変わる・変われない2b

世界を変えるのか・自分が変わるのか2 
~チェがエルネストだった頃~

映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004年)の英語圏でのキャッチフレーズは,今回のテーマ「世界を変えるのか・自分が変わるのか」に密接していますので,ここでも紹介させていただきます。まずは,今でも英語版のオフィシャル・サイトで使われているもの。

Let the world change you… and you can change the world.

意味は大体こんな感じです。世界が自分を変えるがままに……,そすれば,世界を変えることができる。

英語版のキャッチフレーズを,もう一つ。

Before he changed the world the world changed him.

(ゲバラが)世界を変える前に,世界が(彼を)変えた。

1959年1月1日に,カストロ兄弟や同志と共に,チェ・ゲバラは,キューバに革命政権を樹立しましたが,その約3年前,1956年12月12日に,カストロが亡命していたメキシコから,オンボロ船グランマでキューバに上陸し,超人的なゲリラ活動を展開しました。この映画は,それから時を遡ること,約5年(1951年12月~)の旅の記録。世界を変えた男が,その昔,世界(社会の問題)に開眼したというお話です。

医学生だったエルネスト・ゲバラ(当時23歳)と,生化学者アルベルト・グラナード(29歳)が,アルゼンチンからアンデスを越え,チリからペルー,アマゾン(コロンビア)を北上し,カラカス(ベネズエラ)の別れまで,約7か月にわたる12,500キロの南米縦断の旅が,スクリーンに甦ります。

映画のタイトルがダイアリーズと複数形なのは,この2人の青年の日記という形式を取っているからです。2人の視点から語ることで,客観性を持たすことができますし,不器用なまで真面目なゲバラに対して,陽気なアルベルトは善き旅のパートナーだったことがわかります。

また,若くして亡くなったゲバラの果たした役割は,中南米の人々が置かれた不均衡に対して,何かをしなくてはならないと立ち上がったことであり,黙って見過ごすことができなかったゲバラの動機の部分が,この映画に示唆されています。当時の南米の現実(人々の苦悩)を実際に見ることで,エルネスト・ゲバラはチェ・ゲバラに生まれ変わり,内気な青年が,人々の先頭に立つリーダーへと変貌していったわけです。

映画の撮影は,実際に2人の青年が訪れた道をたどるという試みで,齢八十を越えたアルベルト・グラナード氏を,キューバから迎え,アドバイスを受けています。南米出身のウォルター・サレス監督の真摯な取り組みと,2人への敬意が随所に感じられます。

グラナード氏の回顧と再訪が,映画のメーキングとして「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」(2004年)としてまとめられていますが,南米が半世紀前と変わっていないというコメントが印象的でした。「モーターサイクル・ダイアリーズ」を理解するうえで,このドキュメンタリーは貴重な資料です。

今日では,キューバ革命からほぼ半世紀を迎えようとする中,今年7月の緊急手術のニュースを始め,カストロの健康の衰退が囁かれ,後継者は誰なのかと詮索されています。東欧圏の崩壊後も,キューバはかたくなに社会主義体制を死守していますが,人々の経済的な不満(国民1人あたりGDP=約15,000円)が募り,生活レベル(経済水準)の向上は必至です。

しかしながら,経済的には低迷しているものの,キューバでは教育と医療は無料で,病院は24時間開業しているそうです。チェ・ゲバラの呼びかけに応じて,アルベルト・グラナードは,革命後のキューバに渡り,キューバの医療の基礎を築いたわけですが,グラナードの取り組みには,この旅の影響があったことだと思います。

貧しいがために治療を受けられなかった人々のために何かしたいというゲバラの遺志が,グラナードに引き継がれることによって,何らかの形で成就したのは感慨深いものです。これこそが,チェ・ゲバラの世界への形見,いや遺産なのかもしれません。

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ロード・ムービー第四十一夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004) シンボル性」

 

それでは,「モーターサイクル・ダイアリーズ」の旅を続けることにしましょう。

 

「映画のみならず,他のビジュアルな面でも,大変印象深いチェ・ゲバラ。次回は,そのシンボル性などに触れてみる予定です。」と,数回前に書きました。寄り道をしましたが,今回は元グラフィック・デザイナーとして,チェのイメージやシンボル性についてお話しします。

 

シンボル化するということは,どういうことでしょうか。ロゴのごとく人々に認識され,金太郎飴のごとく均一なイメージ。ロゴをデザインする際に,記憶されやすく,認知されやすい顔のデザインが好んで用いられます。スターバックスなどのロゴを思い出しますが,他にも思い付きますか。

 

マスコットとなると,人間化(もしくは漫画化)された動植物(犬,猫,パンダ,クマ,カエル,ペンギン等々)や,見慣れたもの(乗り物,食器,道具など)が登場します。絵文字なんていうのも人間的な表情が多いし,極めつけは,ニコちゃんマークでしょう。

 

チェ・ゲバラの場合をみてみましょう。まずは,有名な写真が存在するということです。キューバの写真家アルベルト・コルダが1960年に撮影した写真は,(少佐の軍位を表す)一つ星のベレーをかぶったもの。そして,簡単に複製することができる画像に変換できること。この二点が実在人物をデザイン化するための決定的な要因です。

 

インパクトのある素晴らしい写真(ポートレート)が存在する例としては,オードリー・ヘップバーン,マリリン・モンロー,ジェームス・ディーン,ジム・モリソン(ドアーズ),エルビス・プレスリーなどの不朽の画像が思い浮かびます。

 

コルダの写真から,ジム・フィッツパトリックが,意志の強そうなチェの描画を作成した時点で,20世紀のイコンが完成したと言っても過言ではないでしょう。革命(そしてそのために流した人民の血)を表す赤と,社会主義の象徴である星。伝達能力の高いデザインです。もちろん,その背景にはチェの生き様や,考えに共鳴した人々がいたということが前提にあります。

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/5/54/Cheicon.jpg

 

コルダの写真および,アンディ・ウォーホル版シルクスクリーンは,以下のリンクを参照にしてください。

 

http://www.art-for-a-change.com/Month/korda.htm

 

フィッツパトリックのデザインは,白黒(もしくは赤黒)のバランスが絶妙で,簡単に複製することができる印象的な画像です。このようなインパクトのあるロゴやシンボルをデザインする際に,白黒対応(一色刷り)できること,いろいろなサイズに対応できる(スケーラブルである)ことが重要なポイントになります。

 

つまり,印刷のコストが削減できるということです。高度で難解な印刷技術を必要としなくても,一定のクオリティーを保てるということ。古い白黒コピー機で複製しても,裏庭で自家製のシルクスクリーンでも,原型をとどめることができるアートの存在が前提になります。それが,フィッツパトリックの描画でした。(CGならベクター/ベジェ vs ピクセルなどで例えられるでしょうか。)

 

