カウリスマキの世界

約1か月位前のことだ。直ちゃんと一緒に美術館に行った。その帰りに、大学の前の北欧a laフランス風のお店でランチした。桜の咲く前だったが、もうじきバラや春の花で、お店の庭がキレイになると話してくれた。春を待つ北欧といった感じも悪くない。
 
春の予感がする暖かい午後の日差しの中、手作りパンのサンドイッチと美味しいコーヒーで、会話が弾む。その時、映画の話になって、「『かもめ食堂』も北欧(フィンランド)が舞台だったね」と話した。そして、『かもめ食堂』が、カウリスマキ、特に『浮き雲』の流れを汲む映画なのではないか等と話す。ドツボな人生の中の人情というか、ほとんど寅さん的な温かさを感じた。
 
アキ・カウリスマキの作品によく主演女優として登場するカティ・オウティネンは、決して寅さんのマドンナになれるタイプじゃないけど、妹さくらのような心を持つ人。彼女の『マッチ工場の少女』には、ぶっ飛びました。グリム童話的な残酷さとブラックユーモアで、人物描写はスティーブン・キング顔負け。
 
『浮き雲』に話を戻すと、夜遅くレストランで仕事を終えた妻(カティ)を、路面電車の運転手をしていた夫が迎えに行くシーンが印象的だった。二人だけ乗せた路面電車が夜の街を突っ走る。最高に贅沢な時間だと思ったのは私だけだろうか。

オスカー効果 その2

アカデミー賞に『おくりびと』がノミネート(1/23)されて、映画館でリバイバル上映されていたので、このチャンスに観にいこうと決めた。しかしながら、結局、時間がなくて、受賞直後になってしまった。滑り込みセーフで観ようと劇場に駆けつけたが、何とチケットがソールドアウト。仕方なく、『チェンジリング』を観た。チェンジリングは、大変よい映画だったので大満足だったが、やっぱり『おくりびと』も観たい。後日、連日オスカー効果で満席の映画館で観た。
 
こんな満席の映画館って久しぶり。というか、私が普段選ぶ映画がマイナーなのか、恐るべきオスカー効果。データを見てみると、昨年9/13封切りからノミネート直前まで動員数が徐々に減少していたそうだが、ノミネートと同時に上昇気流に乗り、今では上映30週間を越えるロングラン、興行収入は60億円を超え、DVDがリリースになった今でも各地で上映されているとのこと。これってどう考えても凄いよ。どのようなキッカケにせよ、いい映画を多くの人が観ることが出来たわけだ。
 
また、『おくりびと』が、西洋(アメリカ)で受け入れられたというのは大いに納得できる。適度にローカル(美しい日本の自然と文化)であり、ユニバーサル(主人公の挫折や痛みを、ユーモアと人の温かさを織り交ぜながら描いている作品)だから。つまり共感できる部分をあわせ持ちながら、同時に知らない世界を見せてくれる映画だ。
 
そして、飾り気のない誠実さや真摯さで、主人公は職業への偏見(先入観)を覆していくところも。以前、ブログに書いて気付いたのだが、思うに、偏見(先入観)を覆すというテーマは、アメリカの映画にとって大変重要なエレメントだ。また、尊厳をもって行う別れの儀式は、closureとして心理的に大切な意味を持つ。生きるということを知るためには、決して「死」を避けて通ることができない。どう死ぬかということは、どう生きるかということでもある。それは、きっと、どの国、どの文化にも共通するものだと思う。

オスカー効果 その1

最近では、もっぱら気楽なレンタルDVDで映画を楽しんでいるが、時々は大きなスクリーンで観たい。せっかく観るのなら、いい映画を観たい。そこで、大いに口コミを参考にしているが、オスカー等いくつかの賞は、とりあえずチェックしている。ノミネートされなければ見落としていたに違いない映画の中に、とても面白い作品があるからだ。
 
例えば、『ラースと、その彼女』。シノプシスを読んで、幾つもの「?」が頭の中に浮かんだ。これは、「パスだな」と思ったが、「そう言えば、2008年のアカデミー賞脚本賞にノミネートされていたっけ」と、思い直した。一体全体、どうやってこんな救いようのない前提(失礼!)の映画が、ヘッドターナーなわけ?そう考え始めると、もう自分で確かめるしかない。映画館に出向いて、約100分後、100%納得していた。優しさと希望と勇気に満ちた脚本だ。あるがままにラースを受け入れ、彼の成長を見守る周りの人々の温かさが素晴らしい。一歩間違えればグロテスクな作品になっていたことだろう。
 
『ラース…』と比較対照できそうな映画として『ポビーとディンガン』を思い出したが、『ポビー…』のケリーアンを病気にしたのは、彼女の気持ちを理解できなかった周りの人々だった。まちの人々がラースを追い詰めていたら、悲劇かホラーになっていただろう。ラースの奇行を見守り、自分から卒業していく姿を見届けたのも周りの人々だった。そこにないもの(目に見えないもの)を信じるこという点で、少女の空想と、夢(オパールの発掘)を追う大人は、それほど違わない。しかしながら、少女や少年の空想はまだしも大人(ラース)がやると……。そう、本来なら問題であったはずだ。
 
