コンペアー&コントラスト38

今週はいろいろあったので,ブログを更新しそこないました。今日はインターミッションにします。題して,「手提げ袋いっぱいの思い出」。

 

仲良くなったアメリカ人の青年が,思いつめた表情でやってきました。2時間後に帰国のお見送りをする約束していたのに。今頃になってどうしたのだろう。おもむろに重そうな手提げ袋を差し出しました。一瞬プレゼントでもくれるのかと思ったけれど,いやこれにはワケがある。

 

「どうしたの」と聞くと,「どこかでコインを紙幣に両替できないだろうか」と訊ねられ,銀行に同行することになりました。銀行で事情を説明すると,両替してくれることになりました。しかし,通帳がなければ,手数料がかかるとのこと。口座はある。通帳は持って来なかった。銀行のカードは持参している。ダメな場合は,私の通帳を使ってください。結局,事情が事情なので,手数料なしで引き受けてくれました。

 

しかし,待てども待てども,終わらない。とりあえず,日本滞在の思い出等を聞きます。15分経過。「あの~,暫くの間使っていなかったコインですよね~。」「ああ,やっぱり。」機械で読み取りができず,余儀なく中断の連続。待っている間に,日本に来て何が一番難しかったか訊ねます。今ではすっかり人気者の彼ですが,最初のうちは見知らぬ土地で,勝手がわからず,友達がいなかったのが,一番辛かったと言います。

 

そして,195cmの長身の彼は,頭を傾けるクセがすっかり板についていました。来日した翌朝,鴨居で思いっきり頭をぶつけて以来,天井の低そうなところを通る度に,本能的に身をかわすようになったそうです。また,アメリカではどこへ移動するのも車だったけれど,日本じゃ自転車でどこでも行くようになって楽しかったと言います。折り紙のようにキッチリ身を曲げて,長い手足をはみ出しながら自転車でスイスイ行く様子は,どことなくユーモラスでした。

 

30分経過。ポーカーフェイスの彼に,一抹の不安が。「ねぇ,この他にも帰国前にやらなくてはならないことあるの。」「そう,これだけね。」あ~~~よかった。内心ほっとして,「こんなところで,帰国直前に両替してるなんて,笑うしかないか」と,顔を見合わせました。……いつもの笑顔に戻っている。

 

45分経過。やっぱりヤバいよ~~~。「ねぇ。なんでこんなに沢山コインを持っているの~~~。」お釣りをすぐ失くすので,小銭は全て取っておいたと答えます。「お金持ちでいいな~~~」と言いつつ,そうだ,今日の飛行機の発着予定をチェックしておこう。調べている間に両替が終わりました。飛行機は定刻通り。「じゃぁ,また後でね」と,荷物を取りに戻ります。

 

本当に大丈夫なのかなぁと心配しつつ,急いでお見送りに行きました。山のような荷物の中に,四国八十八ヶ所で購入した白装束と笠がありました。笠をかぶり後姿で「さらば日本」と,記念撮影。そういえばアホな写真を何枚か撮ったよなぁと,思い出しつつ,なんだか寂しいけど,別れは苦手だけれど,手提げ袋一杯のコイン騒動のおかげで,しんみりしている暇がなくてよかった。

 

申し訳なさそうに身を折り曲げた彼の姿が見えなくなるまで,大勢の友人が手を振り続けました。

 

次回は,オートバイの旅に戻りましょう。気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト37

ロード・ムービー第三十二夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 「アラビアのロレンス」(1962) a. イントロ」

 

「アラビアのロレンス」は,約3時間半のエピックです。アメリカの荒野を舞台にした「イージー・ライダー」(1969)と,「禅とオートバイ修理技術」から,今度は中近東の砂漠地帯にひとっ飛びすることにしましょう。

 

1962年あたりに公開された長編映画は,インターミッションと呼ばれる幕間の休憩がありました。「アラビアのロレンス」のインターミッションは,灼熱の砂漠のシーンも手伝ってか,冷たい飲み物が飛ぶように売れたそうです。

 