ウォーホルのマリリン・モンロー,ジョン・F・ケネディ,毛沢東,レーニン,そしてキャンベル・スープのラベルに電気椅子と共に,チェはポップアートとして,大量生産されるイメージと化したわけです。Tシャツや,ステッカー,ポスターなどと,イデオロギーの表明というよりは,ファッションの一部として使われているのかもしれません。

 

コルダの写真は,チェの死(1967年)と前後して西側に流出しましたが,その写真が撮影された1960年には,チェ・ゲバラがタイム誌の表紙を飾っています。当時の影響力が窺われる写真です。チェの革命思想は,冷戦下の当時,何かがおかしいと感じていた若者の間でもてはやされました。

 

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Ergstimecover1960.jpg

 

最近でも,ヴィッセル神戸(Jリーグ)の試合などのスポーツ・イベントや,街角でミリタリー調のカモフラージュのパンツに合わせたチェのTシャツなどを見かけます。チェの思想や意図したところから切り離されてファッションとして存在するのか,それとも,意思表明なのかわかりませんが,チェのイメージは,現代にも息づき,生きながらえているようです。

 

Tシャツのおに~さんは,一体どんな人だったのかと映画を観てくれる人がいても,いいのではないのかなと考えますが,皆さんはどう思われますか。そして,映画を理解するうえで,このブログが少しでもお役に立つことができればと願います。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト50

コンペアー&コントラスト(比較対照)という枠組みで書き始めて,今夜で第五十回目になります。それなら,インターミッションにするっきゃない。「モーターサイクル・ダイアリーズ」にちなみ,南米にまつわる話しの続きも少し,映画の話しも少し,余談はたっぷり,なんでもアリってところで,大いに脱線しましょう。これだから,「マニャーナ(明日)でいいよ」というラテン・タイムって大好きです!

 

昨日は,栗林公園(高松市)の外国人向けセミナーの通訳の依頼があり,ボランティアでということで行ってきました。土曜は一日雨でしたが,雨のあがった日曜の朝は,空気がひんやりとしていて気持ちいい。まばゆい朝日の中,昨夜の濡れた道が気化していくのが肌に感じられます。早朝の光と建物や樹木の濃い影を踏みながら,栗林公園の前の交差点で信号待ち。目が合うと,笑顔を交わした三人組み。

 

(注: 以下に登場する会話は,基本的に英語で交わされたものの訳として読んでくださいね。)

 

「ハ~イ!どこから?」

 

トロント郊外カナダ二名,ウェールズ(イギリス)より一名。

 

「じゃあ(高松より寒い所から来ているので),ちょっと涼しくなってよかったね。」

 

カナダ青年は短パン姿。同郷の女性に,からかわれています。

 

ウェールズ出身の彼女は,

 

「この時期に,こんなに暑いなんて信じられないわ。」

 

暑い?ちょうどいいと思ったけれど。7月に来日したそうで,(彼女の曇った表情から……)よく暑い夏をサバイブできたものです。

 

「これから先は,どんどん寒くなるからよかったね。」

 

笑顔が戻ります。寒くなるからよかったね?我ながら,びっくりな発言。ちょっと待ってくださいよ。実は,先日,男木島(第五回写真展)に行ったアメリカ人(フロリダから来日)と,

 

「めちゃ,朝夕冷えてきたよ~~~。」

 

という会話をしたばかり。これぞ,緯度・バタ・会議。

 

信号が変わり,紅葉というよりは,深緑の栗林公園へ。どうやら,三人組もセミナーに向かっているようです。そして,顔見知りが,結構参加していて,ほっとしました。しかしながら,セミナーだけではなく,茶会,庭園散策,そして,手打ちうどん講習会の通訳も。いやぁ~~~,疲れた!(うどんは,食べる方に専念した方がいいことを悟りました。)

 

事前に,参加者名簿をゲットしていたので,お話ししたい人が何人かいたのですが,ぜ~~~んぜん話す時間がない。とほほ……。それでも,なんとか,「モーターサイクル・ダイアリーズ」の主人公達の出身国であるアルゼンチンから来日している彼女に。

 

「オーラ!」(さびついたスペイン語で,まずはごあいさつ。)幸い日系人の彼女は日本語が堪能です。(ヘタクソなスペイン語を話さずに済みました。)

 

「ああ,でも,(日本語の)単語とか,まだ難しいですよ。スペイン語もできるのですね。」

 

「ははは……。」(苦笑い)

 

「ははは……。」(返答のしようがない)

 

「日本語学校とか補習校とか行ったの?」

 

「おじいちゃんが,英語とバイオリンを習えと言ったので(行きませんでした)。どうせ,家で話していたから。」

 

「おじいちゃん?じゃあ,三世?」

 

「いえ,二世です。」

 

「お父さんやお母さんが,戦後の移民船でアルゼンチンに渡ったの?」

 

「そうです。」

 

「当時は,一ヶ月以上かかったはずですよね。」

 

彼女は,ゆっくりと,そして,しみじみと応えます。

 

「一ヶ月半。」

 

「遠かったね。」

 

「ええ。しかも,父は,チリ,ペルー,ベネズエラ,そしてウルグアイなどに行ってから,最終的にアルゼンチンに定住しました。」

 

そりゃ,すごいわ。南米各地を放浪したらしい。ちらっと,行った先で革命が起きたなんて,聞こえたような。ひょっとしたら,彼女のお父さんは,チェやアルベルトと同時期の南米を巡ったのでしょうか。ここで,詳しく彼女の話しを聞きたかったし,彼女も話しが喉元まで出ていたのですが,通訳が必要と声がかかり,残念ながら今回は断念。

 

園内を散策し,池辺の楓岸と呼ばれるスポットで,紅葉の予報をする標準木の説明を。11/15頃から見頃になるとのことで,その頃になると,ライトアップされるそうです。風のない日は特にお勧めで,鏡のような水面に,色とりどりのもみじが映し出され見事だそうです。何人かの人が,熱心にメモってくれています。(感激だなぁ~)

 

そして,木立の間に,ちょっとレトロな橋が見えます。公園の端の方なので,見落としそうですが,行定勲監督の「春の雪」のロケがあったそうです。なかなかいいスポット。さて,これを,どう面白く通訳するかなんだよなぁ。なんせ映画の話題だし。

 

「ここで4月にロケされた映画が,1029日に封切られます。その作品の行定監督のセカチューは,アニメを除いた映画のカテゴリーで,昨年,日本で一番の興行成績をあげました。」

 

セカチューの英語タイトルはスラスラ出てきたけれど,日本語でつまっていると,ウェールズの彼女が,

 

「庵治?」

 

「そうそう!!!」

 

