コンペアー&コントラスト11

ロード・ムービー第六夜。「1959年: その1 ヌーベルヴァーグ」。ロード・ムービーに、影響をあたえた映画の流れは、

 

表現主義: 人間の内面的な葛藤や不安感を、外に投影した映画。第一次世界大戦(1914年)前に、ベルリン(ドイツ)で、生まれる。

フィルム・ノアール: アメリカ(第二次世界大戦~)で作製された、犯罪、探偵もの等、人生の裏面を扱った映画。戦後、フランスで注目され、フランスのフィルム・ノアールが作製された。

ヌーベルヴァーグ(Nouvelle Vague)。新しい波(ニュー・ウェーブ)の意。フレンチ・ニュー・ウェーブとも呼ばれる。1950年代後半に、フランスで起こり、斬新な映像表現、スタジオ作成からの自由さを提唱した。ジャン=リュック・ゴダール監督、フランソワ・トリュフォー監督など。

 

ゴダール監督と、トリュフォー監督の共通点は、映画ファンであったことです。戦後のフランスに、波のように押し寄せたアメリカ映画を、浴びるように観たそうです。そして、映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」の主宰者アンドレ・バザンと出会い、そこで、映画評論を書くようになりました。

 

バザン氏との出会いは、二人の人生に、決定的な意味を与えました。札付きの不良少年だったフランソワと、小悪党に転落しそうな不良青年ジャン=リュック。映画という自己表現の場がなければ、どうなっていたかわかりません。バザン氏は、両監督の父親的存在でした。家族との繋がりが希薄な仲間にとってのファミリー。そして、映画ファン → 映画批評家 → 映画監督の図式が、完成します。

 

感化院を出入りしていたトリュフォー監督は、孤独な少年時代を過ごしました。学校にも行かず、楽しみは映画だけ。映画館に入り浸っていたそうです。その体験をもとにした「大人は判ってくれない」(1959年、モノクロ)で、カンヌ映画祭の監督賞を受賞しました。その後もパーソナルな作品を、作っていきます。

 

同じく、1959年。ゴダール監督の「勝手にしやがれ」が、作製されます。自然光を用いたロケ撮影、同時録音、即興性の重視、ストーリー性の無視、断片的で唐突な編集法(ジャヤンプカット)と、ゴダール監督独特のスタイルが確立します。ゴダール監督も、トリュフォー監督も、苦しい資金繰りを、仲間内でまかない、お互いに助け合っています。「勝手にしやがれ」は、フランソワ・トリュフォー原作です。

 

主人公ミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、ハンフリー・ボガードもどきの小悪党です。刹那的で、勝手気ままな生き方。アメリカ人留学生とのアヴァンチュールと、法からの逃亡が、テンポ良く交差します。全編87分と短めで、モノクロ。ゴダール監督のセンスの良さが光ります。アメリカン・ポップ・カルチャーが、いたるところに鏤められています。

 

ゴダール監督が、高く評価したアメリカのB級映画は、低予算で作製され、本来、長さは、50分以上、70分以下と、決められていました。高予算のA級映画と、二本立てにされる為に、短かった訳です。「勝手にしやがれ」も、低予算で作製されました。

 

1895年の年末に、トーマス・エジソン(アメリカ)の映写機(技術)を使い、リュミェール兄弟(フランス)が、パリで世界初の映画興行をしました。映画における、フランスと、アメリカの駆け引きが、ここでも続いています。

 

そして、映画の歴史は、サイレントから、トーキー。モノクロから、テクニカラー。表現主義(ドイツ)、フィルム・ノアール(アメリカ/フランス)、ネオ・レアリスモ(イタリア)、ヌーベルヴァーグ(フランス)、アヴァンギャルド(ロシア)、そして日本、アジア、世界各地の土地性(ローカル)を生かした、独特のジャンルが生まれ続けます。そして、普遍性(ユニバーサル)が、同時に存在しています。

 

映画ファン(観る側)から、映画監督(作る側)にまわったゴダール監督と、トリュフォー監督。近年では、クエンティン・タランティーノ監督(アメリカ)が、思い浮かびます。中学をドロップアウトして、一日中ビデオで、映画三昧の日々を送っていました。仕事でもしなさいと促され、ビデオのレンタル屋の店員をしつつ、友人と映画を作ったそうです。休日だけに作るので、完成に時間がかかり、見せられるような代物ではなかったと照れますが、映画のプロセスを知る上で、大変貴重な経験だったと語っていました。

 

ビデオ店の店員をしつつ書いた脚本、「トゥルー・ロマンス」と、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」は、それぞれ、1993年、1994年に、映画化されました。どちらも、犯罪カップルのロード・ムービーです。プロダクション・コード(ブログ 2/22参照)の崩壊が、反映されているエンディングです。

 

タランティーノ監督の作品は、ターゲットが、若い青年層ということもあってか、題材が残忍過ぎるせいか、観ていて辛いのですが、同じく映画ファンとして、一目置いています。監督デビューは、サンダンスで評価された自作の脚本、「レザボア・ドッグス」(1991年)。その後、「パルプ・フィクション」(1994年)、「ジャッキー・ブラウン」(1997年)、「キル・ビル」(2003年)等の脚本を書き、監督します。フィルム・ノアールのリバイバルです。(「パルプ・フィクション」〈低級犯罪小説の意〉には、フランス帰りの殺し屋が出てきます。)

 

浴びるように観た映画の断片が、監督というフィルターを通して、作品の至る所で、再び息づいています。分解と再構築。破壊と創造。ゴダール監督の手法でもあります。アメリカの映画館で、タランティーノ監督の作品が上映されると、意外なところで、一部の観客にウケているのに気付きます。昔の映画のパロディーだったり、風刺、内輪ウケ的な世界が笑いを誘います。

 

ゴダール監督の「勝手にしやがれ」の原題は、À bout de souffle、直訳すると、最期の息で(With end of breath)。英語タイトルは、ブレスレス(Breathless)でした。1983年に、同じタイトルで、リメーク(アメリカ版)が作られ、その日本語タイトルは、「ブレスレス」。犯罪逃亡ものという意味で、一種のロード・ムービー的なところもあります。

 

「ブレスレス」(1983年)は、トリュフォーの原作と、ゴダールの脚本をもとに、ジム・マクブライド監督と、LMキット・カーソン(「パリ、テキサス」、1984年)が脚色。今回の舞台は、アメリカ。ラスベガスから、ロスに向かうジェシー(リチャード・ギア)は、今でいうアダルト・チャイルド。お相手役は、UCLAに留学中のフランス人女学生。エンディングで、ジェリー=リー・ルイスの「ブレスレス」を、口ずさみながら、追っ手の前に躍り出るジェシー。刹那的で、無軌道なところは、変わっていません。

 

「勝手にしやがれ」(1959年)は、「恐怖のまわり道」(1945年、フィルム・ノアール)から、インスピレーションを得たと、言われています。婚約者を追って、ニューヨークから、ハリウッドに向かう主人公アル。道中(ネバダ州でのヒッチハイク)、運命のいたずらが……。恐怖のロード・ムービーの原点でもあります。

 

そして、土地性。「勝手にしやがれ」と、「ブレスレス」。夢のカリフォルニアと、憧れのパリ。夢と失望が、潜んでいるという点で、類似しています。

 

2月2日の朝日新聞に、「パリ症候群」に関する記事が、掲載されていました。(翌日の天声人語でも。)日本人が、海外で、最も適応障害を体験するのが、パリ(フランス)だそうです。自分の思い描いていたパリと、現実(異文化での生活)のギャップに適応できない人が多く、20代、30代の女性に多いとか。「こんなはずじゃなかった」、海外に住んでいると、このギャップに、多かれ少なかれ、誰でも遭遇します。なかなか難しいですね。

 

さて、ゴダール氏が、まだカイエ・デュ・シネマの映画評論家だった頃、ジョン・フォード監督に、インタビューしたことがあります。

 

ゴダール氏「どうやって、ハリウッドにいらしたのですか?」

 

フォード監督「汽車で。」

 

