チェロを弾く人たち

先日、通訳・案内で、地元交響楽団の定期演奏会に同行したが、新進気鋭のチェロ奏者ボリス・アンドリアーノフ氏(Boris Andrianov、ロシア出身)によるドヴォルジャークの「チェロ協奏曲ロ短調」を中心に、思いがけず素晴らしい演奏を聴くことができた。
 
アンコールはインタビュー(英語)も交え、大サービスで、ジョヴァンニ・ソッリマ(Giovanni Sollima)作の「ラメンタチオ」(Lamentatio)、そして、パブロ・カザルス(Pau Casals)作の「鳥の歌」(El Cant dels Ocells)と、全くタイプの違う曲だが、確かな技術に裏付けされたパッショネイトな演奏を披露してくれた。前者は現代音楽で、ヴィヴァルディのダイナミズムとロックのノリのある曲だ。後者は具象的な小品で、目の前に高らかに飛ぶ鳥が自由にさえずる様子が見えるようだった。深みのあるチェロの音色に魅せられたが、ロシア政府から貸与されている18世紀の名器ドメニコ・モンタニャーナ(Domenico Montagnana)だそうだ。迫力のある力強いチェロの音を楽しむことができた。
 
さて、チェロ奏者と言えば、映画「おくりびと」の主人公が記憶に新しいが、ジョー・ライト監督の「路上のソリスト」にもチェロを弾く人が登場する。LAタイムズ新聞のコラムがキッカケとなった実話をもとにした作品だ。ロペスの連載記事に心を動かされた人は多く、「路上のソリスト」との交流を通してホームレス、心の病、音楽の力、友情等についての考察が記されたものだ。
 
心の病をテーマにした映画は多い。卓越した音楽家という視点からは、デイヴィッド・ヘルフゴット(実在のピアニスト)の「シャイン」(1996年)や、統合失調症に苦しむ天才という視点からは、ジョン・ナッシュ(実在の数学者、ノーベル賞受賞)の「ビューティフル・マインド」(2001年)のアプローチと比較対照してみると面白いが、この路上のソリスト、ナサニエル・エアーズも実在の人間だ。ナサニエルが抱える問題は2時間弱の映画の中で解決できるものではない。ロペス記者が深入りしたくなかった気持ちや、ナサニエルを治したい(変えたい)と焦る気持ちはよくわかる。しかしながら、かかわることで変わったのは自分の方だとロペスは気付く。
 
ジョー・ライト監督は、「プライドと偏見」(2005)では、ジェーン・オースティンのエドワ―ディアンな世界をみずみずしく現代に息吹かせ、また、「つぐない」(2007)は、イアン・マキューアンの大戦前後のイギリス社会を、記憶を手繰り寄せるように描いていたが、ブライオニーのテーマ(音楽)が印象的だった。今回は現代のアメリカに舞台を移し、実在する人物を、音楽を通して描いている。
 
ナサニエルとロペスが、オーケストラのリハーサルを見学するシーンがあるが、共感覚(synesthesia)のようなものが描かれている。初めて、synesthesiaという言葉を目にしたのは、定期購読していた雑誌Smithsonian(2001年2月号、「スミソニアン」)だった。共感覚とは、ある刺激に対する感覚が通常ものだけではなく、もう一つの感覚を伴う特殊な知覚現象で、一部の人のみに起こる。例えば、音に色を感じたり、文字に色を感じたり、形に味を感じたりするという。音に色を見る共感覚は、こんな感じだろうかと思った。しかし、このシーンで一番パワフルなのは、ナサニエルを演じるジェイミー・フォックスの表情だ。「Ray/レイ」(2004)では、ピアノを見事にこなして、さすがは音大出身だけあると思ったが、「路上のソリスト」でも音楽への愛情を見事に体現している。そして、ロペスは「ナサニエルが本当に必要なのは友情なのだ」と気付いていくのであった。

パフューム ある人殺しの物語

ベストセラー「香水 ある人殺しの物語」(パトリック・ジュースキント)が原作で,トム・ティクヴァが監督,演奏はサイモン・ラトルの率いるベルリン・フィル,大型予算となると,話題になって当然。もちろん,大型予算やベストセラーの映画化ということは,失敗の(もしくは批判の対象になる)落とし穴でもあるのですが。この映画も,前評判が高かった割には,公開後そそくさと消え入った感じでした。(あまり期待して映画を観るなというヒント1)

それでもジュースキントだ,ティクヴァだ,ベルリン・フィルだ! 怖いもの見たさ? ストーリーの内容の怖さというよりは,どのように映画として失敗したのでしょうか? まぁ,とりあえず観てみることにしましょう。以下,ざっと原作と映画化の比較です。

天才的な鼻(嗅覚)を持つ不遇な殺人者の数奇な異聞奇譚。原作Das Parfumの少なくとも2/3は,主人公グルヌイユの周りの人物描写で,滑稽かつユーモアに溢れていて,ダーク・コメディのようで,殺人ミステリーであることを忘れてしまうほどでした。

映画は時間制限があるので,乳母や神父やエスピナス公爵の逸話等,面白いけれど話の核から外れ,ストーリーが脱線するエピソードの数を削り,視覚的にテンポよく展開し,起伏のあるストーリーテリングは,さすがは,「ラン・ローラ・ラン」のティクヴァ監督。お見事です! そして,ダスティン・ホフマンの調香師バルディーニは,原作に負けず笑えました。鼻と言えば彼ですね。