『すべての些細な事柄』(1996、仏)というドキュメンタリーの中に、社会に追い詰められた人間が、また、社会によって癒されるという印象深い患者の言葉があったが、『ポビー…』が前者の例だとすると、『ラース…』は紛れもなく後者の例だと言える。
 
『ラース…』と『ポビー…』にclosure(精神的な区切りの儀式)として登場した「お葬式」だが、次は『おくりびと』について書いてみようと思う。(続く)

子ども向けの映画から2

With An Exclamation Mark!
オリバー・ツイスト (映画3本とTV番組に原作)

ディケンズ(1812-70年)の名作「オリバー・ツイスト」は,約170年前に書かれた小説ですが,繰り返し演劇化され,映画やTVの題材として,少なくとも20回以上採りあげられています。ディケンズの初期の作品として,後に書かれた自伝的「デヴィッド・コパフィールド」の幼年時代と重なる部分もあると思います。ディケンズの登場人物の描写は人情味に溢れ,日本の寅さん映画のように庶民的で,長年人々に親しまれてきた作品です。

「オリバー・ツイスト」は,子どもが主人公で,逆境にも負けず健気に生きるオリバーを取り巻く,ちょっと胡散臭い仲間たち。明らかに悪い人も登場しますが,社会的な地位の有無に関係なく,いい人もいれば,悪いひともいる。本来であれば人助けする立場にある人から無情な仕打ちを受けたり,思わぬ人からよくしてもらったり,当時の人々の様子が生き生きと描かれています。

最近では,ロマン・ポランスキー監督の「オリバー・ツイスト」(2005年)が,記憶に新しいところですが,監督自ら思い入れの深い作品とのことで,巨額の制作費が投じられ,当時のロンドンが再現されています。この映画は,第二次世界大戦下,ポーランドの強制収容所に収容され,家族と離れ離れになった監督の子ども時代の辛い経験が重ねられ,サバイバルのストーリーとして解釈されていると思います。子どもの映画というよりは,大人の回顧的な作品という印象を受けました。

劣悪な環境の中で育ったにもかかわらず,オリバーは悪に染まることなく,最終的には幸せが訪れる原作では,オリバーの本当の素性が明かされますが,ポランスキー版では,あえて棚ボタ的な素性の部分(他力本願)には触れられていません。スリの親玉フェイギンへの哀れみ,そして,例え世間から悪い人と見なされても,自分にはよくしてくれた人がいたことの自覚と感謝の気持ちが込められているところが,パーソナルな部分なのではないのかと察します。監督にとって,きっとそんな人がいたのでしょう。

デヴィッド・リーン監督の「オリバー・ツイスト」(1947年)は,原作に近い映画だと思います。セット等も,もっとシンプルなアプローチですし,映画が製作された当時の技術的制限がありますが,モノクロのカメラワークは美しく,古典的な作品です。

映画で2時間位に納めなくてはならない映画では,どうしても描ききれない部分を,4話のミニシリーズにしたTV「オリバー・ツイスト」(1999年,英国)では,本来の感情の起伏を丁寧に掘り下げています。笑いあり,涙あり。子どもと見るのにも適した作品だと思います。

ちょっと異色なところでは,ミュージカル仕立ての「オリバー!」(1968年)があります。キャロル・リード監督の晩年の作品ですが,豪華なプロダクション,職人芸的な技を駆使した丁寧な映画づくり・脚色が見事で,何と言っても,登場人物が魅力的です。天使のようなオリバーは愛らしく,抜け目ないドジャーとの友情,なぜか憎めないフェイギン,そして,ビル・サイクスがワルだと知りつつ別れられないナンシーの母性の目覚め……。もちろん,ビルの愛犬ブルズアイ(ターゲットの的中の意)も重要な役割を果たします。

知り尽くされたお話でも,どのように語り続けることができるのかというリーテリング(retelling,お話の再生)が,いつまでも愛される名作の秘訣だと思います。歌と話の筋が途切れなく融合し,ストーリーを歌と踊りで伝える「オリバー!」。どうしようもない状況さえユーモアでもって見守り,ハラハラドキドキの中に明るさと前向きな姿勢が感じられます。形は違えども,原作の本質を巧みに捉えた映画だと思います。

冒頭の救貧院(孤児院)のひもじい様子を,皮肉とユーモアを込めて歌った“すばらしい食べ物”(Food, Glorious Food)。お役人的なバンブル氏との駆け引き“オリバー!”(Oliver!)。くじ引きで孤児を代表して,9歳になったオリバーが,おかわりを要求したがため,雪の中,葬儀屋に奉公に出される“この子売ります” (Boy for Sale) 。一人寂しく“愛はどこにあるの”(Where Is Love)を唄う可哀想なオリバーの運命はいかに!