メイン州出身のフォード監督。文字通りアメリカ大陸を横断して、ハリウッドにやって来たわけです。これぞ、ロード・ムービー!(もちろん、この質問の趣旨は、何がキッカケで、映画に携わるようになったのですか。)150本近く映画を監督した、ジョン・フォード監督のユーモアのセンスですね。

 

その後、映画を量産していたスタジオ・システムが崩壊、テレビの出現と競争によって、多数の作品を作れる環境が、無くなっていきました。ヌーベルヴァーグは、1968年のカンヌ映画祭粉砕事件で、事実上、分裂、消滅しましたが、ゴダール監督は、今でも現役です。監督89本目の作品を作製中。「映画は、考えるものじゃないよ。感じるものだよ。」その作風は、今でも引き継がれています。

 

第二次世界大戦中、ジョン・フォード監督は、海軍に志願。野戦撮影班を結成し、前線に赴きました。その時のドキュメンタリー作品が、二年にわたって、アカデミー賞を受賞。監督の才能の深さが、よくわかります。ドキュメンタリーは、パワフルな映像の記録です。カメラの視点、臨場感、即時性、即断を迫られる刹那。「今」を撮り続ける、ドキュメンタリー的な手法が、ヌーベルヴァーグ、そして、ロード・ムービーに、引き継がれていきます。

 

今日の写真は、ロード・ムービー第四夜(2/21)、第五夜(2/22)に、登場したガーベラです。ロード・ムービー第三夜(2/20)で使ったガーベラ(オレンジ)と、第一夜(2/17)のチューリップと共に、捨てられていました。 なんだか気になったので、写真を撮ることにしました。

 

今日のテーマは、ヌーベルヴァーグということでしたので、自然光で撮ってみました。ロード・ムービー第四夜、第五夜は、フィルム・ノアールがテーマでしたので、そのようなスタイルを、試してみました。第一夜に登場したチューリップは、曲がって、うなだれていましたので、上から撮影してみました。道の分岐点のような感じが出て、面白いかなと思いました。

 

以前アメリカで、いわゆる問題児の教育に、携わったことがありますが、今日のトピックは、大変重要なことだと思います。ゴダール監督も、トリュフォー監督も、タランティーノ監督も、学校をドロップアウトして、一つ間違えれば、道を踏み外していたかもしれません。映画という自己表現の場があったのは、幸いなことだと感じます。映画に限らず、好きなものが見つかってくれればいい。子供達を指導しつつ、例え、親や、社会から見捨てられても、負けないでと、応援せずにはいられませんでした。

 

次回は、来週の夜を予定しています。また来てくださいね。お会いできるのを楽しみしています!

コンペアー&コントラスト10

ロード・ムービー第五夜。ロード・ムービーに影響を与えた、フィルム・ノアールのお話しを、続けたいと思います。

タンキ「うーん。なんで、こんなに、ロード・ムービーのこと、うだうだ書いてるのかな?」

呂ジック「そりゃ、書きたいからでしょ。本人に聞いてみたら。」

タンキ「うん。そうする。」

タンキは、早速、荷物をまとめて、質問に行くことにする。

呂ジック「はっや~。」

タンキは、クリックの早打ちで、一瞬にして、まりのブログに到着。呂ジックも便乗。

タンキ「すみませ~ん。なんで、ロード・ムービーのテーマで、何夜も続けて、書いているのですか?」

まり「はい?」

沈黙ののち、突然笑い出すまり。タンキと、呂ジックも、つられて笑う。

まり「ああ、ロード・ムービーね。ところで、フィルム・ノアールの定義、考えてみてくれた?」

タンキ「で、なんなの?」

まり「まあまあ、そう急がず……。タンキさんでしたっけ?はは。」

呂ジック「昨夜出てきた辞書の定義では、原産国(フランスorアメリカ)のコンフリクトがあるものの、時代的には、第二次世界大戦後で、内容は、犯罪、探偵もの等、人生の裏面を扱った映画のようですね。」

まり「さすがは……。呂ジックさんでしたっけ?はは。」

タンキ「で、フランスなの、アメリカなの?どっち。」

呂ジック「フィルム・ノアールって、フランス語でしょ。ノアールは、闇、黒だから、ダークな映画。語源から、フランスかな。」

タンキ「えっ、フランスの暗い映画のこと?」

まり「ちょっと、ググってみようか?」

タンキの早業検索のおかげで、早速めぼしいヒットが出る。

タンキ「ふむふむ。1946年のフランスで、映画評論家ニノ・フランク等が、第二次世界大戦中、アメリカで製作された犯罪映画のことを、フィルム・ノアールと呼んだ。『マルタの鷹』、『飾窓の女』など。」

呂ジック「終戦後に始まったわけではないのですね。オリジンは、アメリカなんだ。」

タンキ「それが、フランスのヌーベルヴァーグに、影響を与えた。」

呂ジック「ドイツの表現主義が、アメリカン・ノアールに影響を与え、それがフランスのヌーベルヴァーグに影響を与え、フレンチ・ノアールが作製されたってところかな。」

まり「さすがは呂ジックさん。スルドイ!」

タンキ「アメリカン・ノアールは、低予算で作製された作品(B級映画)が多く、評価が低かったものの、ゴダールなどに再評価される。」

呂ジック「だから、ラフ・スケッチのような作風なのですね。」

まり「ラフ・スケッチの即興性、ダイナミックさ、未完成の美がありますね。」

タンキ「モノクロで、光と影のコントラストを強調。キアロスクーロ等の照明法を使う。キアロスクーロって、なんだ?」

まり「美術用語で、明暗法のことですね。」

タンキ「なんだ。」

呂ジック「犯罪の世界に、視点を置いて作成された。しかし、当時のプロダクション・コードの影響で、悪者は逃げおおせなかった。」

タンキ「悪は滅びる。つまりモラルの曖昧さは無かった。悪者の運命を握るのは、プロダクション・コードだったわけですね。プロダクション・コードって、なんだろ?」

まり「ググってみたら。」

三人でカフェ・ノアールを、飲みつつ、タンキと、呂ジックが、検索を続ける。

タンキ「1934年から1966年迄、ハリウッド映画界を自主規制していた倫理コード。会長ウィル・ヘイズに因み、ヘイズ・コードとも呼ばれた。宗教団体や、政治的な圧力からの保身の為に、アメリカ映画製作者配給者協会(MPPDA)が組織される。プロダクション・コードを遵守しなくては、映画が配給されない。その後、1950年代後半より、当時の社会事情に照らし合わせた作品が、フランス等から登場し、プロダクション・コードは、事実上消滅していく。1968年に、アメリカ映画協会(MPPA)のレーティング・システムに移行した。悪人は必ず罰せられ、キスは三秒以内……。う~ん、時代を感じるな~。」

呂ジック「どうりで、その後、全く違ったタイプの映画が登場するわけだ!偶然じゃなかったのですね。う~、納得。独禁法(1948年)で、スタジオ・システムが崩壊し、1950年代後半のプロダクション・コード消滅と、社会事情が重なり、アメリカン・ニュー・シネマが登場。にゃーるほど!」

タンキ「なに一人で、納得してんの。おっ。」

呂ジック「なんだ?」

タンキ「自主規制とはいえ、検閲的な色合いのプロダクション・コード。そのチェックを出し抜くために、脚本家の力量が試された。それが故に、優れた脚本家を生み出す。」

まり「タンキさん、面白い!ルールとの知恵比べだったのですね。それにしても、クリックの凄腕ですね~。お二人とも、お疲れ様でした。今日は、いい勉強になりましたね。また一緒に、調べてみましょう。さて、最後にもう一つ。」

タンキ「なんですか?」

呂ジック「ロード・ムービーでしょ。」

うなずきながら、

まり「まずは、辞書で調べてみてくれる?」

タンキの素早いクリックが、暗くなり始めた部屋に、こだまする。

タンキ「えっ、なんで~。」

呂ジック「出ない。」

タンキ「国語辞典、英和辞典、英英辞典……。」

呂ジック「英語圏の辞書にも出ない。」

タンキ「百科事典にも出ない。」

呂ジック「だから、書こうと思ったのですか?」

まり「まぁ、そんなところです。……ねぇ、お腹空かない?」

タンキ「すいた~。」

呂ジック「この近くに、フィルム・ノアールという、フレンチ・アメリカンのカフェがありますよ。」

まり「じゃあ、そこにしましょうか。お食事でもしながら、お話ししましょう。」

タンキ「やったぁ~。」

三人は、暗闇の中に消えていった。

 