よく知っていると感心していると,なんと,彼女は庵治に近接する地域の学校に派遣(ALT)されているとのこと。目をキラキラさせながら聞いてくれるので,なんだかとっても話しがいがあります。絶対に観に行くと,めちゃ盛り上がってくれて,もう涙。「春の雪」なんて,ヨン様の「四月の雪」と紛らわしいタイトルですが,こちらは三島文学の映画化です。

 

ここで,ちょっと回想シーンにジャンプ・カット。前出のアメリカ人は,韓国に一年間留学していたとのことで,来日直後に映画館に案内すると,ちょうど「四月の雪」を上映していました。

 

「日本で韓国映画を観る時は,吹き替えと,字幕に注意ね。韓国語と日本語字幕か,日本語の吹き替えがあるから。」

 

「アメリカの映画も,吹き替か字幕?」

 

「全部の作品じゃないけど,吹き替えには要注意。字幕じゃないと英語で観られないんだから,この字(上映時間に添えられた「字幕」という文字を指しつつ)は,しっかり覚えていた方がいいよ。まぁ,ジョニー・デップが(チャーリーとチョコレート工場で)日本語を喋っているのも,なかなかオツなもの……。」

 

「ははは……。」

 

「ははは……。」

 

「春の雪」のロケは,春先に行われましたが,秋のシーンの撮影とかで,人造の紅葉をふんだんに使ったそうです。映画の公式サイトを見てきましたが,プロローグをクリックすると,なるほど,紅葉の見慣れた橋が出てきます。木洩れ日の中に一枚の絵のようにフレーミングされた橋。そうそう,あの角度から見ると,こんな感じです。

 

……すっかり,ウェールズの彼女と意気投合して,庭園の散策を続けます。そして,お手植えの松に。左から三本目が,ウェールズ皇太子が植えた松。驚きと共に,嬉しそうに,しみじみと松を眺めていた彼女。そんな彼女を見ていると,私まで嬉しくなってきました。

 

残念ながら,今回は写真をゆっくり撮る暇がなかったのですが,セミナーの始まる前に少し撮った写真を,二週間くらいフォトアルバムの中に入れておきます。セミナーの開催された掬月亭(きくげつてい)からの景色です。ここで,琴と尺八の演奏,お茶席もありました。誰かが,何故「掬」(きく)という漢字なのか訊ねます。

 

「掬という漢字は,手偏(てへん)に匊(きく)で,すくうという字です。掬月というのは,中国は唐の時代の詩*から名付けられたそうです。こうやって(水をすくう仕草をしつつ),湖に映った月を手のひらに収めて,月を愛でたのですよ。とっても風雅なお月見でしたね。」

 

今宵は月が美しい。こんな夜なら,誰でも詩人になれそうです。紅葉のシーズンに,今度はゆっくり写真を撮りに行こうと思います。

 

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*注: 掬水月在手。水を掬(きく)すれば月手にあり。

コンペアー&コントラスト49

今夜は,インターミッションです。「モーターサイクル・ダイアリーズ」にちなみ,南米にまつわるお話しを少し……。

 

 

南米航路(船)のことで,久しぶりに父と話した。日本から南米の大西洋側に行くには,パナマ運河を通ったという。

 

「モーターサイクル・ダイアリーズ」や「アラビアのロレンス」について,最近ブログに書いていることもあり,スエズ運河やパナマ運河通過の様子を聞いてみた。スエズ運河の方は,10隻位の船団を組んで通ったそうだ。途中,湖があり,そこで他方向から来る船と,擦れ違うことができたらしい。パナマ運河にも,湖があったそうだが,船団を組まず,個々の船として通過したそうだ。

 

大西洋側の南米(ブラジル,アルゼンチンなど)へは,当時,日本から移民船が運行していたそうだ。近年,地方自治体のブラジル移民100周年記念などのニュースを聞くが,戦前のみならず,戦後も移民船が出ていたことになる。戦後もブラジルなどへの移住が続き,移民船を使って移住された方がいたわけだ。

 

日本から南米までは,約3ヶ月の航路だったそうだ。片道でも一ヶ月強。当時は,気の遠くなるほど遠い国だったことだろう。何かあると,すぐ帰るというわけにはいかない。相当な決心がいる。言葉や文化の違いなど,心理的にも遠い国だったはずだ。移民家族は,普通,船底の3等船室に乗船していたそうだ。どんな気持ちを抱いて時を過ごしたのだろうか。心細さ,不安,そして望郷の念と希望の入り混じった複雑な気持ちだったに違いない。

 

エルネスト・ゲバラが,アンデス山中の国境を越えた時のモノローグ(「モーターサイクル・ダイアリーズ」)を,引用しておこう。

 

「背後にする国への郷愁と,新たな国に足を踏み入れる興奮が,同時に心をよぎります。」

 

日系三世の母を持つ親友の家に遊びに行くと,母が幼少の頃,船で日本を訪れた時の話しで盛り上がった。冬の荒海を渡るのは至難の業で,船酔いで寝ているのがやっとだったそうだ。頭より高くなる自分の足を眺めながら日本に向った幼い少女。いろいろな苦労があるものだ。

 

父の記憶では,アントニオ猪木の御家族(親戚?)のブラジル移民を覚えていると言う。神奈川から乗船したそうだ。その時,猪木は既に沖縄などの米軍基地で,レスラーとして活躍し始めていたとのことで,親類の移民か,一時帰国のあと,帰途の旅だったのだろうか。その船旅の途中,猪木家のおじいさんが亡くなり,水葬に付したそうだ。

 

ブラジルのアマゾン河を1500キロほど遡った所に,マナウスという町があるが,河口からの水路は,雨季の時は水かさが高く運行しやすいが,乾季は浅瀬に乗り上げないよう,ジグザグに運行したので,時間がかかったそうだ。そういえば,マナウス気付けで,父に手紙を出したことがあった。リオデジャネイロか,ブエノスアイレスでお世話になった人の息子さんに,日本のジャージが欲しいと頼まれて,一緒に横浜で買い物をした記憶がある。父と話していると,モンテビデオ(ウルグアイの首都,ブラジルとアルゼンチンの間に位置する)など,懐かしい地名が口をつく。

 

アメリカに住んでいた時には,南米に移民した日系人が,移民先で革命などが起きた為,陸路,徒歩で北米に来たという話を聞いた。記憶が定かではないが,一年や二年かけて,歩いて来たそうだが,これまた想像を絶する話しだ。アメリカでは,主に農業に従事されていたが,菊づくりが上手いなど評判が良かった。時々,南米出身のお嫁さんを迎え入れている日系人の家庭があり,堪能な日本語がしゃべれたりする。家族の出身地である土地のなまり(方言)のある日本語が,微笑ましい。

 