18世紀,パリの掃き溜めの異臭から生まれたグルヌイユが,稀有な匂いに取り憑かれ,手に入れるためには,いかなる犠牲も厭わず,計画的に目的を達成します。しかしながら,欲しいものを手に入れた途端に味わう空しさは,匂いのはかなさに似ています。欲する・創造するというプロセスにこそ悦びがあるという逆説は,小説の方がわかりやすく,アーティストがいかに創造し続けることができるのかという命題でもあります。

群衆の中の陶酔と孤独は,小説の方はグルヌイユに対して冷酷な描写で,映画の方は,マレー区の少女(赤毛のスモモ売り)の思い出を甘く重ねたり,賛否は抜きにしても,グルヌイユに人間味を加えていました。マレー区の少女は海の匂いとスイレンとスモモの薫りの完璧な調和と小説にありましたが,映画では,言葉で表現せず,金色のスモモの果肉と果汁のイメージに専念しています。

また,映画では,グルヌイユを演じたベン・ウィショーの不思議なカリスマ性を生かして,匂いのクライマックスを,ロック・スターのごとく輝かせていました。赤毛のローラと父親の逃亡と追跡の映像化も素晴らしく,全体的に効率よく視覚的に語られていたと思います。ただ,ガラス管の中の少女とか手塚治漫画でおなじみのはずなんですが,小説ではほのめかされていた程度の描写が鼻についたような気がします。

小説になかった,匂い(香水)のブレンドを作る際のhead(頭,第一印象)・heart(心,本性)・ body(土台,残り香)の説明と視覚化は簡潔かつ効果的,そして,グルヌイユの動機としても,わかりやすかったと思います。その他にも,言葉を視覚化するという点で,この映画は素晴らしいところが沢山ありました。

ある人殺しの物語は,嗅覚の物語です。本も映画も,直接匂いを伝えることができません。どちらも二次的(間接的)な匂いの体験なのです。

読者の想像力を刺激する文章は,実際の匂いよりパワフルでありうるのかもしれません。しかしながら,読者の想像力を刺激する映像は可能でしょうか。(あまり期待して映画を観るなというヒント2) 視覚というものは,見てのとおり。読み手の想像力を越えるのは,なかなか難しく,そのあたりが,想像力豊かな小説を映画化する際の大きな課題だと感じました。

「パフューム ある人殺しの物語」 ★★★☆☆

原っぱと遊園地を映画に流用したら……

美術館の学芸員Mr. & Mrs. Mと久しぶりに会い,美術談義で盛り上がりました。面白い話題が四方八方から飛び出しましたが,とりわけ印象に残った概念(原っぱと遊園地)を映画に応用してみようと思います。

まずは,青木淳氏(建築家)の『原っぱ(フィールド)と遊園地』という講演を聞いたMさんからの説明。大雑把に言うと,遊び方(遊ぶもの)が決まっている遊園地と,遊びの選択によって創られていくフィールド。そして,一緒に観賞したアートについて,3人で話し合いました。

クリエイティビティ(創造性)の余地があり,実験的かつ何か新しいものを生み出す可能性があるといった点で,原っぱは私の思う芸術に近く,ビジネスとして成り立つことが前提(かつ最優先)であり,一貫性を提供する点で,遊園地は商業アートに近いと感じます。もちろん例外もありますし,境界が曖昧なものもあります。

原っぱの面白いところの一つは,参加者に考えを促すところです。遊園地の短所であり,同時に長所なのは,考えなくていいところです。

遊園地はレストランのような感じで,料理してくれたものを食べます。レストランといってもピンからキリまであるように,例えば,一貫性といった点で,世界中どこでも同じハンバーガーを提供するマクドナルド,そして,その対極にあるのは,その日の仕入れ(材料)次第で創作レシピを提供するレストランChez Panisse(バークレーのシェ・パニーズ)。といった感じで,どれほど機能を分解して規格化(画一化)しても,何らか創意工夫する余地が残るわけです。

原っぱは,体験学習ないし料理教室。参加型です。場合によっては,釣りに行って,浜辺で釣った魚をさばいて食べるような感じです。魚が釣れない日もあれば,釣りのノウハウがない私など,指導してくれる人がいなければ,食いっぱぐれてしまうでしょうね。釣りはまだしも,「狩り行って食料確保せよ」等と言われたら,どうしましょう!スーパーで買っちゃだめ?

また,原っぱといえども,野放し状態がよいとは限らず,子どもの遊びと同じで,(レベルに合った)ルールや遊びのキッカケがなくては,何をしていいのかわからず,つまらないもので終わる(ネガティブ体験になる)かもしれません。自主性や自分で考えることを促す,つまり,創造性やアイデアを刺激する環境や触媒が大切になります。

よくできた遊園地もあれば,しょーもない遊園地もある。原っぱで大いに遊べることもあれば,結局何もせず終わることもある。どちらつかずの中途半端なものもあれば,原っぱとしても遊園地としても成功することもあるかもしれませんし,どちらもでもない新しいタイプのものもあるかもしれません。

もちろん,ここでは,原っぱと遊園地を比較して,どちらがいいか決めるものではありません。どちらも存在理由があるからです。面白いコンセプトなので,映画に流用してみることにしましょう。ビジネスとして成り立たなくてはならない映画は,基本的に遊園地なのですが,あえて遊園地型と原っぱ型に分けて考えてみようと思います。

まずは,先行ロードショーで観た「300」(スリーハンドレッド)。フランク・ミラーのグラフィック・ノベル(劇画)の映画化。先にロバート・ロドリゲス監督と組んだ「シン・シティ」がグロテスクなものの大変新鮮だったので,大いに期待していました。よかったのですが,あまり書くことがないというか,6月上旬に観て以来,そのままになっていました。

「グラディエーター」(2000年)風の麦畑やスモーキーな色調に,赤いマント(もちろん血のイメージでもあります)のアクセントが映えます。ヴィジュアルな面は噂どおり素晴らしく,何と言っても,神話から飛び出したようなお兄様たち。パンツいっちょで大奮闘する鍛え抜かれた体!