つづく

 
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参照: 

(1) フィルム・ノアールについて、もっと詳しく知りたい人の為に。歴史、技法、主な作品、分類、近年の作品への影響等、紹介されています。(英語サイト)
http://www.filmsite.org/filmnoir.html

 

(2) プロダクション・コードについて、簡潔にまとめられています。フランク・キャプラ監督の「ある夜の出来事」に与えた影響(ジェリコの壁)、そして、スクリューボール・コメディーとして、作品紹介のリンクもあります。(日本語サイト)
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4989/productioncord.html

コンペアー&コントラスト9

ロード・ムービー第四夜です。今夜と、次回は、ロード・ムービーに影響を与えた、フィルム・ノアールのお話しをしたいと思います。

まずは、皆さんにお願いがあります。フィルム・ノアールの定義を、次回迄に、考えてみてくれませんか。(ご存知の方は、コメント、よろしくお願い致します。)

参考になるか、どうかわかりませんが、「大辞林 第二版」(三省堂)によりますと、

〔暗黒映画の意〕フランス映画のうち、暗黒街を舞台に人生の裏面を自然主義的な手法で冷酷に描いた第二次大戦後の一連の作品。「犯罪河岸」「現金(げんなま)に手を出すな」など。 [(フランス) film noir]

 

英和辞典「英辞郎」(ALC)では、

映画のジャンルの一つ、1940~50年代に多く作られたアメリカ映画で犯罪サスペンスや探偵物が主。

「うーん、これって、どっちなの?」と、唸りたくなりますね。気軽に書き込みしていって下さい。

 

今日の写真は、昨夜に引き続き、ガーベラです。花言葉は、神秘、そして、悲しみ。フィルム・ノアール風に、アレンジしてみました。題して、フィルム・ノアールの誕生。左上から、オリジナル、スケッチと試作(表現主義的?)、最後に、私の思うところのフィルム・ノアールです。

それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト8

ロード・ムービー第三夜です。1930、40年代に、ロード・ムービーの基盤が出来たということを、お話ししましたが、当時は、スタジオ・システム(ハリウッド)の全盛期でした。スタジオ(セット)で、ほとんどの作品が撮影されました。

50年代になると、スタジオ・システムが崩壊し、スタジオの外でも、撮影が行われるようになります。50年代、60年代になると、映画に関する法や規定に、変化が見られ、当時の社会事情と重なり、今迄とは違ったタイプのロード・ムービーが登場し始めました。ロケを使ったロード・ムービー、そして、人間のダークサイド(犯罪や無秩序)に焦点を当てたロード・ムービーが作られます。

また、少し寄り道をします。スタジオ・システムが崩壊する前に、ロケを導入していた監督さんがいます。ジョン・フォード監督です。スケールの大きなロケが、「アイアン・ホース」(1924年、題材は大陸横断鉄道の建設)の為に、敢行されました。監督は、撮影当時、わずか29歳。ほぼ50本目の作品でした。

数年前に、モニュメントバレーに、両親と旅行しましたが、フォード監督が、何故、ロケ地として使ったのか、わかったような気がしました。今でも、文明から遠く離れた所です。赤茶けたサンドストーン。風化した奇岩。刻一刻と変わる夕方の光の中、月面にでも、降り立ったような気がしました。

グランドキャニオンで一夜を過ごし、夕暮れ時に到着した私たちを、案内してくれたのは、親切なナバホ族の青年。「まだ水道もなく、水汲み場迄行かなくてはなりません」と、説明してくれます。舗装されていない道を、土埃を舞い上げながら、四輪駆動で廻ります。住民のご苦労が、偲ばれました。普段は、便利さに慣れている私たちも、その日は、文句を言いませんでした。「ここが、フォード・ポイントです。」夕日の一番美しい場所を、教えてくれました。

俳句の題材の為に、メモを取る母を、せかす事もなく、丁寧に説明してくれた青年。心からお礼を述べ、陽の暖かみが、僅かに残るモニュメントバレーを後にしました。振り向くと、青年がいつ迄も、手を振ってくれています。

街の明かりから遠く離れた、荒野の一本道。周りは漆黒の闇に包まれていきます。行けども、行けども、すれ違う車も無い、星降るハイウエー。車を運転しているというよりは、宇宙を浮遊している錯覚にとらわれます。私たちは、荒野を北に向かいました。(フェイドアウト、つづく)

ジョン・フォード監督は、「アイアン・ホース」で、監督としての地位を確立し、ドイツのベルリンに、映画の製作法の勉強に行きます。1927年のことです。

数日前(2/17ブログ)に、ヴィム・ヴェンダーズ監督(ドイツ)が、ロード・ムービーを、1970年代にジャンルとして確立し、アメリカ映画、特にジョン・フォード監督に、強い影響を受けたと、書きました。そのフォード監督は、ドイツ映画、とりわけ表現主義に、影響を受けていた訳です。ヴェンダーズ監督が魅かれたのは、アメリカ(フォード監督)をいうフィルターを通した、ドイツ芸術の伝統でもあったわけですね。

表現主義(エクスプレショニズム)は、第一次世界大戦前にベルリンで生まれ、人間の内面的な世界に焦点を当てた芸術の手法です。内なる葛藤や不安感を、外に投影したスタイルで、映画のみならず、文学、美術等、芸術全般に、影響を与えました。その後、ドイツ出身の大御所ビリー・ワイルダー監督や、フリッツ・ラング監督が、アメリカに渡り、そのインパクトは、いろいろな分野で見られます。フィルム・ノアールへの影響も、その一つです。(ロード・ムービー的な作品がありますので、次回は、いくつか見てみましょうね。)

さて、最初に触れた、スタジオ・システムについて、少し説明を加えておきましょう。テレビ出現前のハリウッドで、映画の黄金時代を築いたシステムです。制作、配給、興行(劇場チェーン)を支配し、俳優さんから、監督、制作スタッフ迄、専属契約という形で、企業化します。(経済用語で、バーティカル・インテグレーション/垂直統合と呼びます。この場合、生産から販売まで統合。)当時の五大スタジオは、パラマウント、MGM、ワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス、RKO。

ジョン・フォード監督は、ユニバーサルに入社し、後にフォックスに移籍しました。ドイツ人の移民が創立したユニバーサル(1909年)は、低予算作品、B級作品を主に手がけていましたが、1952年に、デッカー・レコードの傘下に入り、A級作品も作るようになりました。

1948年の独占禁止法で、50年代になると、スタジオ・システムは、解体されます。システムは、崩壊されたものの、RKO以外の五大スタジオは、今でも健在です。

今日は、1950年代のスタジオ・システム崩壊と、ジョン・フォード監督のドイツ(表現主義)の影響を、探ってみました。次回も、ロード・ムービー、続けます。気軽に書き込みしていって下さいね。

 

今日の写真はガーベラ。花言葉は、神秘。ヴェンダーズ監督が、ジョン・フォード監督に魅かれ、フォード監督が、モニュメントバレーに魅かれ、その地を訪れてみる。なにか神秘のようなものを感じます。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト7

ロード・ムービーについてのお話しを、続けたいと思います。昨夜は、ロード・ムービー(Road Movies)の特徴と、原点を探ってみました:

ヴィム・ヴェンダーズ監督(ドイツ)が、1970年代にジャンルとして確立
ヴェンダーズ監督は、アメリカ映画と音楽に感化され、ロード・ムービーのルーツとなる
特徴1: 「道」(ロード)、道中(過程/プロセス)に、焦点を当てる (ゴールではない)
特徴2: 社会事情の反映