南米人の母を持つ青年に,流暢な日本語で話しかけられて驚いたことがある。父親が日本人とのことで,父から日本語を習ったそうだ。私の父母はどうなのかと訊ねるので,「100%メード・イン・ジャパン」だと答えると,意外そうな顔をする。そうか,南米はメスチゾ(混血)の地なのだ。話しを聞いて実感する。これは,チェ・ゲバラのスピーチにも,繰り返し出てくる。アメリカ=アメリカ合衆国ではない。中南米の人に笑われる。中南米も含めて,全部アメリカなのだ。

 

在米中に,祖母もしくは祖父が日本人,もしくは日系人という人には結構出会ったが,その世代になると,日本の影響はかなり薄れていたりする。しかしながら,家庭に呼ばれて行くと,昔懐かしい日本の断片がそのまま残っていたりする。「生きた化石」と,よく友人をからかったものだ。親しみからきているのであり,決して悪気があったわけではない。しかしながら,「生きた歴史博物館」と言ったほうが,よかったのかもしれないと反省する。

 

1990年の入管法(「出入国管理及び難民認定法」) 改正により,日系二世・三世及びその家族に対して,3年間の滞在可能な査証の発給が認められるようになった。日本行きの飛行機で,ブラジルから出稼ぎの日系人らしきグループと同乗したことがある。片道1ヶ月以上かかった船旅が,今では飛行機で,ブラジルから米国へ約12時間,プラス米国から日本まで約11時間程度になった。それでも,簡単に行き来できる距離ではない。

 

「男はつらいよ 奮闘篇」(1971年)の冒頭で,春先の東北からの集団就職の旅立ち,家族との別れのシーンがあった。たった20年ほどで,出稼ぎもインターナショナルになったものだ。しかしながら,故郷を離れて見知らぬ土地に行く若者たちの気持ちには,今も昔も相通じるものがあるだろう。胸に秘めたそれぞれのいきさつがあるに違いない。彼らのストーリーを,いつの日か聞かせてもらいたいものだと思った。

 

「モーターサイクル・ダイアリーズ」のエルネスト・ゲバラと,アルベルト・グラナードの旅行のように,いつもと違った場所に身を置くことにより,何か新しい視点が芽生えることがあるものだと感じる。

 

 

本日の写真は,街路樹になったオリーブの実。街を見渡せば,収穫の秋ですね。気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト48

ロード・ムービー第四十夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004) その後」

 

「モーターサイクル・ダイアリーズ」の旅を続けることにしましょう。

 

映画のタイトルがダイアリーズと複数形なのは,1951年に南米を縦断した二人の青年の日記という形式を取っているからだとお話ししましたが,後に名が世に知られるのは,二人のうち(皆様も御存知)チェ・ゲバラこと,エルネスト・ゲバラの方です。時は1959年。キューバ革命。フィデル・カストロと共に人民軍を率い,キューバに革命政権を成立したのは,オートバイの旅から約7年半。一体エルネストに何があったのでしょうか。

 

今回は,エルネストのその後についてです。社会の矛盾に目覚め,マルクス主義に傾倒し,ゲリラ戦と革命に関わりを持ち始めた頃から,チェという愛称で呼ばれるようになったエルネスト。出身国であるアルゼンチンの方言で,「おい」,「ねぇ」,「よう!」(Yo!, Hey!, Dude!) という意味があります。親しみを込めてエクスクラメーションなニックネームです。日本語の「残念」(ちぇっ!)じゃなくて残念!

 

「映画千夜一夜」にちなみ,まずは映画に描かれているチェを,ざっと見てみることにしましょう。(主に英語圏で制作された作品に限ります。)

 

「ゲバラ!」(1969年,原題Che!)。チェを演じるオマー・シャリフが出演した「アラビアのロレンス」から7年後,主演の「ドクトル・ジバゴ」から4年後,そしてチェ・ゲバラ(19281967)の死から2年目に公開された映画です。

 

映画は,カストロと肩を並べて革命に身を投じたものの,革命後のカストロとの見解の喰い違いからキューバを後にし,各国(アフリカ,南米)の革命を支援するうちに,遂に身を滅ぼすといったような内容でした。メキシコに亡命中だったカストロ兄弟と共に奮起し, 195611月に82名の同志がキューバに上陸したものの,激戦で70名を失ってしまいます。カストロ兄弟とチェを含む残りの12名が山に逃げ込み,約2年にわたるゲリラ戦を展開します。そして,遂には1959年1月に,キューバ革命政権の成立達成。

 

チェ・ゲバラが,革命家になった瞬間が,この映画に描かれています。映画は,少し自伝の記述と違いますが,回顧録では,医師として従軍したゲバラが,医療品の入った袋か,武器の入った袋を取るか,咄嗟の判断を迫られた時に,革命家のチェが誕生したとあります。「モーターサイクル・ダイアリーズ」では,伏線になる出来事(社会の矛盾,貧困,差別,人々の苦しみ)が描かれていますが,決定的な瞬間は,南米縦断の旅から約5年後に起きたわけです。

 

この映画のテーマは,「チェ・ゲバラ&カストロ」(2002年,TV映画,原題Fidel)でも繰り返されていますが,こちらの方は,フィデル・カストロの視点から語られています。「モーターサイクル・ダイアリーズ」でゲバラを演じたガエル・ガルシア・ベルナルが,チェ・ゲバラを演じていて,「モーターサイクル……」公開の2年前に,その後のチェ・ゲバラを経験していたベルナルの演技が,内省的であったことが理解できそうな気がします。ヒーローの死から時を遡って語られた「アラビアのロレンス」(1962年)と同じような影(死の匂い)を感じたのは,私だけでしょうか。

 

さて,チェのミュージカル・バージョンなんて,いかがでしょう。意外なところでは,「エビータ」(1996年)があります。チェを演じるのは,アントニオ・バンデラス。お話しは,かなり史実から離れて,イマジネーションの世界に。実際には面識のなかったエバ・ペロン(マドンナ)と,チェが……。(笑える話題の提供です!)

 

チェ・ゲバラは,「モーターサイクル・ダイアリーズ」で描かれている南米の旅の後,自国アルゼンチンに戻り,ブエノスアイレス大学医学部に復学して,1953年に優秀な成績で卒業しましたが,ペロン独裁政権の祖国を離れ,社会主義であったグアテマラ(中米)に行きました。その後,社会主義政府が倒されて,メキシコに渡り,そこで亡命中のカストロと出会ったわけです。

 

現在作製中の映画の中に,スティーブン・ソダーバーグ監督のChe(「チェ」)があります。誰がチェですかって?ベニシオ・デル・トロだそうです。(ソダーバーグ監督と,デル・トロの顔合わせは,2000年の「トラフィック」でも。)

 

ベニシオ・デル・トロ,アントニオ・バンデラス,ガエル・ガルシア・ベルナル,そしてオマー・シャリフ。う~~~ん,やっぱり濃い~~~。映画の題材として,大変興味のあるところですが,映画のみならず,他のビジュアルな面でも,大変印象深いチェ・ゲバラ。次回は,そのシンボル性などに触れてみる予定です。