選り抜きとは言えスパルタ軍の300人 vs.  ペルシア大軍100万人。テルモピュライの戦いは,まさに四面楚歌。窮地に追い込まれたという点では,グラディエーターと重なる部分がありますが,「300」は,あまりにも強過ぎて,なんだか印象に残りませんでした。グラディエーターことマキシマスにアドバイスしたプロキシモの言葉を忘れたか!(簡単に勝ち過ぎるな。観衆の心を捕らえよ。)

あまり深く考えずに,楽しむことができるといった点で,「300」は,典型的な遊園地型の映画だと思います。

よくブログを書いていて思うのですが,わからないから少しでも理解したいと沢山書いてしまうことがあります。よっぽど好きな映画なんだろうなと,誤解されるかもしれないと思いつつ,文章の量と好きであること,特におすすめ度とは比例しません。念のため。

もう1本は,「スキャナー・ダークリー」。正直なところ,もし「300」と「スキャナー・ダークリー」のどちらか1本を推薦するとしたら,「300」だと思います。でも,「スキャナー・ダークリー」は,長々とブログを書いてしまうタイプです。 どちらかといいますと,もう一息の映画だと思うのですが,なかなか面白い試みだと思います。実写とアニメの融合は今までもありましたが,実写をトレース,しかも手書きと,大いに手間暇かけて作った映画です。P.K.ディック原作というだけで注目!

手書きのスタイルが,原作が執筆された頃のイラスト風(当時のアメリカの広告に出てくる感じ)で,ちょっと古いかなとも思ったのですが,髪がまるで独自の意思があるかのように揺れる様子だとか,新しい感覚の部分もあり,特に,ロバート・ダウニーJr.とキアヌ・リーヴスのスケッチは素晴らしい!

実験的といった意味で,「スキャナー・ダークリー」はフィールド(原っぱ)型だと思います。そうそう,フィールドのもう一つの特徴は,未完成であるということ。そして,いろいろな考えを刺激・触発するということ。というわけで,この日記も未完成ですが,この辺にしておきましょう。

「300」 ★★★☆☆
「スキャナー・ダークリー」 ★★☆☆☆

Art Spider Liveに寄せて

アーティスト西村記人さんの展覧会「アートスパイダー 西村記人展」が,香川県文化会館で開催中ですが,9月19日(水)に,実演LIVEが開催されるとのことで,8人のグループで行ってきました。図録の翻訳をお手伝いしたご縁で,貴重なアート体験をすることができました。

西村記人氏と3人のグループによるLIVEペインティング,山下洋輔氏の率いるニュー・カルテットのジャズ,大倉正之助氏(重要無形文化財総合認定保持者)の鼓,PIRAMIさんのチェロにKETZさんのダンス,松浦俊夫氏のDJと,まさに,異種アーティストを一堂に会する異色イベント。

西村氏のLIVEペインティングは,日本はもとより,ロンドン・ツアー,Virgin(リチャード・ブランソン氏のレコード会社)のパーティー,ゲント(ベルギー)の音楽祭,ミュンヘン,カンヌ(モナコ王室からの招聘)でLIVEと,海外でも注目を集めているそうで,これだけのメンバーを集めてのLIVEペインティング,見逃すわけにはいきません。

LIVEの前半はソロで,それぞれの力量の披露。後半はコラボです。まずは,鼓から。能の様式美を凝縮した物凄い存在感です。赤のフラッド・ライトに包まれた大倉氏が打つ正確無比な鼓は,鬼気迫るものがありました。その後,コラボでも全体を引き締める要として,重要な役割を果たします。Awesome!

大倉氏の次は,PIRAMIさんのチェロとKETZさんのダンス。会場に流れる空気が,ふんわりと変わります。低く流れるチェロのうねりに合わせて,KETZさんのダンスは,シルエットとして背後のスクリーンに映し出されています。インドネシアの影絵人形芝居(ワヤン・クリ)のように,ゆるゆると体をくねらせ,これから始まる不気味な饗宴を暗示しているかのようです。

ソロの締めくくりは,山下洋輔ニュー・カルテット。図録では,山下洋輔氏が西村記人氏に寄せた文章等の英訳を担当しましたが,『ドシャメシャ演奏』とか,訳しきれない山下氏独特の表現を生かすためには,どうすればいいのだろうかと頭をかかえてしまいました。そのうち,こりゃ翻訳もドシャメシャでいくしかないと思い始めると,最高に楽しいプロジェクトに。いやぁ,面白かった!……というわけで,そのドシャメシャ演奏とやらを,じっくり聴かせてもらおうと楽しみにしていたのです。

図録の締切り前は大嵐のようで,手に汗を握る大接戦(?)でしたが,今となって振り返ってみると,それも楽しい思い出です。台風の日に,西村さんのアトリエで,学生時代の合宿さながらデザイナーや学芸員がひしめき合う中,校正や全体的な翻訳のチェックをしました。外は嵐,中も嵐。西村氏のLIVEさながら,エネルギーの塊が混沌としていて,大変面白かったです。

その場の空気を感じ取りつつ体全体で描くLIVE PAINTINGは,半透明の大きなスクリーンに踊る絵。ジャンルを超えた音楽,ダンス,ペイントが,核融合と分裂を繰り返し爆発する。そんな感じです。相乗と相殺。シナジーと無。それぞれの色が混じり,消えていく。

一瞬のきらめきを捕らえよ,アーティスト!
見逃すな,観客!