1930年代より、ロード・ムービーのプロトタイプが現れ始め、中でも、ジョン・フォード監督(一連の西部劇、「怒りの葡萄」)と、フランク・キャプラ監督(「或る夜の出来事」)が、後の作品に、大きな影響を与えました。二人の共通点は、ヒューマニズム(人間主義、人道主義)だと、言われています。アメリカの両極性; ユートピアと、その陰に潜む失望を、対比させています。醜い部分や、矛盾にも目を向けつつ、どこかに希望を潜めているのが、特徴だと思います。

今日は、少し回り道をします。「自転車泥棒」(1948年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)は、イタリアのネオ・レアリスモ(イタリアン・ネオリアリズム)を、代表する作品です。ロード・ムービーではありませんが、その手法は、後のロード・ムービーや、他のジャンルの映画に、影響を与えていると思います。子供の頃、学校で観た映画の一本です。数年前に、「イタリアン・ネオリアリズム」という写真展を手伝ったのですが、「自転車泥棒」の上映会がありました。良い作品です。

この作品は、ロード・ムービーのように、社会事情(戦後イタリアの高失業率、不況)を、あるがままに反映していると、言われています。主人公アントニオは、慢性的に失業中です。やっとのことで、ありついた仕事は、映画のポスター貼り。映画のポスターに描かれたパラダイスと、現実とのコントラスト。アントニオは、シーツを質に入れ、仕事用の自転車を、質屋から請け出します。(このシーンで、いかに経済的に圧迫されているか、わかりました。)

しかし、その自転車が盗まれてしまい、不幸な事情が重なります。一瞬の誘惑。息子ブルーノの前で、ぶざまな姿を晒すアントニオ。子供の時は、ブルーノ少年に感情移入して、ハラハラドキドキでしたが、大人になってからは、アントニオの痛みが、よくわかりました。この映画を観て、何も感じない人はいないでしょう。「怒りの葡萄」に通じるヒューマニズムが見られます。そして、ヒューマニズムのエッセンスは、寛容さだと感じました。どちらの作品も、モノクロの映像が、素晴らしかったです。

多くのネオ・レアリスモの作品は、予算も機材もないような悪条件の中で撮影され、自分の体験した世界を、あるがままに伝えるという手法を使っています。「自転車泥棒」では、出演経験のない一般人を、配役(主人公を含む)しています。全く信じられませんでした。あまりにも、リアルな演技だからです。あれは演技などでは、なかったのかもしれません。

イタリア人のアーティストと仕事をしていると、芸術性、職人的な洗練度、クリエイティブな着眼点に、驚かされます。ネオ・レアリスモの中には、低予算とはいえ、芸術的に素晴らしい作品があります。これらの手法、もしくは、その感覚が、低予算型のロード・ムービーに、引き継がれていきます。

さて、時を遡って、1940年に、アメリカで、「ロード・ピクチャー」(Road Pictures)が誕生します。ボブ・ホープと、ビング・クロスビーの「珍道中」シリーズ(全七本)。映画のタイトルが、「ロード・トゥ」(~への道、Road to)から始まることから、ロード・ピクチャーと呼ばれました。言語的に、ロード・ムービーの前身だと言えるでしょう。

ラジオで既に人気を確立していた、主演のホープと、クロスビー。息の合った漫才コンビの誕生でした。それぞれお抱えのギャグ・ライターを雇い、笑いに関しては、プロでした。二人のお笑いのセンスと、タイミングは絶妙で、台詞にない即興のジョークの応酬の方が、面白かった位だそうです。ギャグ、パロディー、楽屋落ち、クロスビーの劇中歌(数々のヒット曲)と、コメディー型ロード・ムービーのプロトタイプとなります。

当時は、まだ海外旅行が、物珍しかった時代です。行き先は、シンガポール、ザンジバル(タンザニア)、モロッコ、クロンダイク、リオ、バリ、香港。お笑いの二人組みが、エキゾチックな土地を訪問しました。バディ・ムービー(男の連帯感もの)の一種でもあります。弥次喜多道中(男二人の気楽な旅)にも、通じるものがありそうですね。(「東海道中膝栗毛」、十返舎一九作)

終戦後の第一作は、「アラスカ珍道中」(1946年)でした。原題は、Road to Utopia(ユートピアへの道)。シリーズ中、一番面白いとされています。紛らわしいのですが、映画の舞台(ユートピア)は、カナダのクロンダイク(19世紀末のゴールドラッシュで有名)です。アラスカが、アメリカの一州(第49州)になったのは、映画のずっと後、1954年のことでした。(1867年に、ロシアより購入。世紀の大バーゲン。詳しくは、Seward’s Folly参照。)

今日は、1940年代のロード・ピクチャー(珍道中)と、低予算型ロード・ムービーへの影響(ネオ・レアリスモ)を、探ってみました。次回も、続けます。気軽に書き込みしていって下さいね。

 

今日の写真はバード・オブ・パラダイス(極楽鳥花)。平和な時代には、あまり必要を感じませんが、社会事情が困難なときにこそ、必要とされるパラダイス(楽園)や、ユートピア(理想郷)。今の時代は、どうでしょうか。バード・オブ・パラダイスの花言葉は、寛容。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト6

今日は、ロード・ムービーについて、お話ししたいと思います。題して、「旅立ち」。まずは、その特徴と背景を、ざっと見てみましょう。

「ロード・ムービー」(Road Movies)という言葉は、1960年代から使われ始めたそうですが、1970年代に、ドイツのヴィム・ヴェンダーズ監督が、ジャンルとして確立しました。「都会のアリス」(1973年)、「まわり道」(1975年)、「さすらい」(1976年)は、ロード・ムービー三部作と呼ばれています。アメリカのジョン・フォード監督に強く影響を受け、「都会のアリス」は、フォード監督に捧げられています。

ヴェンダーズ監督の思い入れは強く、自社(プロダクション会社)にも、ロード・ムービーと名付けたほどです。アメリカ映画(西部劇と、さすらいもの)と、アメリカの音楽(ブルースなど南部の音楽やロック)に感化され、無意識、意識的なアメリカが、作品に具現化されています。ドイツから見たアメリカ。まさに、外から内を見るという旅の特性と重なります。アメリカを舞台とするロード・ムービーが多いのも、決して偶然ではないでしょう。

旅映画の一部ともとれますが、独特のジャンルを確立していると思います。旅と言わず、「道」(ロード)、つまり道中(過程/プロセス)に、焦点を当てているのが、大きな特徴です。

旅のプロセスでは、いつもと違った環境に身を置くことで、何らかの変化が起きます。旅先で、出会った人々との交流、もしくは、疎外されたり、疎外します。ヨソモノへの偏見と、見知らぬ他人の親切。まだ見ぬ土地への夢と希望、そして不安。期待と幻滅。故郷を捨て、郷愁にとらわれる。旅は多元的な可能性を、秘めています。そして、景色が変わり続ける中、内面的な変化が起こり、自己発見/啓発する機会に巡り合います。人生は、よく旅に例えられますが、ロード・ムービーでは、比喩的、時にはドキュメンタリー・タッチで、観る者も、あたかもそこにいるように、人生の片鱗を見せてくれると思います。

西洋文学の世界では、ホメロスの叙事詩など、人間性を試されるヒーローの旅は、昔から重要なテーマでした。楽園を追われる堕ヒーローの逃避、放浪。冤罪をこうむり余儀なく逃亡する皮肉な宿命。使命を受けた目的のある旅(「ロード・オブ・ザ・リング」)。旅をすること事態(体験)に意味がある自分探しの旅などに、ロード・ムービーの原型を見ることが出来ます。たいてい、未知のものへの好奇心/憧れ(発見/流動)と、属したい願望/自分の居場所(安定/ホーム)が、同時に描かれています。

日本文学でも、旅は重要なテーマです。土佐日記では、紀貫之が女性として、京都への55日間の旅を、仮名で記しました(935年頃)。土佐で亡くなった娘への想いを、中心に綴っています。旅と、書くことは、一種のセラピーだったのかもしれません。ロード・ムービーでも、喪失体験が動機となった旅が、登場することがあります。「奥の細道」に代表される芭蕉の世界も、一種のロードものです。子供の頃に聞いた「桃太郎」や「西遊記」(東洋のロードもの)も。そして、「水戸黄門」は、ロードものの一例だと思います。そう言えば、股旅物というジャンルもありましたよね。