葬儀屋の先輩ノア・クレイプールに母親のことを侮辱されて大喧嘩し,ロンドンに向かう決意をしたオリバー。誰も知らない街で,スリのドジャーとの出会いは,“気楽にやれよ”(Consider Yourself…)と,即座に友情が生まれ,親玉フェイギンに紹介されます。フェイギンの率いる子ども達とナンシーの“ぼくは何でもする”(I’d Do Anything)は,かぼちゃの馬車ならぬ楽しい振り付けにワクワクしました。

そして,スリ事件に裁判。絶体絶命かと思いきや,ブラウンロー氏の好意で,裕福な家庭に引き取られたオリバー。初めて訪れた幸せな朝を歌った“買ってくださいな”(Who Will Buy)。子どもらしい発見をちりばめた夢のような朝。赤い薔薇に,甘いイチゴ,ミルクでも何でも買える余裕のある生活。子どもが食べ物の心配なんてする必要のない生活。もちろん長続きはせず,ビル・サイクスの魔手が……。

絶体絶命のオリバーを救おうと勇気と知恵を絞るナンシーの偽装作戦“ウン・パッ・パッ”(Oom-Pah-Pah)。ズン・チャッ・チャ,ズン・チャッ・チャ~と3拍子で,ドイツの歌うホールのようにワルツが始まります。酒場の客を呑み込んで,ウンパッパ・ルンパーは,ナンシーの一世一代の名演技です。大ピンチなのですが,“愛はどこにあるの”と蚊の鳴くような声で歌ったオリバーに,今では心強い味方がいるのですよね。涙

感嘆符付きのオリバーは,ハラハラドキドキしながらも,最後には「ああよかったね」と安心できるファミリー向けの映画だと思います。Enjoy!

子ども向けの映画から1

“Charlie and the Chocolate Factory”
チャーリーとチョコレート工場 (映画2本と原作)

正直言って,映画「チャーリーとチョコレート工場」(2005年)について書くのは気が重く,2005年のバレンタインデーに予告したものの,ついつい先送りになっていました。実に1年半ぶりです!

ティム・バートン,大好きな監督です。この映画に限らず独自のイマジネーションが素晴らしい。ウィリー・ウォンカ氏のトラウマ(子どもの頃の父親との関係)と和解が加えられていますが,原作を忠実に再現しているのには驚かされました。細部にわたる視覚化も,ティム・バートン監督ならではです。ガラスのエレベーターなんて凄い!

それでは,なぜ気が重いのでしょうか。私なりに考えてみました。決して悪い映画ではないのですが,何かがしっくりこない。ロアルド・ダール氏の原作「チョコレート工場の秘密」(1964年作,原題の直訳は「チャーリーとチョコレート工場」)は,読んでいてページをめくるのが待ち遠しいほど楽しかったです。

2本の映画を見比べてみますと,34年間の技術的な進歩は歴然としていますが,どちらも,原作の書かれた60年代の雰囲気を漂わせているという点は共通しています。「夢のチョコレート工場」の方はミュージカル仕立てで,「オズの魔法使い」に登場するマンチキン風です。童話の舞台はイギリスですが,ミュンヘンで撮影されたそうです。

先に映画化された「夢のチョコレート工場」(1971年)の原題を直訳しますと,「ウィリー・ウォンカとチョコレート工場」で,こちらの方は,タイトルだけ見ても原作とは,意図的に違った解釈の部分もあります。書き換えられた部分は,映画としては,ずっと流れがよくなり,全体的にうまい脚本だと思います。

例えば,父親のいないチャーリーという設定にし,新聞配達をして家計を助けていますが,貧乏であるということより,素直で子どもらしいところが強調されているのには好感が持てます。つまり,単純に,チャーリー=「いい子」,他の子どもたち=「悪い子」と分別していないところに,ほっとしました。ジョーじいちゃんと一緒に,フワフワ飲料を勝手に飲んでしまったり,チャーリーも失敗するところが,現実的(人間的)で自然な感じでした。

拾ったお金についてですが,「夢のチョコレート工場」では,排水溝にゴミと混ざって落ちていた銀貨を見つけたという設定になっていました。原作の方では,父親が失業して貧乏さが増した描写が続き,やせ細ったチャーリーが雪の中で見つけた銀貨(「天からの贈り物」)。「チャーリーとチョコレート工場」のチャーリーも,同じような窮地に追い込まれていましたが,こんな「いい子」が,お金(お札)をちゃっかりネコババするなんて。ちょっと信じられません。(いい子過ぎると期待が重くなりますね。)
 
そうなんですよ。「チャーリーとチョコレート工場」(2005年)は,健気なチャーリーを演じたフレディ・ハイモアも,ウォンカさんを演じたジョニー・デップも好きですし,原作に大変誠実なのですが,何かしっくりこない。思うに,この映画では,チャーリー(子ども)とウォンカさん(おとな)の立場が逆転しているからではないのでしょうか。子どもは子どもらしくあって欲しいと思いますし,子どもなのに,おとなの役割を担うのはかわいそうと,ついつい心配してしまいました。

ところで,日本語のタイトル「夢のチョコレート工場」は絶妙です。どんな「子どもにも夢が必要だ」というジョーじいちゃんの言葉と重なります。ジーン・ワイルダーのウォンカさんは,登場のシーンから笑えましたし,肩の力が抜けた「夢のチョコレート工場」には,映画的な夢が沢山ありました。

比較対照 第7夜 ワルキューレとジムノペディ

映画とクラシック音楽と言えば,キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」(1968年)の『ツァラトゥストラはかく語りき』(R. シュトラウス)や,フランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」(1972年)の『ワルキューレの騎行』(ワーグナー,「ニーベルングの指輪」より)が,まずは思い浮かびます。

「地獄の黙示録」の中では,士気を高めるため大音量のワルキューレが流れる中,海からヘリコプターの一団が襲来しました。ベトナムでサーフィンをするため,波の具合で戦闘の指揮を執るキルゴア中佐(ロバート・デュヴァル)。「ネパームの匂いがたまらんぜ」と言う中佐の突撃テーマソングのように用いられています。