美術的には,ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングを垂直にして,コラボが実現し,かつ制作過程を見ることができるといった感じです。作品もオール・オーヴァーで,フラクタルかつ独特のリズムが生み出す実験的な描画行為そのもの。同時に,先住民やチベット僧の描く砂絵のはかなさにも似た世界。そういった意味では,むしろ「香り」ないし「匂い」の美学に近いものがあるかもしれません。

アートスパイダーのドシャメシャ度は,強いて言うならば,奇想天外なシルク・ドゥ・ソレイユ(Cirque du Soleil)に匹敵するもので,雲を集め,嵐を呼ぶエネルギーの渦に圧倒されました。シルクが綿密に演出されたものであるのに対して,何でもアリのアートスパイダーは即興性や偶然性を生むものという違いはありますが,どちらも独創的であり,大道芸人が織りなす一夜限りの夢のような世界。

One Night Only。会場の準備が遅れているからと,入口にずらっと並んだ人々。まるで噂のクラブ。会場に足を踏み入れると,心地よいDJサウンドが流れ,適度な音量が会話を促進し,会場をすっぽり包んだ照明がクラブakaディスコ風。スクリーンには,雲と蜘蛛。一昔前にKPT(カイパワーツール)で遊んだような画像が,モーフィングしながら浮かんでは消える。

そうそう,展覧会の一環として上映されている大木裕之監督によるドキュメンタリー「Who is Nishimura」を,一足先に観てきました。なんつーのか,アートは一種の排泄行為であるといった感もありますが,短いながら,光が踊る様子や軌跡に重ねられた,西村氏のLIVE PAINTINGの捉え方は面白く,不思議なことに真髄に迫るものがあると感じました。

図録の印刷締め切りギリギリ直前。週末の印刷会社で,西村軍団と最後の校正と点検を終え,皆で豚カツを食べに行った夏の昼下がり。炎天下,老人が自転車で通り過ぎる。夏休みの課題を抱えた画学生が通り過ぎる。そして,蜘蛛の糸をたらし,夢を紡ぐ西村氏が,目の前で静かに佇んでいた。……彼の中で,どのような嵐が生まれつつあったのか知る由もありません。人生夢の如し。でも,このArt Spiderが紡ぐ夢は,面白い夢のようです。Life is but a dream.

 

P.S. 一緒に行った8人のメンバーは,それぞれの想いを胸に帰宅したわけですが,同じ時空を共有・体験し,話すことができる人がいるのは本当にありがたいものです。8人のうちブログをアップしている方の紹介をしておきますね。同じイベントをどのように見たのか興味深いものです。こちらもどうぞ!

1 親友かつアーティストTAKAMIさんの2007年9月19日付けの日記「平日オフのアートな1日♪」
http://blog.goo.ne.jp/pf-vo-takami/e/e6b4962a11b5cf44cdefd62a35f20ac1

2 ミクシィにアクセスがある方は,マイミクtarumiさんの2007年9月19日付けの日記「ART SPIDER with 山下洋輔」も。LIVE直後にアップされた臨場感の伝わってくるブログです。

最後になりましたが,TAKAMIさんとたっくん,tarumi氏,直ちゃん,ジャッキーさん,K氏,H氏,Thank you so much!  I really had a great time!

Art Is Long, Life Is Short

昨夜は,地元アーティスト西村記人氏の展覧会のオープニングでした。図録の翻訳を,お手伝いしていた関係で招待していただき,友人5人と行ってきました。そのうちの1人は,来日したばかりのジャッキーさん。ジェシカさんの後任です。ジェシカさんともメール等で連絡を続け,さらに友だちの輪が広がっていくようで嬉しいです。

ジャッキーさんは,アニメ大好きということがわかり,一昨日は「海洋堂の軌跡」というフィギュアの展覧会へ。ジェシカさんもでしたが,ジャッキーさんが日本に興味を持ち,日本語を勉強しようと決心したキッカケは,日本のアニメ「セーラームーン」だったそうです。

展示されたフィギュア4,000点の中から,「これ持ってる!」とか,「子どもの頃は,『私はセーラーマーズよ!』と,なったつもりだった」とか,目をキラキラさせて見学しました。それからゴスロリに興味を持ち,独学で洋服を作るようになったとか。それも,原宿で大好きなコスチュームを見つけたものの,高価(10万円!)だったので,自分で作るようになったそうです。会った早々,意外な一面を知ることができました。

実際のところ,「ゴスロリ」(ゴシック&ロリータ)という言葉は初耳で,思わず聞き直してしまいました。そのようなわけで,日本のサブカルチャーのボキャブラリーを,彼女から伝授してもらうという一コマも。とっても勉強になるなぁ。ゴスロリとか,不思議と似合いそうだと彼女に言うと,笑っていました。

そんなわけで,アート方面も興味があるそうで,西村氏の作品もじっくり見学していて好感を持ちました。図録の翻訳プロジェクトのうち,ドイツの美術評論家サビーンさんと,メールで作品4点について語るという企画があったのですが,その作品を実際に間近に見て,写真では見えなかったものが見えてきたり,質感や存在感が伝わってきて,感動を新たにしました。

西村氏とサビーンさんメールのディスカッションを翻訳して一番面白かったのは,今までとは全く違った視点から見ることができたことです。自分では決して気付かなかったであろうことや,見落としていたことが見えてきて,ワクワクしました。

翻訳は黒子のような役割なんですが,黒子が進行に寄与するように,一つの言語を超えた会話を可能にします。そして,今回の翻訳のおかげで,新たな作品を見る目を養うことができたのは,私にとって,このプロジェクトの大きな収穫でした。