 

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コンペアー&コントラスト47

本日は,インターミッションです。「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)の回想にちなんで,私の私的回想録を……。 

 

秋分の日。日本では祭日だが,いつもより早く目が覚めた。正確には,まだ夜中だ。仕方がないので,ハリケーン・リタの様子をCNNで見ることにする。スペイン語放送になり,ブリティッシュ・アクセントのヨーロッパ版になり,うつらうつらしてきて,ふとアメリカの我が家で寝ているような気がした。

 

挽きたてのフレンチ・ローストで,夜明けのコーヒーでも淹れようか。それとも,そのままソファで一寝入りしてもいい。ふとチャンネルを回すと,甘美なバイオリンの音色が耳に入る。

 

まぎれもなくチャイコフスキーのバイオリン協奏曲(作品35)だ。運良くまだ第一楽章が始まったばかり。一度聴くと忘れられない第一主題が流れる。番組は「N響イン・ブルージュ」(ベルギー)。昨年からアシュケナージが,N響の音楽監督に就任したと聞いていたが,2004年夏のヨーロッパ公演の時の放送だ。

 

ジュリアン・ラクリンのバイオリンによる第二主題のオーケストラとのかけあいは見事で,息もつけないクライマックスから行進曲風の展開部に入り,足並みと息を整えてカデンツァに。そして,再現部でオーケストラと共に弛緩を繰り返しつつ,再度クライマックスに。なんとも悩ましく息もつけない。

 

全てを出しきったジュリアン・ラクリンの演奏に胸が熱くなる。第一楽章が終わった時点で感極まった観客が,ラクリン,アシュケナージ,そしてオーケストラに拍手を贈った。緊張が解けて,第二楽章,第三楽章と熱の入った演奏が進む。さすがはロシア出身のアシュケナージとラクリンのチャイコフスキーだ。(アシュケナージはピアニストとして,第二回チャイコフスキー国際コンクールで,ジョン・オグドンと共に第一位に入賞している。)

 

次はショスターコビッチの交響曲第五番だ。もともと,テスタストロン(男性ホルモン)系だと思っていたが,ハンス・グラーフの率いるヒューストン・シンフォニーの演奏を生で聴いて以来(2004222日),演奏の解釈の違いに注目している。

 

ヒューストンの図書館で,偶然見つけたCDは,ケルテスの率いるスイス・ロマンド管弦楽団の演奏。(当時の録音状態もあるだろうが)ヘビメタだった。重厚で熱い演奏が,なかなかよかった。ムラビンスキーのレニングラード・フィルハーモニーの演奏(CD)を聴いた時は,その完成度の高さと洗練度に感嘆し,これ以上の演奏は無理かと思った。(ムラビンスキーは,1937年の初演の指揮も務めている。)

 

そこで,アシュケナージがどのように指揮するのか興味があった。ショスターコビッチの政治的な抑圧との葛藤と苦悩。同じソビエト体制下で,芸術家として生きたアシュケナージの回想を導入に演奏が始まった。

 

演奏は重くなり過ぎず,表現力豊かに,同時に流されず,洗練されたスタイルで展開する。ヒューストン・シンフォニーの演奏を聴きつつ,途中居眠りする観客がいたが,確かにこの交響曲の一部は,最高の眠りを誘う。決してつまらないという意味ではない。生理的な反応だ。重厚で,陰鬱で,思いつめたような緊張感の張りつめた演奏が,緩やかに歌う部分に入ると安堵から眠気をもよおす。考えようによっては,生演奏で眠れるのは最高の贅沢であり,素直な反応だ。

 

秋分の日の夜明けに,アシュケナージでウトウトするのもいいと思いつつ,注目していた第四楽章に入ったので,すっかり目が覚めた。大きな解釈の余地を残す楽章で,「強制された歓喜」か「勝利の行進」か,といったような解釈の論議がなされている。しかしながら,アシュケナージの演奏は,そんな論議はどうでもいいと思わせるもので,ショスターコビッチへの敬意と愛情のこもったクライマックスに目頭が熱くなった。

 

ヒューストン・シンフォニーの演奏のあとで,ジョーンズ・ホールを出ると,雨が降り出していた。冬の冷たい雨ではない。ダウンタウンからさほど遠くないリバー・オークスの角のフレンチ・カフェ,ラ・マデリンに向かう。その昔は,近くのドレクスラーの角,ハイランド・ハイツにあった店だ。よく金曜の夜に,生の管弦楽の演奏があった。中庭に季節の花が咲き,パンを小鳥と分け合ったものだ。

 

フレンチ・ローストの馨りと,焼きたてのパンの匂いが漂うカフェに,夕方のあかりが灯り,温かい光が部屋を満たした。水滴のしたたる窓ガラスに,道行く車のヘッドライトが映る。

 

隣接する古い映画劇場「リバー・オークス・シアター」で,観たかった「運命を分けたザイル」(英,2003年)を上映している。そういえば,この劇場で沢山の映画を観たものだ。名画座の名残がある古い映画館。数こそ少ないが日本の映画も観たし,いわゆる外国映画や,ミニ・シアター(アート・ハウス)系作品の佳作を上映していた思い出の多い劇場だ。

 

ハリケーン・リタの様子を見守る中,CNN11チャンネルの見慣れたレポーターが登場し,13チャンネルのセグメントがNHKのニュースに挿入されている。ふとアメリカの我が家のことを想った。ブルージェイや,レッドカーディナルが庭の大木を訪れる我が家。そろそろルビー・スロートと呼ばれる(喉のあたりがルビー色の)ハミングバードが,南に向かって通過する頃だろうか。ハリケーンは大丈夫だったのだろうか。

 

写真は,テキサスの州花ブルーボネット。何百キロも続くハイウェイの両脇を,空のように青く染め上げる様子は圧巻で,テキサスの春の風物詩です。

 

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ロード・ムービー第三十九夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004) イントロ」

 

今夜から暫くの間,オートバイの登場するロード・ムービー第三本目,「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)について,ブログの旅にお付き合いを願うことにしましょう。

 

時は1952年。南米を縦断した二人の青年,生化学者アルベルト・グラナード(29)と,医学生エルネスト・ゲバラ(23)14日に自国アルゼンチンのブエノスアイレスを出発し,726日にベネズエラのカラカスでの二人の別れまで,125百キロにわたるロード・ムービーです。当初の予定では,8千キロ,4ヶ月の旅のはずでした。

 

アルベルトの愛車ノートン500は,13年前のモデル(1939年式)のオートバイです。ヤドカリのように荷物を積んだうえ,舗装していない道を二人乗りで行く長距離旅行は,無謀といえば無謀。故障や転倒が続き,ポデローサ(力持ち)というバイクのニックネームは,ご愛嬌というよりは,考えようによっては皮肉な名前ですが,二人は罵り合いながらも旅を続けます。本でしか知らない南米を自分の目で確かめ,アルベルトが30歳になるまでに大陸の北端に達する目標の為に。