本来,北欧神話に基づくワルキューレは,瀕死の英雄の前に現れる戦の女神たちで,天馬にまたがり勇壮に登場するとされています。そのイメージと,波頭に現れるヘリコプター軍団とが重なり,ベトナムの朝の静けさから一転し,大音量で流れる『ワルキューレの騎行』は鮮烈でした。キルゴア中佐の日和見主義は,カーツ大佐(マーロン・ブランド)の狂気や,ウィラード大佐(マーティン・シーン)の内面的な闇とは対照的な明るさがありますが,やはり戦争の異常さを象徴していると思います。

黙示録のこのシーンは,最近では,「ジャーヘッド」の中でも,戦闘意欲を高めるために用いられ,映画の一部を曲解した逆説的なシーンなのですが,この映画上映会の最中に,兵士たちの湾岸戦争行きが決まります。また,勝つ見込みのない戦に,最後まで寄り添うワルキューレのイメージは,「シン・シティ」にも登場しています。

「ライディング・ジャイアンツ」(2004年)は,サーフィンをテーマにしたドキュメンタリー映画ですが,透きとおる空と重なる大きな波を淡々とサーフするシーンでは,全ての音を止め,サティのジムノペディ(第1番)だけが流れていました。波の音も聞こえない。呼吸と一つになるジムノペディ。波に乗る人の集中力とは,こんな感じなのだろうかと想像します。

(サーフィン その2)

比較対照 第6夜 「ヘヴン」

ヘヴン in トリノ

 

トリノ冬季オリンピック(210日~26日)の開催間近となりましたので,イタリアはトリノ(英語表記Turin)を舞台にした映画はいかがでしょう。1年ぶりに,比較対照のカテゴリを再開します。

 

アルプス山脈を隔ててフランス国境に近接する,イタリア北西部トリノに行ってみることにしましょう。トリノはイタリア映画産業発祥の地とされ,毎年11月にはトリノ国際映画祭が開催されています。トリノが舞台の作品や,ロケ地として使われた映画は結構あるのですが,「ヘヴン」(2002年,トム・ティクヴァ監督)を選んでみました。

 

まずは,「ヘヴン」の脚本から。ポーランド出身のクシシュトフ・キエシロフスキー監督の遺稿「天国・地獄・煉獄」(直訳)三部作から,天国の部分の映画化です。

 

キエシロフスキー監督は,トリコロール三部作(199394年)等で,何らかの接点も持ちつつ,幾つかの物語が並行するスタイルの映画を得意としていました。このポリフォニー的スタイルでは,ポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」(1999年)や,メキシコのアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の「アモーレス・ぺロス」(1999年),「21グラム」(2003年)が思い浮かびます。

 

イニャリトゥ監督の2作品では,幾つかの人生が,交通事故という共通の接点に重ねられていきます。今年のアカデミー賞にノミネートされているポール・ハギス監督・脚本の「クラッシュ」と,これ等の作品を比較対照してみると面白いかもしれませんね。

 

ソダーバーグ監督の「トラフィック」(2000年)の下敷きになったTV映画「トラフィック!ザ・シリーズ」(1989年,英国)も同じく,共通接点のある複数のストーリーが,イギリス,ドイツ,パキスタンで同時進行するといったものでした。麻薬犯罪という重いテーマを,流通(生産地からユーザーまで)の各段階で起きる社会問題(貧困,若者の中毒など)と,個人の問題を,複眼的視点から真摯に掘り下げた作品でした。ソダーバーグ監督版は,メキシコ国境,オハイオ,首都ワシントンDCと,舞台をアメリカ大陸に移しています。

 

「ヘヴン」では,イタリアで英語を教えるイギリス人の女性(ケイト・ブランシェット)は,長年,警察(憲兵)に,麻薬の取り締まりを陳情しているにもかかわらず,麻薬中毒に夫と生徒を失ってしまいます。映画では,夫と同級生だった麻薬ディーラーに,復讐を企てるところから始まります。しかしながら,運命のいたずらで,ディーラーは難を逃れ,罪のない親子連れと,年配の清掃係の女性が巻き込まれてしまいます。どうしようもない行き詰まりから映画は始まります。

 

行き詰まりの展開では,トム・ティクヴァ監督(脚本・音楽も)は既に「ラン・ローラ・ラン」(1998年)で,映画の特性を上手く生かしたテンションの高い作品を創作していましたが,「ヘヴン」では,ティクヴァ監督の全く違った力量を見ることができて面白かったです。

 

「ラン・ローラ・ラン」では,麻薬の取引に巻き込まれた絶体絶命の恋人を救うため,主人公ローラ(フランカ・ポテンテ)が,主要な鍵を握る20分間を3度生きることになります。3つの可能性のシナリオが,MVばかりのアップテンポで展開し,フランカ・ポテンテの持ち味を生かした作品でした。

 

「ヘヴン」では,クシシュトフ・キエシロフスキーの脚本ということで,もっと現実的な展開を見せますが,適度の緊張感が作品全体的に保たれています。重いテーマをよどみなく見せるところはティクヴァ節。上映時間81分の「ラン・ローラ・ラン」,96分の「ヘヴン」と,2時間を越える映画が多い中,タイトな作品作りには無駄がありません。音楽家でもあるティクヴァ監督は,テンポのコントロールが大変上手い。また,「ヘヴン」でも,個性的な女優(ケイト・ブランシェット)の魅力を上手く発揮していると思います。