空気や水は無色透明ですが,生きていくうえで必要不可欠であるように,その存在は見えなかったり,普段は意識しないものでも,その存在のおかげで,可能になることが世の中には沢山あるのかもしれないと感じます。

ジャッキーさんと最近観た映画の中で,特によかったのは「善き人のためのソナタ」だと話しました。この映画は,ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)前の東ドイツを舞台に,シュタージ(国家保安省)という秘密警察による監視をテーマにしています。芸術家を監視するシュタージ担当官が,盗聴することで間接的に芸術に触れ,監視体制の危険の中,芸術家の人生に大きな関わりを持っていくというストーリーです。

「善き人のためのソナタ」が面白いのは,間接的に芸術と関わりを持った人間(シュタージ)が,人間の尊厳と芸術(言論)の自由を守るために,あからさまな人権の侵害から,人権の擁護者に逆転していくところです。シュタージは壁の向こうの見えない存在ですが,芸術家の存命に必要不可欠になっていきます。

もちろん,このような政治的な制約やサスペンスはありませんが,今回の翻訳プロジェクトに参加することによって,私も間接的に芸術に触れ,何か直接的な行動を起こすという「善き人のためのソナタ」の主人公の気持ちが,少しわかったような気がしました。

西村氏は,各界著名な音楽家とコラボして,ライブ・ペインティングという生の公開制作で有名なアーティストですが,作品の勢いや偶然性,透明感のある色,そして,半透明なパネルを使うため,逆光やシルエット等,光が作品に命を吹き込んでいます。

オープニングの前の準備をしている段階で,暗くて細長い部屋に並べられた作品を拝見させていただきました。どのように展示されているのか,当日ワクワクしながら展示室に入ってみると,のれんのように作品を連ねたトンネルと化し,仄かな光源から光が透けて,次から次へと作品が見えていくように配置されていました。重ねる(レイヤー)というコンセプトがよかったと思います。

特に,「半透明の彼女等は」という2005年の作品は,写真を見た時から魅かれるものを感じていましたが,実物を見ることができて,よかったと思います。半透明の素材を二つ折りにして,ロールシャッハ・テストのような左右対称のイメージを組み合わせているのですが,それが人体を形成し,その組み立て(レイヤー)が興味深く,暫し足を止めて拝見させていただきました。

ライブ・ペインティングのお話を伺った時,咄嗟に思い出したのは,「ミステリアス・ピカソ 天才の秘密」(1956年)というドキュメンタリーです。天才的直感と勢いに圧倒されました。貴重な記録です。作品を観客は裏側から見るということ,そして,生の公開制作という共通点があります。

作品がどんどん変容していく中,一瞬でも目を離すと,すっかり絵が変わってしまいます。そして,記録媒体(当時の映画フィルム)の制約から,録画時間の制限があり緊張感がみなぎっていました。ライブ・ペインティングも,同じく時間の制約があります。西村氏の特別パフォーマンスは,9月19日に予定されており,変容していく生のアートを堪能したいと思います。

昨夜のオープニングでは,Dr. YSことDJサワサキヨシヒロ氏の心地よい空間を演出するatmosphericなサウンド(アンビエント・テクノ・ハウス系)に包まれた会場で,掃除機を履いて登場し,頭上にトースターを乗せたToastie嬢のパフォーマンスがありました。コスプレとかにも興味のあるジャッキーさんは興味津津でしたが,なんとパフォーマンスに参加。頭上でトーストを焼いてみました。ちょっと恥ずかしかったそうですが,大いに楽しんだとのこと。来日3日目で既に,日本のサブカルチャーにどっぷり浸かっているのは,頼もしい限りです。

芸術は長く人生は短い ― ars longa, vita brevis

アート系 第6夜 Orlando

「オーランドー―ある伝記」
(Virginia Woolf著,川本 静子訳,2000年,みすず書房)

頭の上をスカスカ通り抜けていったウルフ(原作)の一冊でしたが,サリー・ポッター監督(映画「オルランド」,1992年)の解釈に助けられ,スティーヴン・ダルドリー監督(「めぐりあう時間たち」,2002年)に触発されて,再度,チャレンジしてみることにしました。

そして,めぐりあったこの本。頭上をフワフワ浮かんでいるウルフの言葉を,適度につなぎとめることに成功した見事な翻訳だと思います。それは,束縛ではなく,理解の手助け。

また,注釈やあとがきは,大変参考になりました。ヴァージニア・ウルフの世界を日本語で楽しむことを可能にした一冊だと思います。

ユーモアさえも翻訳のプロセスで失われることなく,チャーミングなオーランドー像が,不思議な,でも自然な形で伝わってきました。ウルフ文学ないしイギリス文学を理解するうえで,重要な一冊だと思います。

アート系 第5夜

 「ホワイト・オランダー」(2002年)

 

この映画の主人公の母親は,気性の激しいアーティストであり,複雑な母娘関係をどう受け止め,自分なりの生き方を模索していくかというテーマの作品です。主人公は,絵を描くことで,後には,自分とかかわりのあった人々の思い出のかけらを集めたトランクを制作することで,行き場のない気持ちを清算していくことを身につけていきます。

 

まずは,原題(White Oleander)ですが, Oleanderを,アメリカ英語風に発音すると,オリアンダーないしオレアンダーの方に近く,文字通りの訳は,白い夾竹桃(きょうちくとう)です。

 

夾竹桃は,日本でもお馴染みの夏の花。映画の舞台となった南カリフォルニアの高速道路沿いに,街路樹として,よく見かけます。毒があるそうですが,車の排気ガス等の大気汚染に強く,花の少ない時期の殺風景な道に,涼しげな花が彩りを添えてくれます。カリフォルニアに限らず,アメリカ南部の夏の風物詩でもあります。