この映画はイギリス映画ですが,北アフリカ,中近東,スペイン,そしてイギリスでロケ撮影されました。その頃アメリカ映画も,経費節減の為など,海外でのロケが頻繁に行われました。「ローマの休日」(1953年)や「ベン・ハー」(1959年)などがイタリアで作製され,一般にランナウェイ・フルム( 逃避行映画)と呼ばれました。「アラビアのロレンス」が公開された年には,アメリカ映画のうち約1/3が海外で作製されたそうです。

 

当時のアメリカにおける映画史を見てみますと,1961年に飛行機での映画上映が始まり,同年には,テレビでの映画劇場が始まりました。空の旅,TVで見る映画が一般家庭に浸透してきた時代でした。

 

 「アラビアのロレンス」と言えば,砂漠と駱駝が思い浮かびます。昨年の今頃,主人公ロレンスを演じたピーター・オトゥールが,映画の回想を語ったインタビュー見ました。砂漠で一日の撮影を終え,深夜に一人駱駝で砂漠に出たそうです。周りを見回すと上下左右感覚がなくなり,まるで星空の中に浮かんでいるようだったと瞳を輝かせます。その時に砂漠の凄さ,素晴らしさを感じたと続けました。

 

次回は,砂漠と駱駝の映画が,オートバイと,どのような係わりがあるのか見てみることにしましょう。気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

コンペアー&コントラスト36

ロード・ムービー第三十一夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 番外編  小説『禅とオートバイ修理技術』 クオリティ」

 

「禅とオートバイ修理技術」の旅を続けます。

 

この本には,いくつかの思い出があります。まずは,トロントの古本屋で見つけた一冊を,友人の間で廻し読みにしたこと。本の主人公が辿った道を,友人と一緒に旅したことがあること。そして,それぞれ個人的な読書体験を話し合ったことなどがあります。

 

このブログを書くにあたり,私の手元に残った一冊を,改めて手にとってみました。ページをめくると,アメリカの大草原と呼ばれる地帯から,南北のダコタ州への旅が鮮明に蘇り,自分達の旅と重なります。道と一体化するオートバイの旅。「ここは来た道」と,主人公であり,著者であるロバート M パーシグが語りかけます。そう,ここは来た道。

 

この本には,「価値の探求」と副題が付いていますが,寂寥とした道を走り続けると,いろいろな考えが浮かんでは消えていきます。アメリカのバックロードは,考え事をするのに最適な場だと実感します。パーシグは,過去の自分をパイドロスと呼び,以前自分が辿った道を、息子と友人夫婦と共に,再びオートバイで旅します。パイドロスが語り部として登場します。

 

本を読み進めますと,大学レベル(理学部)で教鞭を執っていた著者が,真実を探求するあまり知的破綻をきたしたことがわかります。しかしながら,この本の面白いところは,悲劇的な自己破壊・自己破滅が中心のテーマではなく,パーシグの回帰と帰還を記録したところにあると思います。

 

パーシグは,旅を通して自分を取り戻していくうち,過去の自分()と対峙しつつ,どう自己統合していくという課題に直面します。失われた記憶。そして自己と他者との関係が浮かび上がっていきます。

 

息子との稀薄な繋がり。息子のみならず,人間とのかかわりのなさ。息子は息子で,不登校・不適応などの問題を抱えていることがわかります。この本を読みつつ,父子関係,延いては人間関係の難しさは,時には絶望的でありつつも,何らかの希望も孕んでいるものだと感じました。

 

旅というプロセスは,過去を取り戻す作業のみならず,新しい関係を作り出すものでもあります。

 

作者は,禅,そして「無」になる(その瞬間に生きる)ことを通して,創造性・芸術(アート)の意味に開眼していきます。この本には,テクノロジーのもたらす疎外・孤立,西洋的概念における理性の限界など,自分で考えるキッカケになる題材が沢山ありました。いくつか興味深い論議がなされているのですが,著者が大学の課題として使ったクオリティ(質)に関する思索は,一読の価値があると思います。

 

今日におけるテクノロジーのプロセスや役割を考えるにあたり,テクノロジーと人間との関係,そしてメンテ(維持)するということは,どういう意味があるのでしょうか。そんなことを考えながら読んでみると,面白いかもしれません。