 

この映画が,通例の犯罪カップルのロード・ムービーと違うのは,「俺たちに明日はない」(1968年)のボニーとクライドのようなモラルの欠如,「トゥルー・ロマンス」(1993年,タランティーノ脚本)のような無意味なバイオレンスとは,一線を画する作品であることです。

 

「ヘヴン」では,主人公に恋心を抱く通訳担当の青年(ジョヴァンニ・リビシ)の協力を得て,初夏のトリノからトスカーナ地方への逃避と展開します。この内気な青年の家族の愛情が素晴らしく,主人公に英語を教えてもらっていた弟,そして,この女性を愛することが,息子の人生にとってどれほど重要なことか理解した父親。警察官である父の立場を考えると,大変勇気のいることです。

 

「トゥルー・ロマンス」でも,主人公(クリスチャン・スレーター)の警察官である父親(デニス・ホッパー)が,同じように,息子の選択を受け入れますが,エンディングは全く違ったものになっています。因果応報から逸脱している(犯罪を逃れてメキシコに逃げおおせる)点で,北米の大学レベルの講義などで,ディベートの題材として用いられてきました。

 

比較対照できる作品として,「25時」(2002年,スパイク・リー監督)を挙げておきましょう。主人公(エドワード・ノートン)と幼馴染み(フィリップ・シーモア・ホフマン,バリー・ペッパー)の性格描写,父親(ブライアン・コックス)の息子への愛情が素晴らしい映画でした。祈りのような父の愛が,スクリーン上で結晶と化した詩的なロード・ムービーとしては,最高の作品だと思いますし,主人公が逃げないという点で,大変真摯なエンディングになっていると思います。

 

「ヘヴン」のエンディングにも,賛否両論があります。主人公は自分の行いを自覚していますし,2人にモラルの曖昧さがありません。そのあたりを明確にしたエンディング,もしくは,クシシュトフ・キエシロフスキーが監督していれば,全く違ったものになっていたと言われています。しかしながら,場合によっては最後まで言う必要はないと思います。見る人に判断を委ねるティクヴァ監督らしい詩的なエンディングです。

 

この手の詩的エンディングでは,「シャドウ・オブ・ウルフ」(1993年,イブ・テリオー原作)が思い浮かびます。カナダのイヌイット(エスキモー)と,文明社会との軋轢と葛藤が描かれていますが,イヌイットの族長(三船敏郎)が選んだ結末は,全てをはっきり言わないことによって,かえって余韻が残りました。どちらの作品も,視覚的に表現することができる映画の特性を,うまく生かしていると思います。

 

トム・ティクヴァ監督は,ここ数年注目している監督の1人で,ドイツ出身,1965年生まれです。「ヘヴン」の中の挿入曲(ピアノ,チェロ)も手がけていて,マルチ・タレントな監督さんですね。今後の活躍を楽しみにしています。

 

トリノで見つけた小さな天国です。

コンペアー&コントラスト5

ハッピー・バレンタイン!チョコレートにちなんだ映画を、いくつか選んでみました。

まずは、「ショコラ」(2000年、ラッセ・ハルストレム監督)から。人間の生き方、幸せを扱った作品で、大人の女性の魅力に溢れている映画です。コメディー・タッチのドラマです。

風の吹くまま、気の向くまま、町々を転々と流れる母娘。ショコラティエ(チョコレート職人)である母ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は、その人にピッタリのチョコレートを当てる名人。マンネリな夫婦関係、ぎくしゃくした人間関係に効くチョコレートも。そう、彼女は、チョコレートという甘美な魔法で、人々の心を癒し、かたくなになった心を開放し、忘れていた幸せな気分を、思い出させてくれる名人。花咲か爺さんならぬ、幸せのショコラティエ。

旅する母娘二人が、因習の残るフランスの田舎町に、やって来るところから、映画がスタートします。町人たちは、徐々に心を開いてくれたのですが、今回は天敵レノ伯がいます。町長さんでもあるレノ伯は、心を閉ざしてしまい、権威を隠れ蓑に、理不尽なルールを押し付けます。 レノ伯の心を、甘く溶かすことができるのでしょうか。偏見との戦い、母娘関係の難しさ、町人(往年の名優さん達が、味のある演技を披露)との触れ合い、そして、同じく流れ者、ルー(ジョニー・デップ)とのロマンス。不協和音と、ハーモニー。

この映画が面白かったのは、人を変えるこということ、自分が変わることということ。チョコレートは、象徴的な変化の触媒です。例えば、自立したヴィアンヌと、対照的な女性ジョゼフィーヌ(リナ・オリン、ラッセ・ハルストレム監督の奥さんですが、この仕事で初顔合わせだそうです)。暴力をふるう夫との関係を、変えることができません。魂の抜けてしまったようなジョゼフィーヌが、生き生きと変わっていくのは素敵でした。無力に見えたジョゼフィーヌですが、追いつめられたヴィアンヌに手を差し伸べます。一方的でない、ヴィアンヌと、ジョゼフィーヌの友情はサイコーでした。持ちつ持たれつです。