 

薔薇に棘があるように,美しいものには毒がある。まさに,主人公の母親です。世界を敵にまわしたように,他人からの干渉と影響を嫌い,人を傷付けてでも我を押し通す人。ワンマンで,独占欲が強く,母性や愛の象徴というよりかは,ファイター(戦士)といった感じの母親です。そんな母親が犯した罪のために,15歳の主人公は,里親と施設の間を転々とすることになります。

 

母親を務める里親たちと,刑務所の実の母親は,ほとんど反面教師としか言いようがなく,ただでさえ,難しいお年頃,しかも,価値観の形成期に,女性として,人間として,よいお手本になる人がいないどころか,非行に走り,不良になっても不思議のないような環境に放り込まれました。

 

最初の里親は,自尊心のない女性で,嫉妬心から主人公を傷付けてしまいます。通報してくれたのは,そこの少年でしたが,小さいながら,心を通わせることができた一人で,夜空の流星群を一緒に見た逸話があり,滅茶苦茶な家庭にも,まともな子どもがいるのだということを,思い出させてくれます。

 

そして,施設で暮らすことになった主人公を,遠くからそっと見守ってくれていた青年がいました。なかなか心を開くことができない主人公でしたが,コミック風の絵を描く青年と,描くことを通して意気投合します。絵に没頭することで,心を無にすることを知る二人。辛い境遇を忘れるサバイバルの手段でもあり,絵を描くことで,幸せな時を共有することができたのです。

 

次の里親は,裕福なものの満たされず,自分に自信を持つことができない女性ですが,彼女なりに精一杯愛情を注ぎます。やっと幸せが巡ってきたと思ったのも束の間。里親の影響を敏感に嗅ぎ取り,誰にも頼って生きるなと激怒する母親。「あんな女より,性悪の方がよっぽどまし」と毒づく母。

 

最初の里親と,二番目の里親は,あらゆる面で表裏の対(チープ vs. リッチ等)をなすものですが,共通点は,自分がないこと。悲劇的な結果さえも,人を傷付けるか,自分を傷付けるかという両極にあたります。唯一の違いは,愛するということ。

 

この経験を通して,主人公に大きな変化が起き,愛の破壊力と,本当に人を愛するということの違いを感知し始めます。いい人なら,母親がとことん傷付けるということに気付いた主人公が,次に選んだ里親は,善良そうなカップルを押しのけ,したたかなロシア移民の女性でした。生きるためなら,何でもするような女性です。簡単に負けるような人ではありません。

 

映画には,逆光を使ったカメラワークが多用されていますが,乳白色の液体を入れたグラスに,白い夾竹桃を生ける母のシーンがありました。登場人物である白い肌の女性たちと,白い花が重なります。皆,それぞれの毒を秘めています。とりわけ強烈な毒を持つ母は,ひときわ美しかったと,主人公が描写しています。

 

美しい母は,娘を自分の延長のように操り続け,自分の分身のように形成しようとします。親と子の境界線とは何なのかと,考えさせられた作品でした。そして,映画の後半で,娘は愛するということを母親に突きつけますが,誰にも頼って生きるなという母親の言葉が,そのままそっくり母親に返っていったのは皮肉なものです。

 

何かを生み出すこと,すなわちクリエイティビティーは,西洋では一般に女性的な母性の象徴とされています。救いようのないような状況に置かれた主人公は,絵を描き続けることで,創作のエネルギーに変えていきますが,これは,もともとは母親から学んだことでした。

 

この映画は,決して白黒で判断できるものではありません。このような母を,娘として,どのように受け入れることができるのでしょうか。そして,芸術を創作する原動力や動機は,いつも意外なところからやって来るものだと考えました。苦しみや痛みを,美しいものに変えていく力でもあります。

 

アーティストであると同時に,サバイバルのためには手段を選ばず,他人の人権を侵害することも厭わなかった母。創作するということは,彼女自身のものであり,誰も奪い取ることができないことに気付いた主人公は,母親から訣別し,自分の道を歩み始めます。炎天下,白い夾竹桃が,排気ガスを浴びながらも力強く咲き続ける姿を思い出しました。

アート系 第4夜

ヴァージニア・ウルフの世界

 

今夜は,女流作家ヴァージニア・ウルフ(18821941年)に触発された映画を選んでみました。彼女の世界は大変プライベートなもので,感性と芸術性に溢れた繊細な表現を,どのように解釈し,映像化することができるのか,興味深いところです。

 

まずは,スティーヴン・ダルドリー監督の「めぐりあう時間たち」(2002年)から始めることにしましょう。マイケル・カニンガムの原作(ピュリッツァー賞受賞)の映画化で,時空を越えてヴァージニア・ウルフと2人の女性の1日が,ウルフの小説「ダロウェイ夫人」を接点に,間接的・直接的に重なり合っていくといった構成の作品です。フィリップ・グラスの音楽が印象的でした。

 

ダルドリー監督の前作「リトル・ダンサー」(2000年)では,内側からこみあげてくる芸術性への目覚めを,ストレートに描いていましたので,正直なところ全く油断していました。「めぐりあう時間たち」を観たときには,このような映画も創れるのかと,新鮮な驚きを感じました。直球を予期していたところに,秘密の変化球が来たような感じです。それも,ガーンというよりは,じんわりと効いてきました。

 

「めぐりあう時間たち」に登場する3人の女性の接点である「ダロウェイ夫人」の方も,1997年に映画化されています。こちらの方にも,少し触れておきましょう。舞台はロンドン,1923613日の1日を描いた作品です。その夜開かれるパーティーのために,ハイドパークで花を買うダロウェイ夫人。