 

それでは最後に,本の主人公が辿った道を,友人と一緒に旅したことがあると書きましたので,そのことを少し。アメリカ大陸を東西に何度か縦断したのち,南北に旅することになりました。実はこれは偶然の成り行きでした。カナダの友人と,ノース・ダコタ州で待ち合わせすることになっていたのですが,アムトラック(アメリカの鉄道)のストで,鉄道の旅を断念し,83号線を北上することにしました。ちょうど今頃の時期でした。

 

メキシコからアメリカ,カナダへと続く83号線の旅は,テキサス州北部あたりから,麦の刈り入れが始まり,オクラホマ州からカンサス州あたりでは,大型コンバイン機のコンボイ(隊)が,何台も列を成して村から村に移動していました。見渡す限りの小麦の海。村をあげての刈り取り作業です。

 

近くの食堂で食事をしていると,コンバイン隊の家族連れがやってきました。大型コンバイン機購入にあたりローン返済の為,夏の間は稼ぎ時であり,繁忙期であります。メキシコ国境あたりからカナダ国境まで,麦を刈りながら北上するとのことでした。

 

翌日はあいにく雨が降りそうで,心配そうな農家の人々が,空模様を窺いつつ,刈り入れの準備を進めていました。心なしか麦の色が,小麦色から白っぽいブロンドになっています。これは,農家の人達から「ブロンディング」と呼ばれていて,忌み嫌われています。麦が熟れ過ぎ,その年の収穫(つまり収入)を逸する危険な徴候です。一刻を争う刈り入れに,村から村へと麦前線に合わせて北上するコンバイン隊が協力します。

 

巨大なコンバインが北上する光景は,季節の風物詩でもあります。その昔は国境を越えて,カナダの麦刈りもしたと話してくれました。アメリカ,カナダの穀物ベルトと呼ばれる地域の意味がよくわかりました。

  

アメリカ大陸の中央部を北上していると,麦のみならず,いろいろな農作物(トウモロコシ,大豆,綿など)の海を通り過ぎます。刈り入れ作業を手伝う季節労働者にも出会い,お話しを聞くことが出来ました。カンサス州のあたりでは,見渡す限りひまわり畑が続きます。養蜂家の皆さんも,花の前線に合わせて,北上するとのことでした。

 

ネブラスカ州に入ると,なだらかな丘陵地帯に草木がなびいています。その昔バッファローが駈けた地だったそうです。この辺は,「禅とオートバイ修理技術」の最初のあたりに描かれているプレーリー(大草原)の一部で,湿地帯があり,カナダからの渡り鳥を見る為,シーズンになると,野鳥愛好家が全米からやって来ます。

 

サウス・ダコタ州に入ると,まだ麦が青く,時間が逆戻りしたような衝撃を覚えました。ビッグ・スカイ・カントリー(大空の里)と呼ばれるモンタナ州にかけて,恐竜の骨が発掘され,野生化したムスタング(馬)が翔る地です。モンタナ州のボーズマンを通りつつ,このあたりの大学で,「禅とオートバイ修理技術」の作者が教えていたのだなと,ふと思い出しました。

 

アメリカ先住民の居留地区に隣接する地に,ムスタングを保護するサンクチュアリがありました。四駆で馬の群れを見つけ,様子を伺います。

 

湿った空気が流れ込み,何処からともなく積乱雲が現れ,猛烈なスピードで嵐を呼んでいます。静電気を帯びた風にムスタングのたてがみがなびき,静かに佇んでいた馬たちの瞳に緊張感がみなぎります。何かが起きる予感。誰かが「走り始めるよ」と,耳元で囁きます。

 

ためらいがちに始まり,そして段々ペースがあがり,群れが一つの流れになる。躍動する筋肉が砂埃に見え隠れし流線型を描く。遠ざかる地響きを聞きつつ,『クオリティを定義するのは難しいけれど,誰もが知っている』と,「禅とオートバイ修理技術」の一節がぼんやり浮かびました。クオリティとは何ぞや。「185ページあたりだったね」と,友人がフォローします。185ページの時が,私たちの旅と重ります。

 