西部劇には、「水戸黄門」や、「七人の侍」(1954年、黒澤明監督)に通じる部分があります。ワケありの旅人(風来坊)が、訪れた町の問題に巻き込まれ、解決に一肌脱ぎ、力を合わせて、問題が解決すると、また旅を続けるという形式です(「シェーン」、1953年、ジョージ・スティーブンス監督)。そして視点を転換した、ならず者、無法者(アウトロー)に代表される、反社会的なモチーフも登場します。このテーマは、ヨーロッパの映画界に、影響を与えました。

流動社会のアメリカを背景にした西部劇では、フロンティアが、開拓者と共に、東から西に移動します。そして、1849年のゴールドラッシュで、一攫千金の夢を胸に、人々がカリフォルニアに殺到しました。

西方への移動は、希望と期待で膨らむものの、旅は苦しく、厳しい現実が待っていました。この流れを引き継いだのは、スタインベック原作の「怒りの葡萄」(1939年、ジョン・フォード監督)です。世界恐慌の結果、貧困と、ダスト・ボールで荒廃したオクラホマを後にした家族が、おんぼろトラックで、カリフォルニアに旅立ちます。当時の社会事情を反映しています。社会の反映は、ロード・ムービーの特徴の一つだと思います。「怒りの葡萄」は、今観ても、良い映画です。ロード・ムービーの原点だと思います。

一般に、古典的ロード・ムービーと呼ばれているのは、「或る夜の出来事」(1934年、フランク・キャプラ監督、クラーク・ゲーブル主演)です。身分や境遇の違う、見知らぬ男女が出会い、便宜上カップルとして、旅を続けるうちに、恋心を抱く「出会い系」(?)ロード・ムービーの名作。今でも、このパターンが、見られます(「ボーン・アイデンティティ」、2002年)。

子供用ロード・ムービーでは、ミュージカル「オズの魔法使い」(1939年、ビクター・フレミング監督、ジュディ・ガーランド主演)が、思い浮かびます。フランク・ボームの童話が原作です。大竜巻で、見知らぬ土地に飛ばされたドロシーと、犬のトト。故郷カンザスに帰る為には、オズの魔法使いに会いに行かなくてはなりません。

三人のお供、かかし、ブリキの人形、ライオンを連れて、旅立ちます。西遊記のように、それぞれのお供が、旅を通して必要なもの(知恵、心、勇気)を、手に入れ、ドロシーは、無事、家(ホーム)に。安心して帰れる場所があったことに気付くドロシー。幸せは、身近にあったという、「幸せの青い鳥」(チルチルとミチル)、「ヘンデルとグレーテル」の世界にも似ています。子供向けロード・ムービーの原点です。このテーマは、よくアニメ(「MARCO 母を訪ねて三千里」、1999年、等)にも再生しますね。

今日は、ロード・ムービーの原点を、まとめてみました。次回も、ロード・ムービー、続けます。気軽に書き込みしていって下さいね。

 

今日の写真はチューリップ。ロード・ムービーでは、ふとした心の触れ合いが、描かれていることがあります。苦しい時こそ、人の優しさが嬉しいものです。チューリップの花言葉は、博愛、思いやり、永遠の愛情。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト5

ハッピー・バレンタイン!チョコレートにちなんだ映画を、いくつか選んでみました。

まずは、「ショコラ」(2000年、ラッセ・ハルストレム監督)から。人間の生き方、幸せを扱った作品で、大人の女性の魅力に溢れている映画です。コメディー・タッチのドラマです。

風の吹くまま、気の向くまま、町々を転々と流れる母娘。ショコラティエ(チョコレート職人)である母ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は、その人にピッタリのチョコレートを当てる名人。マンネリな夫婦関係、ぎくしゃくした人間関係に効くチョコレートも。そう、彼女は、チョコレートという甘美な魔法で、人々の心を癒し、かたくなになった心を開放し、忘れていた幸せな気分を、思い出させてくれる名人。花咲か爺さんならぬ、幸せのショコラティエ。

旅する母娘二人が、因習の残るフランスの田舎町に、やって来るところから、映画がスタートします。町人たちは、徐々に心を開いてくれたのですが、今回は天敵レノ伯がいます。町長さんでもあるレノ伯は、心を閉ざしてしまい、権威を隠れ蓑に、理不尽なルールを押し付けます。 レノ伯の心を、甘く溶かすことができるのでしょうか。偏見との戦い、母娘関係の難しさ、町人(往年の名優さん達が、味のある演技を披露)との触れ合い、そして、同じく流れ者、ルー(ジョニー・デップ)とのロマンス。不協和音と、ハーモニー。

この映画が面白かったのは、人を変えるこということ、自分が変わることということ。チョコレートは、象徴的な変化の触媒です。例えば、自立したヴィアンヌと、対照的な女性ジョゼフィーヌ(リナ・オリン、ラッセ・ハルストレム監督の奥さんですが、この仕事で初顔合わせだそうです)。暴力をふるう夫との関係を、変えることができません。魂の抜けてしまったようなジョゼフィーヌが、生き生きと変わっていくのは素敵でした。無力に見えたジョゼフィーヌですが、追いつめられたヴィアンヌに手を差し伸べます。一方的でない、ヴィアンヌと、ジョゼフィーヌの友情はサイコーでした。持ちつ持たれつです。

さて、ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と、ジョゼフィーヌ(リナ・オリン)の友情ですが、気が付かれた方、いらっしゃいましたか。二人は、「存在の耐えられない軽さ」(1987年、フィリップ・カウフマン監督)で、「ショコラ」の13年前に、女の友情を演じていました。演じる役の立場が、全く逆転しています。自由な芸術家サビーナ(オリン)は、自立した大人の女性です。そして、世間知らずの娘テレーザ(ビノシュ)。こちらの方は、1968年のチェコ事件(ソビエト連邦の軍事介入)という史実を背景に、もっと複雑な関係を描いています。

「ショコラ」のラッセ・ハルストレム監督(スウェーデン)は、私の好きな監督さんの一人です。彼の優しい視線が、難しい題材を、チョコレートのように包みます。チョコレートは、ほろ苦いから、甘さが引き立ちます。人生もそんなところがありますね。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(1985年、喪失体験と愛情)、「ギルバート・グレイプ」(1993年、問題を抱えた家族のあり方、ジョニー・デップ主演、レオナルド・ディカプリオが好演、テキサスでロケ)、「サイダーハウス・ルール」(1999年、ルールの意味/無意味さ、自分の生き方とは)と、良い作品を作り続けています。

「サイダーハウス・ルール」は、アメリカの現代作家の第一人者の一人であるジョン・アーヴィングが、原作、脚本を手がけています。自伝的作品「ガープの世界」(1982年)の原作者でもあります。アーヴィングの世界は、娯楽というには、苦しい(つまり楽しくない)ところもありますが、社会の矛盾から目を逸らさず、自省的な良い作品を書き続けています。

チョコレートを、続けましょう。「ショコラ」の主人公は、中南米人の母を持つという設定になっています。チョコレートの起源を調べると、中央アメリカで、原料のカカオが、4000年位前から使われていたそうです。メキシコのマヤ文明、アステカ文明でも珍重され、1519年のスペイン侵略(コルテス)によって、ヨーロッパに伝えられました。最初はアステカ式に、スパイス(胡椒など)の入った飲み物でしたが、後に砂糖が加えられ、固形の製造法が開発され、今のような形のチョコレートになっていきました。つまり、中央アメリカで生まれ、ヨーロッパで完成されたのです。

チョコレートの起源にちなんで、メキシコの映画を紹介しますね。日本語タイトルは、「赤い薔薇ソースの伝説」ですが、原題はComo agua para chocolate(チョコレートを水のように、女性が男性に思いをよせるといった意味)。テキサスに近い国境の南に位置する牧場に住む末娘ティタ。メキシコの古い風習(末娘は結婚せず、死ぬまで母の世話をする)から、愛するペドロ(「ニューシネマパラダイス」で、トトの青年役をしたマルコ・レオナルディ)と、結婚できません。支配的な気高い母との葛藤と、屈折した家族関係。ティタは、料理をすることで、ペドロへの変わらぬ愛、そして、喜怒哀楽を表現します。中南米の寓話的世界が、現実離れしていると思われるかもしれませんが、この映画では、母娘関係の難しさと、ひとすじの希望が描かれていると思います。

