでしたのよ。」

と,テキサス訛りで答えます。一瞬沈黙ののち,大爆笑。

ヒューストンは,NYC,ロス,シカゴに次ぐ全米第4位(人口)の都市ですが,シティやLAの方にとっては,ど僻地のイメージが。もちろん,反論するなんてヤボなことはせず,笑って誤魔化すのが無難だと,長年の経験がものをいいます。牛,馬,カウボーイ,牧場……と思うのは,日本人だけじゃありません。かろうじてNASAのミッション・コントロールがあるだとか,石油の街だとか,経済の主要地であることを知っている方もいらっしゃいますが。

彼女「まあ!意外なこと。ヒューストンと言えば,メニル・コレクションが素晴らしいわ。」

私「ええ。メニル夫人とアイマ・ホッグ婦人のおかげで,美術館には,良質の作品が多数収集されていますよね。」

生前のメニル夫人に会った時の話をしてくれます。展示会のオープニングで,ダウンタウンからMontroseと呼ばれる芸術区域(Sul Rossのあたり)に,ロウソクの灯がともり,会場の暗闇の中から,真っ赤なドレスで登場したメニル夫人のドラマチックな演出。メニル・コレクションの近くはSt. Thomasで研究生をしてたので,何となくイメージが湧きます。

アメリカから訪れている美術館関係の人々の間で,必ずと言っていいほど,メニル・コレクションの話題で毎回盛り上がります。建築デザイン担当のレンゾ・ピアノは,関空のデザインも手がけているだとか,ロトコ・チャペルの静寂の中で,沈黙の時を過ごすのが好きだとか。そして,ヒューストン美術館の新館への地下道のために,ジェームズ・タレルがデザインした光のトンネルだとか,直島にもタレルの作品があるだとか,同じような興味がある人との会話には苦労がありません。

彼女「でもさぁ,いつも思うんだけど,テキサスに行くと,なんでもfixingって言うじゃない。あれって,結構笑えるわ。」

テキサス訛りで,

私「I was jus’fixin’ to say that!」(ちょうど言おうとしたとこや!)

be fixing toは,ほとんど未来時制のbe going toと同じように,テキサスでよく使われる語法で,意思的な要素(~するつもり)と,近未来(もうすぐ)であることが込められています。

fixという動詞(名詞としても使われる)は,方言ではなく,標準語としても一般的に使われる単語(固定する・修理する・決める等の意)ですが,「元の状態に戻す」という意味もあることを思い出しました。そこからの連想です。関西方面では,「なおす」という言葉を「片付ける」の意味で使いますが,関東で言うと,ポカンとした(わからん!)反応が返ってきます。fixin’は,まさにそんな感じと言えばいいでしょうか。

ある日,急ぎでランチすることになったのですが,時間がなくて,ほとんど立ち食いのうどん屋さんに行くことに。かなり,ハイレベルなローカルもの。外国の方にとって,とっても異様だろうなと,ちょっと冷や汗ものでしたが,後で礼状が届きました。うどん屋は,日本のいい思い出になったと。不思議なものです。

第31回写真展 紅葉2006 Fall Foliage from Japan

紅葉の季節ですね。皆様,いかがお過ごしでしょうか。

職場の窓から見える欅(けやき)の木々が美しく紅葉し,秋の光を受けて赤や黄色やオレンジ色に輝く様は,まるで夢のようです。雲の合間から陽が差すと,燃えるように鮮やかな色が浮かび,色彩の大合唱が聴こえてきそうです。

通勤の途上や昼休みに撮った写真が貯まりましたので,急遽,第31 回写真展を開催することにしました。イチョウ,ケヤキ,もみじ,アメリカフウ,ハナミズキ等,この一週間の記録です。葉が落ちてしまうまで,束の間のシンフォニーにそっと耳を澄ませてみることにしましょう。

第30回写真展 秋の色2006 Fall Color

Forging the Foliage

Cool crisp morning breath turns into
Sunny and warm daylight

Forging the Foliage
What a glorious time!

Transparent evening sky brings
Moon and stars in the clear night

Forging the Fall Foliage
What a beautiful time!