全ての緊張感をときほぐすように降り始めた雨。洗われた景色は色の深みを増し,大地に静寂が戻りました。今しがた来た道を引き返し始めようと振り向くと,壁に先住民の残した象形文字を見つけます。ここは来た道。そう,ここは来た道。

 

次回は,オートバイの登場するロード・ムービーとして,「アラビアのロレンス」(1962)について,お話しする予定です。気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

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ロード・ムービー第三十夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. 番外編  『禅とオートバイ修理技術』 イントロ」

 

オートバイの登場するロード・ムービーをテーマに,このところブログを書いています。今回は番外編ということで,小説「禅とオートバイ修理技術」(初版1974年,原題 Zen and the Art of Motorcycle Maintenance) に軽く触れてみたいと思います。

 

「禅とオートバイ修理技術」は,オートバイでアメリカの荒野を旅する作者の内面の世界を描いたパーソナルな作品で,ロバート M パーシグの処女作です。作者曰く,オートバイ修理技術のマニュアルでなければ,禅の書でもありません。しかしながら,メインテナンス(維持)というコンセプトや禅(無の概念)が重要な鍵を握る作品です。

 

前回までお話しました「イージー・ライダー」が,ヨーロッパを意識したアメリカ映画であることに並行して,「禅とオートバイ修理技術」は,(西洋思想の限界という意味で)東洋を意識した作品です。共通点としては,オートバイが移動の手段であり,アメリカの大自然を舞台にした作品であると同時に,意識の上でアメリカの外(欧州や東洋)に目を向け,時代の流れを反映した作品といったところがあります。

 

「イージー・ライダー」の公開された1969年から,「禅とオートバイ修理技術」の出版された1974年にかけて,どんな時代の背景があったのでしょうか。今から約35年前のことです。まず思い付くのは,1969721日,アポロ11号の人類初の月面着陸です。ニール・アームストロング船長の第一声は,「これは一個の人間の小さな一歩かもしれませんが,人類にとって大きな飛躍であります」でした。

 

1969年の日本では,高度成長期のモーレツぶりを上手く茶化した石油会社のCM (TV) から,「オー,モーレツ!」が流行語でした。石油会社にモーレツにダッシュする車が,道脇の看板を通過すると,看板の女性のスカートが突風に舞いあがり,マリリン・モンローの「七年目の浮気」(1955)ばかりにパンチラといった15秒スポットでした。振り返ってみますと,一種ロードCMともいえます。

 

1970年には,大阪万博が開催されました。アポロ13号の事故・奇跡の生還もこの年の出来事でした。1971年には,日本にマクドナルドが上陸し,カップヌードルの発売開始。1972年には,札幌,ミュンヘンでオリンピックが開催され,連合赤軍のあさま山荘事件が起こり,グアム島で横井正一さんが発見され,「日本列島改造論」の発表,ウォーターゲート事件が発覚した年でした。

 

1973年には,オイルショック(第一次石油ショック)が起こり,物不足やデマから,トイレットペーパーや洗剤の買占めなどが社会現象になりました。中東の石油に依存してきた日本の経済を脅かしました。値上げが相次ぎ,加速的なインフレに対して,公定歩合が引き下げられ,1974年には戦後初のマイナス成長を記録し,高度経済成長に終止符を打ちました。

 

197311月末頃に「ノストラダムスの大予言」が,日本で初出版(翻訳)されベストセラーになり,1974年に来日したユリ・ゲラーの影響で,巷では超能力ブームが起きました。アメリカでは,冷戦のプレッシャー,ベトナム戦争(1960年~1975)への批判から,カウンター・カルチャー(主流でない文化)が注目され始め,東洋への関心も高まりました。またオイルショックの結果,燃費のよい日本製の小型車が注目され始めたのもその頃でした。

 

つまり1969年から1974年にかけての時代は,大きな転換期であったわけです。「禅とオートバイ修理技術」は,121回出版を断られた後,一人の編集者の目に留まり,1974年に出版された本です。当時のアメリカ社会や世界情勢に「何かがおかしい」と感じていた若者たちに受け入れられ,たちまちベストセラーになりました。

 