 

ほとんど力尽きたポデローサを,アルベルトは針金や有り合わせの材料で修理しつつ,パタゴニア地方の雄大な自然をバックに走ります。荒野の一本道に雲の切れ目から陽が注ぐシーン。(そうそう,山脈に近付くと,こんなカンジなんだよね。)そして,標高6千メートル級のアンデス山脈の息をのむような景観。(「いや待てよ。これは夏山の景色」と,訝しげに映画を観つつ,「そうだ,南米は北半球と季節が反対だから夏なんだ!」と,当たり前のことに気付きます。)

 

バレンタインデーの頃に,アンデス山中のフリアス湖をフェリーで渡り,「年を取って旅に疲れたら,この湖のほとりに診療所を建てよう」,「来た人はみんな診てあげよう」と,二人はナイーブだけれど,素敵な夢を語ります。チリ国境です。

 

アルベルトは,明るく陽気で気さくな青年。楽しいことが大好きで,女性を口説くのも積極的なら,貧乏旅行もへっちゃらで,口八丁で必要なものを手に入れることができるタイプです。エルネストの方は,真面目一徹。食いっぱぐれても,寝る所がなくても,アルベルトの口車に乗ることができず,いい加減なことが言えません。二人のボケとツッコミ具合からも,いい友達だということが窺えます。

 

背は腹にかえられないアルベルトに,「おまえは,バカ正直だ。嘘も方便」と叱られて,国境を越えてからは,エルネストも「方便」を実践。それが,思わぬ事態に展開して,ピンチに陥りながらも,細長いチリを北上します。走行距離3千キロあたりで,ポデローサは遂に力尽き,鉄屑に売るしかないと,修理工に言い渡されました。まだまだ長い旅が残されていますが,ガタガタの道や山道を,よくもまあ走って(時には押して)きたものです。アルベルトがドン・キホーテの想い人ドルネシア姫に例えた,愛するオートバイとの訣別です。

 

その後,二人はトラックの荷台に乗せてもらったり,アマゾンをフェリーで密航したり,徒歩で旅を続けます。そして,旅の途上で出会った人々との触れ合いが,二人の人生に大きな影響を与えます。アルベルト・グラナードと,エルネスト・ゲバラは,実在の人物で,映画のタイトルがダイアリーズと複数形なのは,二人の日記と回顧録をもとにしているからです。

 

次回からは,映画のこと,映画の背景,二人の青年のことなど,気の向くままに,ラテン・タイムでお話していく予定です。本日の写真は,アルストロメリア,別名インカのユリ。南米はインカ帝国の地が原産だそうで,アンデス山脈やチリの砂漠に咲く花です。この映画にピッタリかと思いました。可憐な花は日持ちがよく,いろいろな色があります。

 

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ロード・ムービー第三十八夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  h. ヤング・ロレンス」

 

今夜は,映画では語られていないロレンス(18881935)の若かりし頃のお話しと,今までのまとめをします。

 

ロレンスは,子供時代から歴史に興味を持ち,まずは自宅付近(英国オックスフォード)で史跡の探索を始め,徒歩や自転車で遠方の遺跡を訪れました。その後,オックスフォード大学に進学し,休暇にはイギリスのみならず,フランスの城を訪れる為,自転車で何千キロも旅したことが下地となり,1909年には卒業論文の準備の為,中東(シリア,パレスチナ方面)で十字軍の築城技術を調べました。ベイルートを始点に,政治的に不穏な地域でマラリアに罹りながらも,36の城塞を徒歩で訪れる約1800キロの旅。ロレンスの粘り強さ,強靭な意志とストイックさが伝わってくる逸話です。

 

大学卒業後は考古学者として,大英博物館などの中東での発掘調査に加わり,アラビア語を習得し,アラビア文化や土地に精通したロレンスが,砂漠の反乱に参加(191618年)する準備ができていたことは言うまでもありません。

 

今の時代なら何の引け目を感じる必要はないものの,多感な十代の頃に私生児であることを知り,ロレンスにはどことなく近寄りがたいアウトサイダー的なところがありました。生意気で,無礼で,気まぐれで,勝手に行動して,厄介者と煙たがられる一方,その独立性・自主性(自分で判断を下して行動できること)や,威厳・カリスマ的統率力の適材適所を把握した上官もいました。ロレンスの短所とされていた点は,まさに長所でもあります。砂漠の反乱に単独で派遣され,多くの功績をあげることができたのは,この独立独歩のおかげでしょう。

 

第一次世界大戦中の英国の二枚舌外交(アラブ国家独立支援に矛盾する英仏間の秘密協定)および三枚舌(イスラエル建国支援の約束)は,今日の中東問題の発端となりました。英国のアラビア支援の顔であったロレンスが,ロレンス=英国(の多重外交)=裏切りと,一部の人に誤解されたのは残念なことです。しかしながら,アラブ民族の政治的な独立と自由は,ロレンスの夢であったことに違いありません。

 

デビッド・リーン監督は,映画「アラビアのロレンス」の冒頭・中盤・エンディングに,オートバイを登場させていますが,ロレンスのアイデンティティとオートバイ(の象徴性)を,巧みに結び付けていると思います。アウトサイダー,独立独歩,自由を求める心,若さ,そして孤独……。

 

映画の冒頭のシーンには,ブラフ社のオートバイを整備するロレンスが登場します。当時イギリスで一番速いとされていたバイクを製造していたブラフ社。創始者ジョージ・ブラフと出会ったのは1922年頃で,その後,ブラフ・シューペリアの最新モデルを計7台購入しました。ロレンスは,製品開発という大義名分のもと,速度テストのチャレンジまで買って出たそうで,スロットル全開で走るスリルが好きだったという逸話がいくつか残っています。いつまでも若く無謀なところがあったようです。

 

ロレンスの友人に宛てた手紙に,オートバイの楽しみは,英雄のイメージや名声から逃れて,大地やスピードと一体になれるところといったようなことが書かれてありましたが,あるがままに忘我の境地に達する一瞬であったのかもしれません。これは,番外編で採り上げた「禅とオートバイ修理技術」で語られている一瞬でもあり,ロレンスの人生の片鱗を映像におさめたデビッド・リーン監督の一瞬(永遠)でもあります。

 

それでは,「オートバイの登場するロード・ムービー」で今迄来た道を,振り返ってみましょう。

 

. イントロ: ロード・ムービーに登場する交通手段

. 「イージー・ライダー」(1969)