さて、ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と、ジョゼフィーヌ(リナ・オリン)の友情ですが、気が付かれた方、いらっしゃいましたか。二人は、「存在の耐えられない軽さ」(1987年、フィリップ・カウフマン監督)で、「ショコラ」の13年前に、女の友情を演じていました。演じる役の立場が、全く逆転しています。自由な芸術家サビーナ(オリン)は、自立した大人の女性です。そして、世間知らずの娘テレーザ(ビノシュ)。こちらの方は、1968年のチェコ事件(ソビエト連邦の軍事介入)という史実を背景に、もっと複雑な関係を描いています。

「ショコラ」のラッセ・ハルストレム監督(スウェーデン)は、私の好きな監督さんの一人です。彼の優しい視線が、難しい題材を、チョコレートのように包みます。チョコレートは、ほろ苦いから、甘さが引き立ちます。人生もそんなところがありますね。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(1985年、喪失体験と愛情)、「ギルバート・グレイプ」(1993年、問題を抱えた家族のあり方、ジョニー・デップ主演、レオナルド・ディカプリオが好演、テキサスでロケ)、「サイダーハウス・ルール」(1999年、ルールの意味/無意味さ、自分の生き方とは)と、良い作品を作り続けています。

「サイダーハウス・ルール」は、アメリカの現代作家の第一人者の一人であるジョン・アーヴィングが、原作、脚本を手がけています。自伝的作品「ガープの世界」(1982年)の原作者でもあります。アーヴィングの世界は、娯楽というには、苦しい(つまり楽しくない)ところもありますが、社会の矛盾から目を逸らさず、自省的な良い作品を書き続けています。

チョコレートを、続けましょう。「ショコラ」の主人公は、中南米人の母を持つという設定になっています。チョコレートの起源を調べると、中央アメリカで、原料のカカオが、4000年位前から使われていたそうです。メキシコのマヤ文明、アステカ文明でも珍重され、1519年のスペイン侵略(コルテス)によって、ヨーロッパに伝えられました。最初はアステカ式に、スパイス(胡椒など)の入った飲み物でしたが、後に砂糖が加えられ、固形の製造法が開発され、今のような形のチョコレートになっていきました。つまり、中央アメリカで生まれ、ヨーロッパで完成されたのです。

チョコレートの起源にちなんで、メキシコの映画を紹介しますね。日本語タイトルは、「赤い薔薇ソースの伝説」ですが、原題はComo agua para chocolate(チョコレートを水のように、女性が男性に思いをよせるといった意味)。テキサスに近い国境の南に位置する牧場に住む末娘ティタ。メキシコの古い風習(末娘は結婚せず、死ぬまで母の世話をする)から、愛するペドロ(「ニューシネマパラダイス」で、トトの青年役をしたマルコ・レオナルディ)と、結婚できません。支配的な気高い母との葛藤と、屈折した家族関係。ティタは、料理をすることで、ペドロへの変わらぬ愛、そして、喜怒哀楽を表現します。中南米の寓話的世界が、現実離れしていると思われるかもしれませんが、この映画では、母娘関係の難しさと、ひとすじの希望が描かれていると思います。

最後に、「夢のチョコレート工場」(1971年、日本劇場未公開)という子供の映画を、紹介しておきますね。原作者は、児童文学で有名なロアルド・ダール。この映画は、アメリカ人なら、誰でも知っているでしょう。学校で観たという人も沢山います。学校中で、主人公チャーリーを、応援したことだと思います。今でも、バレンタインデーに、どこかの学校が上映しているでしょう。

ところで、「夢のチョコレート工場」のリメークが、ポスト・プロダクションに入ったそうです。(今年あたり公開予定。)ティム・バートンの監督で、ジョニー・デップが、チョコレート工場主のウィリー・ウォンカ。期待できそうです。

今日の写真は、ハチのぬいぐるみ。ハート型のアンテナ、黄色と黒の縞々シャツ、半透明の水色の羽と、バレンタイン用のものです。ハートのクッションの真ん中に、薔薇が付いています。赤いバラの花言葉は真実の愛、情熱。(写真をクリックすると、ハートのクッションに、I LOVE YOUと、書いているのが見えますよ。)一人でも、二人でも、素敵なバレンタインデーを、お過ごし下さいね。

次回は、木曜の夜を予定しています。お会いできるのを楽しみしていますね。また来てください。

コンペアー&コントラスト3

コンペアー&コントラスト(比較対照)、続けますね。皆さんは、映画でも、テレビでも、本でもいいのですが、同じようなテーマや、登場人物に出合うこと、ありませんか。エンディングが分かっていても、何度聞いても、面白いお話しってありません?今日は、生まれ変わり(再生)というテーマで、書いてみたいと思います。

西洋で、いろいろな形の芸術作品として、蘇生しているテーマを、いくつか拾ってみました。ギリシャ悲劇的、運命の皮肉と苦悩。叙事詩的ヒーローの旅、そして帰郷。

社会的地位のない無名の人々にサポートされ、あらゆる困難や誘惑を乗り越え、人々を救う犠牲と愛。(このテーマは、のちイギリスで、アーサー王伝説としてリバイバル。)何不自由なく育った王子が、世の苦しみを知り、恵まれた生活を捨て、あらゆる困難や誘惑を乗り越え、悟りの境地に達する、等々。聞いたこと、ありませんか。