最後に、「夢のチョコレート工場」(1971年、日本劇場未公開)という子供の映画を、紹介しておきますね。原作者は、児童文学で有名なロアルド・ダール。この映画は、アメリカ人なら、誰でも知っているでしょう。学校で観たという人も沢山います。学校中で、主人公チャーリーを、応援したことだと思います。今でも、バレンタインデーに、どこかの学校が上映しているでしょう。

ところで、「夢のチョコレート工場」のリメークが、ポスト・プロダクションに入ったそうです。(今年あたり公開予定。)ティム・バートンの監督で、ジョニー・デップが、チョコレート工場主のウィリー・ウォンカ。期待できそうです。

今日の写真は、ハチのぬいぐるみ。ハート型のアンテナ、黄色と黒の縞々シャツ、半透明の水色の羽と、バレンタイン用のものです。ハートのクッションの真ん中に、薔薇が付いています。赤いバラの花言葉は真実の愛、情熱。(写真をクリックすると、ハートのクッションに、I LOVE YOUと、書いているのが見えますよ。)一人でも、二人でも、素敵なバレンタインデーを、お過ごし下さいね。

次回は、木曜の夜を予定しています。お会いできるのを楽しみしていますね。また来てください。

コンペアー&コントラスト4

今日は、比較文化を少し。題して、ローカル/ユニバーサル(土地性/普遍性)。

例えば、コンピューターのパーツ(集積回路等)は、ユニバーサル。どこに行っても、ほぼ同じです。ローカルなのは、お料理。世界共通の材料を使ったとしても、土地それぞれの料理ができます。例えばラーメン。その土地独特のものがありますよね。スープ、具、麺等。材料、料理法、組み合わせ、プレゼンテーションの工夫ができます。マルコポーロの持ち帰った中華麺が、イタリアのスパゲティの元祖だそうですし、「所変われば品変わる」です。ユニバーサルを目指したマクドナルドでさえ、ローカルメニュー(国それぞれのメニュー)があります。細かく言えば、それぞれの家庭の味もありますよね。

映画の好き嫌いの話しをしている時、一番意見が異なるのが、ユーモア、ジョーク、お笑い、コメディの類。めちゃ面白~いと思っていたことが、おバカに見える人もいることに気付いて、愕然とすることがあります。温度差が激しく、ヘタすると、寒ぅ~くなっちゃう。見ただけで笑えたり、人類共通の普遍的な笑いもありますが、前提になること(ローカル性、内輪/内部事情)を知らないと、理解できないユーモアも沢山あります。わからないジョークは、疎外感を与えてしまいますね。ついていけない。つまらない。おもしろくない……。不思議な世界です。それぞれの人にとって、笑いの意味が違っているからでしょうね。

笑いというものは、説明されて初めてオモシロイというのでは、情けないような気もしますが、わからないものは、わからない。恥も外聞もなく、教えてもらうことにしています。 ナビしてくれる人がいると、ありがたいです。知らない世界を広げるチャンス。映画、文化、そして人間理解の好機でもあります。週末に、「映画でイギリス英語」という講座に出てきました。イギリス流のユーモアを、少しでも理解したいというのが動機でしたが、なかなか面白かったので、そこで学んだことをもとに、お話ししますね。

題材は、「ブリジット・ジョーンズの日記」(英、2001年)。実は、この作品、原作を読んでいれば、映画も観ていたのですが、じっくり説明してもらって、やっとわかった事が沢山ありました。ボロボロ抜けていても、面白かったのですが、ローカル性(背景や文化的意味)を教えてもらって、楽しさ倍増です。

まずは、予備知識。原作は、大爆笑です。映画は原作をかなり割愛してあって、ラブ・コメディーの部分に焦点をあてていますが、チャーミングな作品に仕上がっていると思います。イギリスで愛されているブリジット・ジョーンズを、アメリカ人(しかもヒューストン郊外出身)のレニー・ゼルウィガーが演じると聞き、どうなることやらと思いましたが、なんとピッタリなのです。イギリスでも好評だったとかで、続編が日本で近々公開とのこと。

映画のオープニングは、正月休暇。雪の中、実家に帰省したブリジット・ジョーンズ。親戚等を招いたホーム・パーティ。イギリスで、とってもありそうな設定、日常的な世界の描写だそうです。ターキー・カレーのバイキングが出てくるのですが、クリスマスのご馳走で残った七面鳥のカレーのこと。残り物を、手変え品変え出てきたあとの苦肉の策だそうで、イギリス人なら「またかよぉ~」。ここで、ターキー・カレーの意味が、私の意味と違っていたことに気付きました。おせちに飽きたらカレーというのとも、違っているようです。

アメリカでも、クリスマスのご馳走で残った七面鳥が、いろいろなメニューで再生しますが、カレーは一般的ではありません。もちろん、イギリスゆかりの方のお宅や、ご家庭によって、ターキー・カレーが出てくるかもしれませんが。新年のパーティーに、残り物のターキー・カレーが出るというのも、聞いたことがありませんでした。

個人的には、クリスマスのターキーで、日本式のカレーを作ったことはありますが、とっても美味しかったです。ですから、ターキー・カレーのバイキングと言われても、苦笑どころか、なんで変なのかわかりませんでした。全く違った反応をしていました。(北米で、クリスマスの残り物といえば、フルーツケーキです。ジョークになっています。)

それでも、映画では登場人物の反応を見たり、音楽や照明、言い方で、大体の雰囲気がわかります。文化的背景はわからなくても、ある程度、理解できなければ、観客を限定してしまいます。それから、映画にせよ、広告にせよ、対象になる観客層が想定されます。観客層が狭義に設定されると、一般ウケは難しいでしょう。俗に言うハリウッド系(娯楽大作系)のターゲットは、一般に青年層(若い男性)だそうです。アメリカ映画でも、アートハウス(小劇場)系の中には、いろいろな観客層向けの作品がありますので、オープンマインドで観てみると、面白い作品に出合うことがあります。

「ブリジットの母親は、自分はハイソなつもりですが、実はダサい。」これも、見ていて、なんとなくわかるのですが、説明されてはっきりしました。例えば、ガーキン(gherkin)のピックルスが、高級だと思っています。ガーキンなどと言われても、ピンときませんでしたが、イギリス人なら誰でも知っていて、「は~ん、なるほど!」と、共感できるのでしょう。残念ながら、これはローカル過ぎて、単語(ガーキン)が頭上を素通りしていました。

ガーキンは、ピックルス用の小型きゅうりのこと。う~む、ちょっと待って下さい。まずは、イギリス、日本、アメリカのきゅうりは、同じではありません。アメリカのきゅうりは太くて、水分が多く、ウリに近いような感じがします。ピックルス用の小さなものも売られていて、日本のきゅうりの代用になります。アメリカで売っている英国きゅうりは、スラっと長く、果肉のきめが細かいような気がします。つまり、きゅうりと言えども、国によって、イメージするものが違います。

ガーキン自体は、昔からあったようで、その歴史を調べると、メソポタミアで、今から4500年前に、漬物にされていた記録があるようです。クレオパトラは、ガーキンを食べると、美しくなれると思っていたようですし、シーザーやナポレオンの軍隊の食事に、ガーキンが出たようです。

ちょっと想像してみましょう。アメリカでも、友人の実家を訪れると、「(もう流行ってないけど)特別な」ピックルスをすすめられることがよくあります。日本でも、「(もう流行ってないけど)特別な」お漬物を、うやうやしく出してくれることがあります。状況に平行する例をあてはめれば、少しは理解できそうです。ガーキンのピックルスに言及することで、世代のギャップや、意識のズレのようなものを、感じることが大切なのかもしれませんね。