 

追記:

今週は2本のTVの収録があり,ギリギリまで英語のシナリオ作成や翻訳に追われていましたが,本日,撮影が無事終わりました。

昨日は風が強く,屋外の撮影を断念。今日はロケ。しかも山の上。どうなるものかと心配していましたが,風が止み,お日様が顔を覗かせ,最高のロケ日和。昨夜,来日したばかりの特別ゲストも積極的に参加してくれて,和やかな雰囲気の収録でした。

さて,第30 回写真展のお知らせです。秋の色を集めた写真集を,フォトアルバムに入れておきました。 帰国して2年目。共通のテーマは光ですが,昨年とは,少し違った趣で撮るよう心掛けました。

Le cinéma de mystère

今夜は,最も印象に残った映画について書いてみようと思います。

映画について語る時,その映画を観た時のことや,映画にまつわる記憶が鮮やかに甦ることがあります。もちろん,さっさと忘れたい映画もありますが,映画を核に懐かしい記憶が紡がれていくのは不思議なものです。

記憶は,記憶の記憶として,心に沈殿していくものだとすると,この映画は,観た時の状況を思い出すキッカケ,そして,記憶の手がかりでした。

逆説的ですが,忘れたくないので,あえて知りたくないということがあります。記憶の断片を頼りに,心の中で再構築してみます。記憶の彼方にリタイアする前に,ゆっくりと時間をかけて命を吹き込む……。ふと気が付くと,何という映画かも分からないのに,その映画のことを忘れないように,繰り返し,繰り返し頭の中で再生しています。

まるで記憶につながる凧の糸のように,過去とつながる細い糸を握り締めているようでした。

どれ位の月日が流れたでしょうか。遂に時が熟し,そろそろ放してやってもいいと思い立ち,映画の名前を調べてみることにしました。私の頭の中で長年飼い続けた映画です。最初は,無意識の中で,そして,ある時を境に意図的に……。

ヒント1:
モントリオール。眠れない夜。深夜のTVで偶然流れていた映画。画面に釘付けになり,最後まで目が離せません。フランス語圏カナダ。字幕なしの仏語の映画。言葉もわからないのに,異様で,不思議で,美しい。例えようがないのですが,あえて言葉にすると,モントリオールを本拠とするシルク・ドゥ・ソレイユのような独自の世界を持つ映画でした。観た事も,聞いた事もなかった映画なのに。自分の知らないところで,こんな美しいものが存在している。なんて素敵なんでしょう!

ヒント2:
何年か前のことです。ある日,映画監督が亡くなったという哀しい訃報がTVで流れました。タイトルも知らないあの映画の断片が,監督の代表作として流れています。間違いありません。偶然にも答えを見つけるチャンスでした。第一の衝動は,監督名を急いでメモすること。それで一件落着です。でも,やめました。It’s too easy. そこで終わって欲しくなかったから。名も知らぬ監督への追悼の意味も込めて……。

現場検証:
7月初旬の日差しが眩しいモントリオール。北国の夏を楽しむ人々で,街は活気に溢れています。気が付くと,ビルをぐるりと囲む長い長い列。その日は,グリシャム原作の「ザ・ファーム/法律事務所」が封切りとのことで,トム・クルーズのファンが映画館をぐるりと囲んでいます。アメリカでは一足先に公開されていたので,カナダの映画を観たかったのですが,目新しい作品がなく,やむをえず断念。しかしながら,ザ・ファームのおかげで,その年が1993年のことだったと調べがつきました。

川は命(トロワ・リビエールの奇蹟):
1534年6月9日に,ジャック・カルティエ(Jacques Cartier)が発見したセント・ローレンス川(Fleuve Saint-Laurent)。川に沿って,モントリオールを含むカナダの街が発展し,人口が集中しています。ケベック州に入る頃には,カルティエの名前を冠る地名が目に付くようになり,カルティエがサン・ローラン(セント・ローレンスの仏語読み)を発見したのだと,ジョークを交わします。ちなみに,カルティエは,カナダに到達した初のヨーロッパ人とされています。

カナダの首都オンタリオの郊外にある美しいガティノー・パークを訪れ,川にまつわる不思議な伝説を教えてもらいました。公園保護官(レンジャー)が,片言の英語とフランス語(母語)と身振り手振りで,ピンク湖の名前の由来(色ではなく人名に因んで付けられたこと)や,湖に住む不思議な魚のこと等,いろいろと説明してくれたのですが,とりわけ,彼女の出身地トロワ・リビエールに伝わる伝説の話が印象に残りました。