日本では、どうでしょう。運命に翻弄された弱い立場の人や、薄幸の人に味方し、同情する(判官びいきの)テーマは、よく出てきますね。他にも、思い付きましたでしょうか。

何度でも上演されるお芝居や、ミュージカル、ダンス、コンサート等も、一種の再生するアート・フォームだと思います。いろいろな形態をとり、多様な解釈が可能ですが、根底に流れるエレメントに、共通点を見出すことができます。

今日は、シェイクスピアを少し。シェイクスピアを制覇するのは無理ですので、サワリだけということで。お芝居はもちろん、ミュージカル、バレエ、TV、映画化されています。ざっと調べてみますと、フィルムに残されたものだけでも、600近くの作品がありました。ふぅ~。現代版、前衛版等、時空を超えて、スタイルも多様。いろいろな解釈があります。例えば、黒澤監督の「乱」の舞台は、戦国時代の日本ですが、「リア王」が原作とされています。

シェイクスピア(1564-1616)。イギリスで、俳優を経て劇作家に。悲劇(四大悲劇: 「リア王」、「オセロ」、「マクベス」、「ハムレット」)、喜劇(「真夏の夜の夢」、「ベニスの商人」等)、史劇(「リチャード三世」等)、ソネット等、数多くの名作を残しました。ロミオ、ジュリエット、シャイロック、イアーゴ、デズデモーナ、オーフェリア等々の名前は、今なお健在ですね。

映画では、いろいろな試みがなされています。「ムーラン・ルージュ」のバズ・ラーマン監督(オーストラリア)が、手がけた「ロミオ&ジュリエット」(1996年、レオナルド・ディカプリオ、クレア・デーンズ主演)。視覚的に表現力豊かなラーマン監督。舞台は現代なのですが、セリフは古典のまま。400年たった今なお、言葉のパワーを感じます。

「ハムレット」といえば、ローレンス・オリヴィエ監督・主演の作品(1949年)が有名です。監督として手がけたシェイクスピアの第二作目。前作の「ヘンリー5世」(カラー)に対して、明暗(白黒)の世界で、ハムレットの内面的葛藤(悲劇)を表現しています。

約五十年後に作られた「ハムレット」(1990年)は、今までとは違ったものを目指していたとのことで、メル・ギブソンが主演でした。ケネス・ブラナー監督・主演の「ハムレット」(1996年)は、ビクトリア王朝時代(19世紀)の煌びやかな世界に、タイムワープしています。(注: SFものではありません。シェイクスピアの作品を、精力的に手がけているブラナー監督、注目しています。)いろいろな解釈があるので、ついつい観てしまいます。

面白いアプローチだと思ったのは、ジョン・マッデン監督(イギリス)の「恋に落ちたシェイクスピア」(1998年)。この映画は、書けないスランプに陥った、若き日のシェイクスピア(ジョゼフ・ファインズ)が主人公。ラブ・コメディー。お相手役は、ヴィオラ(グエネス・パルトロウ)。歴史上架空の人物ですが、創作意欲(「ロミオとジュリエット」)を、触発するという設定。

シェイクスピアを知らなくても、充分楽しめるストーリー展開です。知っている人にとっては、トリビアがいっぱいで、二度美味しい。特に、シェイクスピアの次作「十二夜」で、男装のヴィオラが、運命を切り開いていくという含蓄のあるエンディングには、じーんときました。アン・ハサウェー(シェイクスピアの妻)の存在という史実からも、ハッピーエンドじゃないと、最初からわかっています。それなのに観てしまう。良い作品は、結果(エンディング)だけではなく、どうストーリーが展開されるかだと感じました。ままならぬ恋だけど、書くことによって、生き続けるヴィオラ。作家であるシェイクスピア、そして創作活動を続ける芸術家への賛歌だと思いました。

広告の仕事をしていると、俳優さん達と仕事をすることがありますが、共通してやってみたいというのは、シェイクスピア。映画の封切り後、「恋に落ちたシェイクスピア」を、シェイクスピアが見たら、何て言うだろうと、よく話しました。皆さんは、どう思いますか。それぞれの時代のシェイクスピアがあっても、いいのじゃないのかな~と思います。

思えば、読むのを挫折した世界の名作やら、文芸作品を、漫画や、映画で観てから、オリジナルを読んだことが、よくあります。きっかけは、いろいろあっても、いいと思うのですよね。漫画や映画が、イントロでもいい。「恋に落ちたシェイクスピア」を観て、シェイクスピアに興味を持つのもいい。時空を超えて、私たちのDNAに流れる名作の数々。そんな作品に出会えると、幸せだと感じます。

 

今日の写真は、何度か登場したピンクのカサブランカ。時を遡って、蕾が開花し始めた頃のものです。若い頃の写真は、ちょっと恥ずかしい?まぁ、いいですよね。今日のテーマは再生でしたから。

週末は、お休みします。それでは、月曜の夜、お会いできるのを楽しみしています。良い週末を!!!