ローカルなエレメントの中の普遍性。そのあたりが、文化を超えて、共感できる作品になるか、どうかの鍵を握っているようですね。

ブリジットの母親は、めぼしい男性を、娘に引き合わせようとしますが、二人でいるところに割り込んできたり、気が利きません。そのうえ、差別的で、偏見も丸出し。「アウシュビッツのよう」と娘の服装を、ズケズケ批判します。バツイチの弁護士(「高慢と偏見」のダーシー様)を紹介しますが、前妻(日本人)のことを、「残酷な人種の」(日本語字幕には訳されていません)と形容したり、何かと寒ぅぅぅ~~~い。根は悪い人ではないのですが、自覚症状がありません。こんなタイプの人って、イギリスに限らず、どこにでも必ずいますよね。コメディーには、笑えるイヤなタイプが出てきます。のちに、気取って、お高い彼女の変身ぶりが笑えます。

ブリジットは、母親のいいなりに、「カーペットのような」古臭いワンピースに着替えます。バツイチ弁護士も、母にもらったトナカイのセーターを、平気で着ています。(ひょっとして同類?)二人がパーティーで引き合わされて、ブリジットが話しのキッカケと作ろうとします。新年の決意に、節酒、禁煙、そして、新年の決意を守ることと、三つの決意を並べます。が、ぜ~んぜんノッてこない!一人でしゃべっていることに気付いたブリジットが、知らない人に、べらべらしゃべらないことと、苦笑しながら付け加えます。そこで、助け舟を出さないバツイチ弁護士。二人の間の温度が、ぐ~んと下がり、雪の窓の外のように、凍り付きます。アイソ笑いするしかないブリジットが、一人とり残されます。

バツイチ弁護士のリアクション。母に文句を言います。弁護士流(tricolon)に、三つの決意に応酬しつつ、人をバカにしたグサグサ発言。映画の画面から、意地悪なコメントが、本人に聞こえていることがわかります。ぼんやり背景に写ったブリジットが、「このままではいけない」と決意。ほろ苦いけど、誰にでも経験のあるシーン。共感、感情移入のチャンスです。ここで、オープニング・ソングが流れます。コメディーですから、オーバーで、皮肉な選曲に苦笑します。他にも、登場人物の性格描写が、短時間に手際よくできていて、上手いオープニングだと思いました。原作者へレン・フィールディング自身が、脚本も手がけ、プロデュースした作品です。

今回、「ブリジット・ジョーンズの日記」を観て、思い出したのは、「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」(米、2002年)。ギリシャ移民の娘と、英国系アメリカ人のラブ・コメディーです。アメリカで観たのですが、観衆の反応がサイコーでした。いろいろな年齢層にウケていて、気が付くと劇場は笑いの渦でした。観客一同笑える映画って、いいですよね。「ブリジット・ジョーンズ」を、イギリスで観てみると、どうなのか気になるところです。観客の反応の比較文化も、できそうですね。

「マイ・ビッグ・ファット」は、トム・ハンクスの奥さん(女優リタ・ウィルソン)が、ギリシャ系アメリカ人とのことで、思い入れを込めてプロデュースした作品だそうです。主人公を演じるニア・ヴァルドロスの脚本。自分自身の体験をもとに書かれたストーリーは、移民の国アメリカらしい作品なのですが、「ブリジット・ジョーンズ」との共通点が、いくつかあります。オープニングのほろ苦いシーン。そして、「このままではいけない」と奮起。主人公に感情移入しやすく、応援したくなる重要なエピソードです。コメディーは、どこまで感情移入できるかが、勝負のような気がします。

コメディーでは、笑うことしか出来ないような悲惨な設定(大ピンチ)が多く、悲劇と紙一重のことも多々あります。「ブリジット・ジョーンズ」と、「マイ・ビッグ・ファット」では、面白おかしく現状打破が試みられます。悲劇との違いは、状況が可笑しく、結果的に笑えることです。ただ、アホさ/ダメさ加減、そして人迷惑さが、許容範囲を超えていると、ウケないようですね。この辺、観察していきたいと思います。

ローカル/ユニバーサル。一度では書ききれませね。映画で比較文化の観察も、続けていきたいと思います。それから、笑いの温度差も。個人差が激しい分野ですね。ローカル/ユニバーサルは、一つの要因ですが、他にもいろいろなファクターが影響しているようです。

ところで、今日の映画は、バレンタインデーに、おすすめの作品です。どちらも、悪意のないコメディーですので、きっと笑ってもらえると思います。本日の写真は、びわの花。初夏に果実のなる木ですが、花は12月頃から真冬に咲きます。花言葉は治癒。笑いは、心を癒してくれます。皆さんも、大いに笑って下さいね。

今週は忙しいので、次回は、来週の夜を予定しています。また来てくださいね。月曜の夜に、お会いできるのを楽しみしていますね。スマイルでいきましょう!!!

コンペアー&コントラスト3

コンペアー&コントラスト(比較対照)、続けますね。皆さんは、映画でも、テレビでも、本でもいいのですが、同じようなテーマや、登場人物に出合うこと、ありませんか。エンディングが分かっていても、何度聞いても、面白いお話しってありません?今日は、生まれ変わり(再生)というテーマで、書いてみたいと思います。

西洋で、いろいろな形の芸術作品として、蘇生しているテーマを、いくつか拾ってみました。ギリシャ悲劇的、運命の皮肉と苦悩。叙事詩的ヒーローの旅、そして帰郷。

社会的地位のない無名の人々にサポートされ、あらゆる困難や誘惑を乗り越え、人々を救う犠牲と愛。(このテーマは、のちイギリスで、アーサー王伝説としてリバイバル。)何不自由なく育った王子が、世の苦しみを知り、恵まれた生活を捨て、あらゆる困難や誘惑を乗り越え、悟りの境地に達する、等々。聞いたこと、ありませんか。

日本では、どうでしょう。運命に翻弄された弱い立場の人や、薄幸の人に味方し、同情する(判官びいきの)テーマは、よく出てきますね。他にも、思い付きましたでしょうか。

何度でも上演されるお芝居や、ミュージカル、ダンス、コンサート等も、一種の再生するアート・フォームだと思います。いろいろな形態をとり、多様な解釈が可能ですが、根底に流れるエレメントに、共通点を見出すことができます。

今日は、シェイクスピアを少し。シェイクスピアを制覇するのは無理ですので、サワリだけということで。お芝居はもちろん、ミュージカル、バレエ、TV、映画化されています。ざっと調べてみますと、フィルムに残されたものだけでも、600近くの作品がありました。ふぅ~。現代版、前衛版等、時空を超えて、スタイルも多様。いろいろな解釈があります。例えば、黒澤監督の「乱」の舞台は、戦国時代の日本ですが、「リア王」が原作とされています。

シェイクスピア(1564-1616)。イギリスで、俳優を経て劇作家に。悲劇(四大悲劇: 「リア王」、「オセロ」、「マクベス」、「ハムレット」)、喜劇(「真夏の夜の夢」、「ベニスの商人」等)、史劇(「リチャード三世」等)、ソネット等、数多くの名作を残しました。ロミオ、ジュリエット、シャイロック、イアーゴ、デズデモーナ、オーフェリア等々の名前は、今なお健在ですね。

映画では、いろいろな試みがなされています。「ムーラン・ルージュ」のバズ・ラーマン監督(オーストラリア)が、手がけた「ロミオ&ジュリエット」(1996年、レオナルド・ディカプリオ、クレア・デーンズ主演)。視覚的に表現力豊かなラーマン監督。舞台は現代なのですが、セリフは古典のまま。400年たった今なお、言葉のパワーを感じます。

「ハムレット」といえば、ローレンス・オリヴィエ監督・主演の作品(1949年)が有名です。監督として手がけたシェイクスピアの第二作目。前作の「ヘンリー5世」(カラー)に対して、明暗(白黒)の世界で、ハムレットの内面的葛藤(悲劇)を表現しています。

約五十年後に作られた「ハムレット」(1990年)は、今までとは違ったものを目指していたとのことで、メル・ギブソンが主演でした。ケネス・ブラナー監督・主演の「ハムレット」(1996年)は、ビクトリア王朝時代(19世紀)の煌びやかな世界に、タイムワープしています。(注: SFものではありません。シェイクスピアの作品を、精力的に手がけているブラナー監督、注目しています。)いろいろな解釈があるので、ついつい観てしまいます。