トロワ・リビエール(Trois-Rivières,三つの川の意)は,サン・モリシェ川がセント・ローレンス川に合流するところにある街で,モントリオールとケベック・シティの中間点に位置します。水色の衣に身を包んだマリア様が川辺に立つようになり,カトリック圏のカナダを旅しているのだと肌で感じます。日本のお地蔵様のように,地域の人々が大切に守っているのは一目瞭然で,いつもきれいにしてありました。ガティノー・パークのレンジャーの話は,トロワ・リビエールに伝わるマリア様の奇蹟で,川が氾濫し洪水の被害を受け続けた人々の魂の拠り所だったのだと思います。

答:
モントリオール出身のジャン=クロード・ローゾン監督(1953-1997)が,8月10日に飛行機事故で亡くなったとニュースを見ました。深夜のモントリオールで偶然見た映画は,ローゾン監督の「レオロ」(1992年)だったのです。想像力に溢れたレオロの世界は,視覚的なインパクトが強くて,言葉がわからないのに最初から最後まで目が離せず,心動かされた作品でした。水,魚,メモ……。

プロローグ:
7月4日の夜,アメリカからカナダへ向かった飛行機から,眼下に広がる大小の街の明かりの中に,色様々な打ち上げ花火が遥か下方に咲き始め,各地でアメリカの独立記念日をお祝いしています。前年,ロッキー・マウンテンの北東に横たわる湖のほとりで,水面に映る花火を見ながら独立記念日を過ごしたことを思い出しました。遥か下方の町々に音もなく夜開く花の間を,重力から解き放たれたかのように浮かび始め,ふわふわと漂う思い出の数々。

初めて空中から打ち上げ花火を見た後,
モントリオールでレオロに出会った。
1993年,カナダの夏。
モントリオール,
トロワ・リビエール,
セント・ローレンス川。

水の姿が変わるように,
記憶も時と共に変容し,
気化しながら褪せていく。
それでいい。
それでいいと,今は思える。
それでいいと,今なら思える。

追記:
タイム誌が選んだ歴代の名作映画100選(Time Magazine’s All-Time 100 Movies,2005年5月)に,「レオロ」が入っているそうです。

美の地域性・美の普遍性

21年ぶりに帰国して,丁度2年になりました。試行錯誤と反省の連続ですが,日本発見・再発見の日々は,それなりに楽しく新鮮です。2年前の今頃も,秋の冷たい空気が,夏の残り陽に温められて,日中は暖かく,インディアン・サマーのようでした。透明に輝く光が,街路樹を秋色に染め上げていく美しい季節です。

さて,地元の美術館で,「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」が開催されていますが,先週末,松岡正剛氏の記念講演会に行ってきました。講義のタイトルは,『イサムの和・ノグチの洋』。東と西,和と洋というテーマは,私自身のテーマでもあり,帰国2周年の節目にふさわしく,今夜は,松岡氏の講演の感想等,思いつくままに書いてみます。

日本人の父と米国人の母を持つイサム・ノグチ(1904-88)は,日米両国で育ち,その後,国境を越え,世界的スケールで芸術活動を続けた彫刻家です。普遍的な美を追求しつつ,それぞれの地域(コミュニティー)に根ざした様式,とりわけ和のかたちを,内から,そして,外から見ることができたのは興味深いものです。その作品は,具象・抽象から,大きなもの・小さなもの,そして,実用性に富むものまで多様です。

芸術家とは,元来,矛盾を孕む存在であり,その矛盾を創造力に変えることが,芸術の効用の一つなのではないのかと考えますが,イサム・ノグチにとって,日本とアメリカ,そして,東と西の文化の吸収こそが,新たなアートを生み出す原動力でした。

以下は,松岡氏講演のメモからです。(イサム・ノグチにまつわるキーワード)

1 二項同体(清沢満之)
2 絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)

『二項対立』(正 vs. 反,善 vs. 悪,正義 vs. 罪,黒 vs. 白,天 vs. 地,etc.)と対比をなす概念。二項対立は,西洋の『理』(ロジック)の源泉にあり,また,サイエンスを生み出したが,二項同体は,矛盾のまま生かすというもの。