. 番外編「禅とオートバイ修理技術」

. 「アラビアのロレンス」(1962)

   a. イントロ: 映画公開当時(1962年頃)の時代背景

   b. 終わりは始まり: オートバイの登場するシーンについて

   c. 光と影: 第一次世界大戦における中東事情とロレンスの役割

   d. 薔薇の名は: ロレンスの名前にまつわる家庭の事情とアラビア

   e. 蜃気楼とガラスの靴: 中東における英国の多重外交の代償

   f. フジヤマ・ゲイシャ: ロレンスの中東における評価(文化的な解釈の難しさ)

   g. 割り切れないもの: デビッド・リーン監督の選んだテーマ

   h. ヤング・ロレンス:若かりし頃のロレンスと「アラビアのロレンス」のまとめ

 

次回から,オートバイの登場するロード・ムービー第三本目,「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004)について,お話しする予定です。

 

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ロード・ムービー第三十七夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  g. 割り切れないもの」

 

「アラビアのロレンス」の監督であるデビッド・リーン(英,19081991年)について,今夜はお話ししましょう。

 

まず思い付くのは,スケールの大きな映画を作った監督。「アラビアのロレンス」を含め,是非とも大きなスクリーンで観たい作品がいくつかあります。きめ細かい名人芸といった作風は,後に続く監督のお手本として,多大な影響を与えてきました。映画の師(マスター)といった感じがしますが,新しいアイデアも取り入れる柔軟性もあり,「アラビアのロレンス」には,当時話題になっていたヌーベルバーグの編集スタイルが導入されています。

 

スピルバーグ監督やスコセッシ監督の協力を得て,段々失われつつあった「アラビアのロレンス」は,完全版として蘇生(1988)しました。映画好きにとっては嬉しいことです。

 

完全版のDVDには,作製に携わった人々の回想や興味深い逸話(メーキング),そして地図などの資料も充実していますが,スピルバーグ監督が,いかにこの映画に影響されたかを語る8分間のインタビューは,映画ファン必見です。「アラビアのロレンス」を観て映画監督になることに決めたこと,アリゾナの砂漠のあたりで育った為,個人的な思い入れがあること,そして有名なマッチの火から灼熱の太陽へのシーンのトランジションなど映像の素晴らしさを,熱く語ってくれるのが印象的でした。

 

スピルバーグが監督になることを決心したのは,16歳の時だったそうですが,デビッド・リーンは,いくつかの職を転々とした後に映画界に入り,底辺からスタートしました。編集を経て監督を任されたのは30代半ば。また,同じく映画の師として崇められている14歳年上のジョン・フォード監督の約150本の作品や,9歳年上のヒッチコック監督の約70本の作品に比べて,作品数(30)は少なめですが,映画史に輝く作品を残してくれました。

 

最初の頃の映画は,劇作家ノエル・カワードのコンテンポラリーな作品を手がけ,続いてディケンズの「大いなる遺産」(1946)や「オリバー・ツイスト」(1948)と,質の高い文芸作品を創出しています。キャサリン・ヘプバーン主演の「旅情」(1955)では脚本も担当し,ノエル・カワード時代から,男女関係の機微をうがつ作品にチャレンジしています。

 

前回のブログは,異文化の設定は,どうしても「訳しきれないもの」があるといったような話しだったのですが,デビッド・リーン監督は,どうやら「割り切れないもの」に興味があったようです。男女関係,戦争,文化の衝突 ……。どれも視点によってうつろうもの。違いだけが突出すると,収支がつかなくなるという共通点があります。……息をのむようなシーンに,永遠という幻影を垣間見る。人間の強さ,そして弱さとは。刻一刻と変る世界をカメラに収めつつ,答えはあえて出さずに,観るものの判断に委ねる。そんな監督のスタンスが伝わります。

 

「旅情」は,婚期を逃したアメリカ人女性(ヘプバーン)が,ベニスに一人旅に出た物語で,リーン監督のロード・ムービーの原点とも言えます。当時の映画界は,それ迄のスタジオ作製から,積極的な海外でのロケが導入され始めていました。違った場所に身を置くことで,いつもとは違う体験をする「旅情」では,出会いと別れがテーマになっています。去っていく汽車に向かって,高く掲げられたクチナシの白い花のコサージュが印象に残っています。その後のロード・ムービーにも汽車が登場しました。

 

「旅情」の次の作品は「戦場にかける橋」(1957年)で,第二次世界大戦のビルマ国境で起きた物語です。戦争もの,日本軍の捕虜キャンプという設定は,日本人として観ると辛いものがあるかもしれませんが,運命を共にした人間の物語として,戦争の意味(もしくは無意味さ),極限状態に置かれた人間の尊厳とは,と考えさせられた作品でした。究極の巻き込まれ型ロード・ムービーとも言えます。巻き込まれ,巻き込み,巻き込まれていく……,まるで人生そのものです。

 

そして,「戦場にかける橋」の成功のおかげで,大作を作ることができるようになり,「アラビアのロレンス」が制作されました。「戦場にかける橋」は第二次世界大戦,そして「アラビアのロレンス」は第一次大戦を舞台に,どちらの映画も,当時あまり聞きなれなかった場所に,イギリス人が登場します。戦争に巻き込まれ,運命を受け入れることなく,運命に立ち向かった主人公たち。やがて,その運命に呑まれていく……。

 

男女の世界を描いていたリーン監督は,男だけの世界を前面に打ち出すことで,非日常的な設定の中,人間の限界を幾度となく試しています。どちらの作品もロケを重視し,ある意味,映画の製作クルー(直接的),および映画の観客(間接的)は,登場人物の運命を再体験する巡礼の旅に出るような感があります。事実「アラビアのロレンス」では,砂漠シーンの撮影に5ヶ月が費やされ,スタッフは平均7キロから9キロ痩せたといいます。

 

「アラビアのロレンス」では,当時ほとんど無名だったピーター・オトゥール(ロレンス)と,オマー・シャリフ(アリ)を起用していますが,二人の視覚的なイメージ(白と黒のコントラスト)は素晴らしく,ロレンスのみならず,影のように寄り添うオマー・シャリフが重要な役割を果たしています。「ロード・オブ・ザ・リング」(200120022003年,ピーター・ジャクソン監督)のサムは,フロドに献身的でしたが,アリも良き友でした。

 

「ロード……」も「ロレンス」も,原作の解釈の際,アクションおよび視覚的なイメージが重視されています。映画化にあたり,「ロード……」には,男女共同参画の時代を反映して女性が登場しますが,「ロレンス」の方は男性一色です。原則として,どちらの作品も男の浪漫であり,エピック的な大作と言えます。作製においては,両作品とも,職人気質で細部にわたる配慮がなされ,映画というメディアの特性を最大限に生かした作品だと思います。これからも長く語り継がれていくことでしょう。

 