面白いアプローチだと思ったのは、ジョン・マッデン監督(イギリス)の「恋に落ちたシェイクスピア」(1998年)。この映画は、書けないスランプに陥った、若き日のシェイクスピア(ジョゼフ・ファインズ)が主人公。ラブ・コメディー。お相手役は、ヴィオラ(グエネス・パルトロウ)。歴史上架空の人物ですが、創作意欲(「ロミオとジュリエット」)を、触発するという設定。

シェイクスピアを知らなくても、充分楽しめるストーリー展開です。知っている人にとっては、トリビアがいっぱいで、二度美味しい。特に、シェイクスピアの次作「十二夜」で、男装のヴィオラが、運命を切り開いていくという含蓄のあるエンディングには、じーんときました。アン・ハサウェー(シェイクスピアの妻)の存在という史実からも、ハッピーエンドじゃないと、最初からわかっています。それなのに観てしまう。良い作品は、結果(エンディング)だけではなく、どうストーリーが展開されるかだと感じました。ままならぬ恋だけど、書くことによって、生き続けるヴィオラ。作家であるシェイクスピア、そして創作活動を続ける芸術家への賛歌だと思いました。

広告の仕事をしていると、俳優さん達と仕事をすることがありますが、共通してやってみたいというのは、シェイクスピア。映画の封切り後、「恋に落ちたシェイクスピア」を、シェイクスピアが見たら、何て言うだろうと、よく話しました。皆さんは、どう思いますか。それぞれの時代のシェイクスピアがあっても、いいのじゃないのかな~と思います。

思えば、読むのを挫折した世界の名作やら、文芸作品を、漫画や、映画で観てから、オリジナルを読んだことが、よくあります。きっかけは、いろいろあっても、いいと思うのですよね。漫画や映画が、イントロでもいい。「恋に落ちたシェイクスピア」を観て、シェイクスピアに興味を持つのもいい。時空を超えて、私たちのDNAに流れる名作の数々。そんな作品に出会えると、幸せだと感じます。

 

今日の写真は、何度か登場したピンクのカサブランカ。時を遡って、蕾が開花し始めた頃のものです。若い頃の写真は、ちょっと恥ずかしい?まぁ、いいですよね。今日のテーマは再生でしたから。

週末は、お休みします。それでは、月曜の夜、お会いできるのを楽しみしています。良い週末を!!!

コンペアー&コントラスト2

コンペアー&コントラスト(比較対照)というシリーズを始めました。今日は、具体例を見てみるということでしたので、「リプリー」(1999年)と、「太陽がいっぱい」(1960年)を、選んでみました。同一の原作を元にして作られた映画です。

原作者は、テキサス生まれのパトリシア・ハイスミス(1921-1995)。ヨーロッパに移り住み、スイスにて死去。1955年に書かれた小説 (サスペンス) で、舞台はイタリア。金持ちの放蕩息子になりすました貧乏青年トム・リプリーの物語です。

「リプリー」。リプリー役のマット・デイモン、放蕩息子役のジュード・ロウと、彼女マージ役のグウィネス・パルトロウ、脇役のケイト・プランシェット。みんな注目の俳優さん達です。まずは豪華なキャストに、目を奪われました。監督さんは、「イングリッシュ・ペイシェント」のアンソニー・ミンゲラ(イギリス人)。(最新作は、「コールドマウンテン」です。)

「太陽がいっぱい」の監督は、ルネ・クレマン(フランス人)。私の好きな監督さんの一人です。美術学校(建築学)出身で、カメラ(撮影)を経験してから監督になり、彼の「禁じられた遊び」(1952年)は、あまりにも有名な作品です。「太陽がいっぱい」も、「禁じられた遊び」も、テーマ曲が効果的に使われ、大変印象的な作品でした。スタイル的には、ドキュメンタリー・タッチの作風から始まり、リアリズムから、「太陽がいっぱい」あたりを境に、商業的な作風に変わりました。ヌーベルバーグ主流のフランスで、商業的な作品は評価されませんでしたが、なおかつ質の高い作品でした。「太陽がいっぱい」は、リプリー役のアラン・ドロンの出世作です。

「リプリー」も、「太陽がいっぱい」も、原作を映画用に、改ざんしています。面白い作品に仕上がっていれば、全く問題はないと考えます。時間制限(二時間位)等を含めて、映画の特性(活字の視聴覚化)を考えると、独自の解釈の必要があるからです。場合によっては、映画と小説は、別物でもいいと考えます。設定、年代、場所は、どちらの作品も、ほぼ同じですが、登場人物の解釈の違いが歴然です。「リプリー」で描かれているのは、苦悩葛藤するリプリーです。一方、「太陽がいっぱい」のリプリーには、迷いがありません。そして、「リプリー」では、マージの主体性がアップデートされ、より現代的な女性になっています。

主人公リプリーは、詐欺師、ペテン師の類でした。このタイプのアナトミーは、スピルバーグ監督の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002年、実話を下敷き)に、詳しく描かれています。主人公フランク(レオナルド・ディカプリオ)と、リプリーとの共通点が、いくつかあります。どちらも、お金がなくて、お金(のある生活)に憧れていました(動機)。年代的にほぼ同じで、アメリカ人ですが、ヨーロッパに渡ります。持ち前の自然な人当たりよさから、人畜無害な好青年に見えます。他人になりすませる位、頭が良く、努力を厭わない。フランクの場合、FBI捜査官(トム・ハンクス)が、父親的な役割を果たしてくれたのですが、リプリーは、憧れていた人に冷たくあしらわれ、全く違った結末を迎えます。

監督自身手がけた「リプリー」の脚本では、ロジックの穴埋めがなされていています。原作にない登場人物を加え、完成度を増しています。一方、「太陽がいっぱい」では、台詞で説明しない箇所を、意図的に残しています。映像の暗示力が絶妙な作品でした。水面に揺れる船の名(マージ)。フェイクか、本物か。光と影の間を行きかう子供達を、アパートの窓越しに見るうつろなリプリー。目的を達成する為の冷徹さ。魚市場で、コミカルともグロテスクとも見える魚を物色するリプリーのイノセンス。「太陽がいっぱい」は、「リプリー」より40年も前に作られた作品ですが、今観ても新鮮です。

広告のレイアウトを作る際、空白の重要性に気付きます。イラストでも、あえて描かないことによって、見る人の想像力が、その絵を完成させることがあります。実は、そんな送り手と、受け手のコミュニケーションというか、信頼のようなものに、美が潜んでいることがあります。「太陽がいっぱい」は、豊かな余白に溢れていました。映画という媒体では、全てを言わない方が、効果的な場合があるのだと感じます。クレマン監督は、何を見せ、何を見せないかの判断が素晴らしく、「太陽がいっぱい」は、今でも十分楽しめると思います。良い作品です。

さて、1950年代のペテン師は、今のテクノロジーに、太刀打ちできません。スマートな現代版トム・リプリーが、全く違った映画で、違った名前で、再生しているのかもしれませんね。「あっ、このタイプ見たことある!」というデ・ジャブ体験、ありませんか。面白いキャラクターの輪廻転生を想像しつつ、映画を観るのも楽しいものです。次回は、生まれ変わり(再生)をテーマに、書いてみたいと思います。もしどこかで、リプリーに会いましたら、よろしくお伝えください。

追記: 原作は、シリーズ化されています。ヴィム・ヴェンダーズ監督の「アメリカの友人」(1977年、デニス・ホッパーがリプリー)は、「リプリーのゲーム」と「贋作」の映画化だそうです。

今日の写真は、黄色のすかしゆり。黄ゆりの花言葉は、真実ではない、喜び楽しみ。本日の映画にピッタリだと思いました。一方、すかしゆりの花言葉は、飾らぬ美、困難に打ち勝つ。同じ花の持つ違った一面ですね。花言葉だけでも、いろいろな解釈ができると感じます。

明日は、お休みします。もう節分ですね。福は~内!それでは、金曜の夜、お会いできるのを楽しみしています。