 

議員夫人におさまったダロウェイ夫人の意識の流れ(stream of consciousness)は時空を超え,人生の分岐点であった30年前を再び訪れます。まだ夫の姓で呼ばれる前,クラリッサだった頃の情熱的な恋人。気になる女友達。後に夫となる堅実なダロウェイ氏。果たして,あの時の選択でよかったのかと自問します。

 

そして,1923年に交差するのは,第一次世界大戦のトラウマを抱えた復員兵と,1日の終わりに,窓越しに見えた老女の姿。ダロウェイ夫人の意識の分身とも解釈されています。若さ,老い,女性として生きるということ……。復員兵の選択に衝撃を受けつつも,今の生き方を受け入れるダロウェイ夫人。「めぐりあう時間たち」でも,このテーマが通奏低音のように流れています。

 

「めぐりあう時間たち」に戻りましょう。1941年,1951年,2001年に生きる3人の女性たちの1日が始まります。2001年,ニューヨーク。ダロウェイ夫人と,昔の恋人から愛称で呼ばれていたクラリッサは,作家である彼の受賞パーティーの準備をしています。「ダロウェイ夫人」の一節を引用しながら,祝賀会のために花を買うクラリッサ。

 

1951年,ロサンゼルス。主婦ローラは,生きる意味を見失い,幸せを感じることができず,愛のない結婚を選んだ「ダロウェイ夫人」を読むことで,かろうじて閉塞感と孤独感を飼いならしています。1941年,ロンドン郊外。もはや生きる意味を見出せなくなったヴァージニア・ウルフ……。いや,彼女は心の病を持ちつつも,今でも影響を与え続ける素晴らしい作品を生み出すことができたのです。

 

ちなみに,「ダロウェイ夫人」執筆時の仮題は,「めぐりあう時間たち」の原題The Hoursだったそうです。時の流れを遡り,意識の世界を掘り下げていく手法は,紛れもなくヴァージニア・ウルフそのもので,時空を自由に超え,複眼的な視点の提示と共に,パーソナルな意識・内面の世界の映像化が同時にできるのは,映画という媒体の特性でもあると実感しました。

 

同じく時の流れと意識が重なる「オルランド」(1992年)ですが,トランス・ジェンダーな主人公が,風のように400年の歳月を駆け抜けます。男性として生を受けたオルランドが,女性になった途端に家の相続権を失い,また,生まれてくる子どもが,男の子でなくては家を失ってしまうという事態に追い込まれます。

 

「オルランド」は,1928年に執筆されましたが,ジェーン・オースティンの「プライドと偏見」(「高慢と偏見」)や「いつか晴れた日に」の時代背景(女性は遺産を相続できない)と,まだまだ重なる部分があります。実際に,ヴァージニア・ウルフのパートナーでもあったヴィタ・サックヴィル=ウェストが,女性であるがために,愛着のある家を相続できなかったことが,「オルランド」執筆の動機とされています。

 

ボーヴォワールの「第二の性」(社会的に定められたジェンダーへの開眼)が登場するのは,まだ先,1949年を待たなくてはなりません。

 

サリー・ポッター監督の「オルランド」の映像化は,主人公を演じたティルダ・スウィントンの魅力と存在感を生かし,原作の意図を汲み取りつつ現代に繋げています。また,サンディ・パウエルの衣装が時に息吹を与え,時間の流れがワルツのように視覚化されています。クリエイティブな作品だと思います。

 

ベルリンの壁崩壊後に,旧ソビエト圏で行われたロケも効果的です。エリザベス一世の長い君臨(15581603年)が終わりを告げ,大寒波に襲われたロンドンで運命の人と出会うオルランド。氷に閉ざされた世界を再現したサンクト・ペテルブルグでのロケ。そして,失恋したオルランドは,辺境の地へ志願します。ウズベキスタンでのロケから,時空を超えた質感と,東方の空気が伝わってきました。

 

そして,現代のロンドンに,娘と共に颯爽と登場するオルランド。自分の肖像画の前で,傍観者的にカメラに向かい目配せします。

 

オルランドを演じるティルダ・スウィントンが,ゴダールの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」に登場するベルモンドのように,カメラに目線を送ったり,ユーモアや茶目っ気を導入したり,映画という媒体を意図的に用いた作品でもあります。(「ファイト・クラブ」のブラピの例の方がわかりやすいかな。1999年公開と,こちらの方が「オルランド」より新しいので悪しからず。)

 

ヴィタ・サックヴィル=ウェストの子息が,「オルランド」は,ヴァージニア・ウルフから母への長い長いラブレターだと称していましたが,意気消沈していた人に,このような素敵な励ましの言葉をかけることができるのは,彼女の才能そのものであり,また,これらの作品に,時空を超えて意味を見出した人も沢山いることかと思います。

アート系 第3夜

「カラヴァッジオ」(1986年)

 

アート系の映画となりますと,デレク・ジャーマン監督抜きに語ることはできません。今回は,「カラヴァッジオ」を,選んでみました。

 

カラヴァッジオ(15731610年)は,イタリアの実在の画家の名前です。最近の映画では,「ダ・ヴィンチ・コード」で,ルーブル美術館のソニエール館長が,セキュリティ・システムを作動するために壁からはずした絵が,カラヴァッジオの作品でした。

 

また,前回,アート系第2夜で登場した「気狂いピエロ」(1965年)の冒頭で引用されている画家ベラスケスに,影響を与えたとされています。ベラスケスのみならず,レンブラント,ルーベンス,フェルメール(「真珠の耳飾りの少女」2003年)に,もちろん,アルテミシアも(「アルテミシア」,“Painted Lady” 共に1997年作)。