「ロード……」のエンディングは,困難の末,チームワークで目標を達成しますが,「ロレンス」では,挫折感を味わうところで終わっています。歴史的にも未だに解決していない中東問題を背景にしているのは象徴的です。だからといって,旅(ロード)の過程が決して無駄だったというわけではありません。映画というものは,言葉(脚本)を映像化しているわけですが,作者の頭の中のイメージ,想像力の育てた世界を,視覚的に表現する際,幾通りにも解釈が可能なわけです。史実に基づいたものは,ヒントであると同時に,制限でもあります。

 

「アラビアのロレンス」では,ファイサル王子を演じたアレック・ギネスは,オマー・シャリフのアラビア語のアクセントのある英語を参考に役づくりをして,シャリフを驚かせたそうですが,多彩な役柄を演じることができる俳優でした。デビッド・リーン監督の作品の常連で,「オリバー・ツイスト」のフェイギン(悪役),「戦場にかける橋」のニコルソン大佐など,印象的な役をこなしています。もちろん,「スター・ウォーズ」(197719801983年)の元祖オビ=ワン・ケノービもアレック・ギネスでした。ルーカス監督も,リーン監督に影響を受けたといいます。

 

デビッド・リーン監督の異文化巻き込まれ型ロード・ムービーはその後も続き,「アラビアのロレンス」の次作は,「ドクトル・ジバゴ」(1965年)でした。ロシア革命を背景に,数奇な運命に巻き込まれた男女の関係,生きる(ジバゴの意味)ということ,詩人であり医師であるジバゴの人生が,広大なスケールで描かれています。パステルナークの自伝的な原作は,ノーベル賞を受賞(1958)したにもかかわらず,ソビエト体制の下,辞退を強制されるという無念な事態に陥り,実に1987年まで本国で出版されることのなかった長編小説です。オマー・シャリフが主人公を演じ,アレック・ギネスは異母兄弟を演じました。

 

そして,リーン監督の最後の作品「インドへの道」(1984)は,反英感情の高まるインドで,イギリス人の女性が文化の摩擦や誤解から生まれた事情に巻き込まれていき,困難な運命に人を巻き込んでいくといったロード・ムービーでした。デビッド・リーン監督は,最後まで「割り切れないもの」にチャレンジし,難しい素材の視覚化に長け,今でも多くの映画監督や映画ファンに影響を与え続けています。

 

「アラビアのロレンス」の映画化については,言葉だけではなく,視覚的に語れるところがいいと答えていました。百聞は一見にしかず。題材は割り切れないものを採用していますが,映像には躊躇がなく,大胆かつ緻密な判断が下されていることが伝わってきます。映像の能率のよさ,コミュニケーション力はパワフルだと実感します。デビッド・リーン監督の映画人生こそ,簡単には割り切れない未知の領域へのチャレンジという旅(ロード)だったのかもしれません。

 

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ロード・ムービー第三十七夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962)  f. フジヤマ・ゲイシャ」

 

本日,エジプトから来日している人に,「アラビアのロレンス」の感想を伺いました。今夜は雑談コーナーにしますね。

 

「あの映画のイメージで,今でもラクダに乗って,砂漠でテント暮らしと思われるのはちょっと……。」

 

「つまり,ステレオタイプ(紋切り型)だからイヤってこと?」

 

確かに,海外に出ると今でも「マダム・バタフライ a la フジヤマ・ゲイシャ」のイメージが根強く残っているので,なんとなくわかるような気がします。外国人の扮した蝶々夫人のあやしい白塗りが思い浮かびます。Un bel di, vedremo(「ある晴れた日に」)の感動的な歌唱と共に,視覚的なインパクトも強く,手っ取り早い日本のイメージとして,映画やテレビ番組に幾度となく登場します。

 

例えば,「007は二度死ぬ」(1966)のショーン・コネリー。日本人に変装しているという設定は,いくら007でも苦しい。舞台は,ちょっと懐かしい日本と,高度成長期(地下鉄など)の日本のブレンドです。(「チャーリーとチョコレート工場」の原作者ロアルド・ダールが,この映画の脚色を担当したと聞くと,もっと驚くかもしれませんね。)

 

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」(1972年)には,未来都市として,高度成長期の日本の首都高速が登場しますが,これまた,日本人として見ると不思議な感じがします。この映画の原作者スタニスラフ・レムは,映画は小説と全く違うと激怒したようですが,「アラビアのロレンス」の映画化権を売ったロレンスの弟も,映画のロレンスと兄は違うとクレームを付けたようです。何かと物議を醸し出している点では共通点があります。

 

そう言えば,「ブレードランナー」(1982年)は,近未来のロサンゼルスが舞台ですが,ゲイシャ・ガールっぽいのが出てきたし……。(リドリー・スコット監督は,その後1989年の「ブラック・レイン」を監督。) 他にも,日本が登場する映画を思い付きませんか。近年の流れは少し変り,アニメ,マンガ的な影響もありますね。「キル・ビル」(20032004),「ロスト・イン・トランスレーション」(2003),「ラスト・サムライ」(2003)なんて,どうでしょう。

 

ちなみに,プッチーニの「マダム・バタフライ」の舞台は,明治初期の長崎。初演(ミラノ)は1904年。J. L. ロング(アメリカ人)の小説をもとにしたオペラです。ロングは一度も日本を訪れたことがありませんが,大の親日家でした。日本に在住したロングの姉より聞いた実話をもとにしたお話しです。

 

伝統文化とステレオタイプ,理解と誤解は,時には紙一重であることもあり,文化を裏付ける意味のないスタイルだけが形骸化すると,なんだか気恥ずかしくて目も当てなれなかったり,がっかりしたり,場合によってはグロテスクでさえあります。映画や映像の影響力は大きいと感じます。

 

外国から見た日本のイメージは,「ちょっとヘン」,「明らかに間違っている」,「あやしい」から,「なかなか鋭い」,「一般の日本人より詳しい」まで多種多様。(「キル・ビル」は,文化の理解度に応じて別バージョンで対応。)

 

北野武監督の「BROTHER(2002)を観たアメリカ人映画友達の反応は,

 

「たけしさんは,監督として尊敬できるし,ユニークな創作活動をしていると思うけど,この映画に登場するアメリカ人は,めちゃ怪しいよ。ありえね~~~。逆に考えると,これが日本人の見たアメリカ人かな,なんて楽しんだけどね。」

 

映画「アラビアのロレンス」も,文化の外から見た場合と,アラビア文化の内側から見た場合とでは,かなり印象が違っているようですね。

 

「現代におけるエジプトでの生活は,日本とあまり変りませんよ。」

 

エキゾチックなイメージが先行して,違いだけが強調されるのは不本意のよう。

 

「でも,いろいろな意味での(西洋的もしくは日本的な)システムがないことは確かです。エジプトには,システムが必要だと思います。もう一つの問題は,盗人が多いこと。これはエジプトにとって,大きな問題だと思います。」

 

このことについて,いずれ詳しく聞いてみたいと思います。

 

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