イサム・ノグチの作品は,いくつかの大きな軸(芯)のまわりに,例えば,和と洋,東と西,天(宇宙)と地(地球),極大・極小,人体と森などが共存し,yin yang(陰陽)や凹凸が,繰り返しモチーフとして登場する。イサム・ノグチのアイデンティティーそのものである。(『悶着(パラドックス)がイサム・ノグチ』)

3 イサム・ノグチの分母にある東と西の融合
  a. ブランクーシとの出会い
  b. 世界の旅 → 東洋の(再)発見
    c. 石(悠久の時間)との出会い
 
  彫刻の限界を破る旅(反逆の旅)
  ↓
  日本へ
  ↓
  庭の発見(コンセプト)
  『日本庭園は空間の彫刻である』(地球を掘る)

4 日本の庭
  a. 『石の乞はんに随う』(石が置きたいところに置く,「作庭記」より)
  b. 重森三玲(東福寺)との出会い:「枯山水」 → 空気

5 不足の美(和の本質): わび・さび
  a. 引き算の美 (一番欲しいものを引くことで見えてくるもの)
    例:枯山水の水
  b. 不完全な何かを残す (『完全なものは,面白くない』) → 永遠
    c. あえて仕上げずして,想像力において完成させる (『まだちょっと』)

私にとって,最後の『あえて仕上げずして,(受け手の)想像力において完成させる』は,特に興味深いもので,洋の東西を問わず,多くの先生方(アーティスト)から受けたアドバイスでもあります。アクセント(個性と土地性)はそれぞれユニークなものですが,芸術家の共通語のようなものと言っても差し支えないのかもしれません。

例えば,西洋には,Negative Space(ネガティブ・スペース)というコンセプトがありますが,ものを取り囲む空白の部分,すなわち余白の部分のことで,素人目には無駄なスペースであったり,ついつい書き込みしたくなったりするのですが,この空白の使い方をどれだけ把握しているかが,美もしくは芸術的価値に大きく作用します。

例えば,デッサンの白と黒のバランス,空間の使い方(レイアウト)を学ぶ時,完成の一歩手前で筆(手)を置くことが大切だと言います。芸術家の先生方の制作の場に立ち会う機会がありましたが,刻一刻と変わる姿に一瞬たりとも目が離せませんでした。しかしながら,経験を積んだ先生方でさえ,魔が差したように,一筆,一削り多くして,ピークを越えてしまうことがあります。数々の幻の名作は,そっと心にしまっておくことにしましょう。

『想像力において完成させる』部分は,送り手(芸術家)と受け手の共同作業によって生まれるものであり,芸術家との会話を楽しむことができる部分でもあります。コミュニティー(地域)に根ざした芸術を重視したイサム・ノグチにとって,自分自身のアイデンティティーに繋がった和の様式に,美しさを見出したことは,全く偶然ではないと感じます。

空白・間・余韻の美しさは,美術(造形)のみならず,音楽やダンス・演劇にも見ることができます。イサム・ノグチが,彫刻に止まらず,マーサ・グラハムの舞台装置のデザインや,暗闇を照らす照明を手がけたこと。そして,場の持つ意味を知り,空気を読み,素材(石)の声に耳を澄ませたこと。和と洋の本質に触れながら,全てが一つの円を描くように,普遍的な美にたどり着いたのではないのかと,世界中から集められた約70点の作品を前に感じました。

松岡氏は,インターネット上で書評『千夜千冊』を展開し,つい先頃,千冊(プラス144冊)の書評をまとめた本を出版されたとのことで,話題に関連するコンセプトを適材適所,自在に,かつ流暢に,将棋の駒を指すごとく,エレガントに頭の中の引き出しから取り出してくれました。

そして,もう一つ興味深かったのは,松岡氏が千冊を語る際,その本を読んだ時のことを思い出したり,その時の記憶が鮮やかに甦ってきたりすることが,面白かったと話されていたことです。ささやかながら,ここで映画を語る時にも同じような楽しさがあり,ブログを書くことのボーナスでもあります。

次回は,帰国2周年記念第二弾として,最も印象に残った(ヒント:観た時の状況が最も作用した)映画について書いてみようと思います。