 

映画「カラヴァッジオ」では,伝記的な枠組みを追いつつも,デレク・ジャーマン監督の目を通した絵画の再現部分が,見どころでした。伝記的な部分は,400年も経てば風化し,良きにつれ悪しきにつれ伝説化します。絵そのものが語りかけてくるものに,耳を澄ませてみると,いろいろな音色が聞こえてきます。

 

「希望なきところに怖れなし」と,ナイフの柄に刻まれた言葉のように,カラヴァッジオの人生は波乱万丈でした。画家の一生を詩のように,象徴的に表現しつつ,映画という媒体を使って絵画を再現する試みをした作品です。デレク・ジャーマン監督の直感,感性,解釈とのハーモニーが生み出したリアリティ。

 

芸術,すなわち人生なりき。この映画では,サミュエル・フラー監督の映画の定義「映画とは,戦場のようなもの。愛・憎しみ・アクション・バイオレンス,そして,死。すなわち,emotion(感動・感情)だ」(「気狂いピエロ」より)が,再現されています。アートとは,私的な体験であり,主観的なものであり,全身で感じるもの(エモーション)。芸術家は,知らずとも,自分自身を描いているものだと言います。

 

また,この映画を一言で表せば,「画家の目」と集約できるのかもしれません。つまり,画家が,どのように世界を見たのか。モデルの選び方,構図,意図的な照明(光と影のコントラスト),キアロスクーロ(明暗)等。そして,写真的なリアリズム(フォトリアリズム)的手法の萌芽(カメラ・オブスキュラ)。ジャーマン監督の案内で,カラヴァッジオの作品が,生き生きと現代に甦っていくのには感動しました。

 

創造的な画家から,創造的な監督へ。この映画の面白さは,デレク・ジャーマン監督自身の視点,「どのように絵を見たのか」であり,そこに新鮮さが宿っているのだと思います。意図的に,かつ,さりげなく,現代・近代のオブジェを導入することで,カラヴァジオ的視点の再生が,映画のいたるところに息づいています。

 

カラヴァッジオとかかわりを持った登場人物として,若き日のショーン・ビーン(「ロード・オブ・ザ・リング」等)と,ティルダ・スウィントン(「ナルニア国物語……」の白い魔女,「ブロークン・フラワーズ」等)が,絵のモデルとして,映画に登場します。

 

創造的な監督から創造的な女優へ。ティルダは,デレク・ジャーマン監督の常連でしたが,彼女の存在感,アート性,変幻自在ぶりには,いつもながら,目をみはるものがあります。

アート系 第2夜

「気狂いピエロ」(1965年)

 

ゴダールから始めることにしましょう。「気狂いピエロ」は,パリから南フランスの光と影をキャンバスに,絵画,本,詩の引用からできたコラージュを紡ぎながら,犯罪カップルが時空を移動し続けるといった感じの作品です。

 

ゴダール監督というフィルターを通した映画の断片・要素が,いたるところで直感的に結合・生成され,新たな質感と色を生み出していきます。映画の中の映画。フィルム・ノアール,ミュージカル,演劇の要素にヌーヴェルヴァーグ。いうならば,実験的な錬金術のような作品です。

 

そして,時には観客の世界に入り込んでみたりする。映画という媒体を意図的に用い,境界が曖昧になるものの,即興的な自由さも盛り込まれているため,ノアールでありつつも透明感があります。

 

同じく犯罪カップルを題材にした名作「俺たちに明日はない」(1967年)等と見比べてみると,視点や作風の違いが歴然としていますが,テレンス・マリック監督の「地獄の逃避行」(1973年)の透明度という点では相通じるものがあるかもしれません。

 

「気狂いピエロ」のオープニング・クレジットは,黒のバックグラウンドに赤と緑の文字が浮き上がるグラフィック・デザイン的な導入から始まり,2人の女性の白昼のテニス・シーンへと移ります。主人公の声が重なり,内省的な映画の空気と色調が設定されていきます。ベラスケスの絵画の根底に眠る沈黙の交響曲を呼び起こすモノローグ。

 

昼間のキオスクで,主人公が本を物色しているシーンが続きます。形は絶え間なく融合し,色と重なり合う触感。黄昏色の光と透明な空気で絵を描いた晩年のベラスケス。水面に映るかすかな光が揺らぐ夜のシーンへ。大気へと拡散し,やがて一つになる。

 

そして,室内へ。白いバスルームで,本を引用する主人公が登場します。夜の画家ベラスケスの描いた道化師(ピエロ)。広告業界で干上がった主人公は,お愛想でパーティーに出席するため,夜のパリへ。

 

虚飾の世界が繰り広げられる中,「悪の華」の撮影のために,アメリカからパリを訪れているという設定の映画監督(実在のサミュエル・フラー監督)に出会い,映画とは何かと問います。

 

「映画とは,戦場のようなもの。愛・憎しみ・アクション・バイオレンス,そして,死。すなわち,emotion(感動・感情)だ。」

 

映画「気狂いピエロ」では,サミュエル・フラー監督の定義が,全て体現されていました。

 

主人公は,魅かれ合うものの,結局うまくいかず別れた女性と再会し,2人の逃避行が始まります。女と犯罪。彼女のアパートの日常と非日常。誠実さの微塵もないフェムフェタール。話を聞かない女。最後まで,彼女は主人公をピエロと呼び続けました。会話を持つことができない2人。

 

映画は,ベラスケスの闇と沈黙の雄弁さに始まり,ランボーの詩「永遠」の引用で終わっています。あふれる太陽の光と地中海の海をバックに,

 

見つけた

何を

永遠を……