コンペアー&コントラスト2

コンペアー&コントラスト(比較対照)というシリーズを始めました。今日は、具体例を見てみるということでしたので、「リプリー」(1999年)と、「太陽がいっぱい」(1960年)を、選んでみました。同一の原作を元にして作られた映画です。

原作者は、テキサス生まれのパトリシア・ハイスミス(1921-1995)。ヨーロッパに移り住み、スイスにて死去。1955年に書かれた小説 (サスペンス) で、舞台はイタリア。金持ちの放蕩息子になりすました貧乏青年トム・リプリーの物語です。

「リプリー」。リプリー役のマット・デイモン、放蕩息子役のジュード・ロウと、彼女マージ役のグウィネス・パルトロウ、脇役のケイト・プランシェット。みんな注目の俳優さん達です。まずは豪華なキャストに、目を奪われました。監督さんは、「イングリッシュ・ペイシェント」のアンソニー・ミンゲラ(イギリス人)。(最新作は、「コールドマウンテン」です。)

「太陽がいっぱい」の監督は、ルネ・クレマン(フランス人)。私の好きな監督さんの一人です。美術学校(建築学)出身で、カメラ(撮影)を経験してから監督になり、彼の「禁じられた遊び」(1952年)は、あまりにも有名な作品です。「太陽がいっぱい」も、「禁じられた遊び」も、テーマ曲が効果的に使われ、大変印象的な作品でした。スタイル的には、ドキュメンタリー・タッチの作風から始まり、リアリズムから、「太陽がいっぱい」あたりを境に、商業的な作風に変わりました。ヌーベルバーグ主流のフランスで、商業的な作品は評価されませんでしたが、なおかつ質の高い作品でした。「太陽がいっぱい」は、リプリー役のアラン・ドロンの出世作です。

「リプリー」も、「太陽がいっぱい」も、原作を映画用に、改ざんしています。面白い作品に仕上がっていれば、全く問題はないと考えます。時間制限(二時間位)等を含めて、映画の特性(活字の視聴覚化)を考えると、独自の解釈の必要があるからです。場合によっては、映画と小説は、別物でもいいと考えます。設定、年代、場所は、どちらの作品も、ほぼ同じですが、登場人物の解釈の違いが歴然です。「リプリー」で描かれているのは、苦悩葛藤するリプリーです。一方、「太陽がいっぱい」のリプリーには、迷いがありません。そして、「リプリー」では、マージの主体性がアップデートされ、より現代的な女性になっています。

主人公リプリーは、詐欺師、ペテン師の類でした。このタイプのアナトミーは、スピルバーグ監督の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002年、実話を下敷き)に、詳しく描かれています。主人公フランク(レオナルド・ディカプリオ)と、リプリーとの共通点が、いくつかあります。どちらも、お金がなくて、お金(のある生活)に憧れていました(動機)。年代的にほぼ同じで、アメリカ人ですが、ヨーロッパに渡ります。持ち前の自然な人当たりよさから、人畜無害な好青年に見えます。他人になりすませる位、頭が良く、努力を厭わない。フランクの場合、FBI捜査官(トム・ハンクス)が、父親的な役割を果たしてくれたのですが、リプリーは、憧れていた人に冷たくあしらわれ、全く違った結末を迎えます。

監督自身手がけた「リプリー」の脚本では、ロジックの穴埋めがなされていています。原作にない登場人物を加え、完成度を増しています。一方、「太陽がいっぱい」では、台詞で説明しない箇所を、意図的に残しています。映像の暗示力が絶妙な作品でした。水面に揺れる船の名(マージ)。フェイクか、本物か。光と影の間を行きかう子供達を、アパートの窓越しに見るうつろなリプリー。目的を達成する為の冷徹さ。魚市場で、コミカルともグロテスクとも見える魚を物色するリプリーのイノセンス。「太陽がいっぱい」は、「リプリー」より40年も前に作られた作品ですが、今観ても新鮮です。

広告のレイアウトを作る際、空白の重要性に気付きます。イラストでも、あえて描かないことによって、見る人の想像力が、その絵を完成させることがあります。実は、そんな送り手と、受け手のコミュニケーションというか、信頼のようなものに、美が潜んでいることがあります。「太陽がいっぱい」は、豊かな余白に溢れていました。映画という媒体では、全てを言わない方が、効果的な場合があるのだと感じます。クレマン監督は、何を見せ、何を見せないかの判断が素晴らしく、「太陽がいっぱい」は、今でも十分楽しめると思います。良い作品です。

さて、1950年代のペテン師は、今のテクノロジーに、太刀打ちできません。スマートな現代版トム・リプリーが、全く違った映画で、違った名前で、再生しているのかもしれませんね。「あっ、このタイプ見たことある!」というデ・ジャブ体験、ありませんか。面白いキャラクターの輪廻転生を想像しつつ、映画を観るのも楽しいものです。次回は、生まれ変わり(再生)をテーマに、書いてみたいと思います。もしどこかで、リプリーに会いましたら、よろしくお伝えください。

追記: 原作は、シリーズ化されています。ヴィム・ヴェンダーズ監督の「アメリカの友人」(1977年、デニス・ホッパーがリプリー)は、「リプリーのゲーム」と「贋作」の映画化だそうです。

今日の写真は、黄色のすかしゆり。黄ゆりの花言葉は、真実ではない、喜び楽しみ。本日の映画にピッタリだと思いました。一方、すかしゆりの花言葉は、飾らぬ美、困難に打ち勝つ。同じ花の持つ違った一面ですね。花言葉だけでも、いろいろな解釈ができると感じます。

明日は、お休みします。もう節分ですね。福は~内!それでは、金曜の夜、お会いできるのを楽しみしています。