北米では一般に,いわゆる理系と呼ばれる人々,電子工学やコンピューター関係,および哲学や自己探究,そしてオートバイに関心のある若者の間で広く読まれてきました。次回はそんな「禅とオートバイ修理技術」の内容に少し触れてみることにしましょう。

 

気軽にコメントしていって下さいね。それでは,またお会いできるのを楽しみしています。

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ロード・ムービー第二十九夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. イージー・ライダー (f)音楽と文学と映画  キャプテン・アメリカ」

 

「イージー・ライダー」(1969)の旅を続けました。最終回ということで,音楽と文学との繋がりと,今迄のまとめをしてみようと思います。

 

「イージー・ライダー」の挿入歌は,当時の音楽を反映していて,選択もなかなか素晴らしいのですが,ステッペンウルフの「ワイルドでいこう」(Born to Be Wild)をバックに,コロラド川を縫いながら二人は旅に出ます。ステッペンウルフというロック・バンドの名前の由来は,ヘルマン・ヘッセ(18771962)の小説「荒野のおおかみ」(Der Steppenwolf)だそうです。

 

「荒野のおおかみ」(1927年)は,映画の公開当時,アメリカの若者の間で高く再評価された本でした。またヘッセの「シッダールタ」(1922)も,広く北米で読まれています。「知と愛」(1930)などを含めて,相反する(対照的な)ものの葛藤と統合,放浪(文字通り外に出る旅と内面の旅),自己を知るプロセスなどがテーマになっています。「荒野のおおかみ」は自伝的な作品と言われ,世の中からはみ出した孤独な主人公が,他者を通して今迄気付かなかった自分に出会うといった内面的な世界を描いています。

 

「イージー・ライダー」には,二人の主人公ビリー(デニス・ホッパー)と、ワイアット(ピーター・フォンダ)が登場します。粗野で協調性のないビリーは,危なっかしい。ある意味で,対外的なアメリカのイメージに近いものがあります。そして,多様なライフスタイル(違い)をポジティブに受け入れようとするワイアット。内なるアメリカを象徴しているような気がします。二人は同じコインの表裏。世界中から移民を受け入れ,新しい社会を築いたキャプテン・アメリカ。

 

ビリーとワイアットは,オートバイを修理する為に牧場に寄ります。モーテルで宿泊を拒否された苦い経験とは裏腹に,牧場主は二人を迎え入れ,家族の食事にまで招待します。アメリカのバックロードを走っていると,そのような善意に出合うことがあります。

 

牧場主「あんたたち,どこから来たんだい。」

 

ワイアット「LA。」

 

牧場主「エル・エー?」

 

ワイアット「ロサンゼルスさ。」

 

牧場主「ああ。……おいらも若い頃はカリフォルニアを目指したんだが。ここで落ち着いちまってな。」

 

と,牧場主は妻と子沢山のテーブルを一瞥します。家族ができ,自由を失った牧場主は,カリフォルニアへの夢を断念し,貧しい牧場を細々と続けていることがわかります。ワイアットは,「自給自活できることは素晴らしいですよ」と続け,食事に感謝しました。

 

荒野の道で,ヒッチハイカーを拾います。しかし,何処から来たのか答えません。オートバイは,モニュメント・バレーや,先住民の遺跡が残る荒野を走り続けます。ヒッピー・コミューンのリーダーであるヒッチハイカーは,二人を招待し暫し食住を共にします。そこには若者が集まり,自給自足を目指していますが,雨が降らず大地は荒れ果て,貧困な生活を強いられています。コミューンの種蒔に,ビリーは乱暴に「無駄だ」と言いますが,ワイアットは「きっと育ちますよ」と微笑みます。

 

そしてエンディングは,偏見と閉鎖性との対峙であっけなく終わります。

 

それでは,「イージー・ライダー」と来た道を振り返ってみましょう:

 

a) リアクション(ブログ5/4)

     1.反骨精神とカッコよさ <5/4

      2.自由とは? <6/187/3へ>

      3.ワケのわからん映画 <5/5,8,27へ>

(b)逆流: 西海岸から南部の町へ(5/5)

c)マルディグラ(5/8)

d)からくり: 見えざるストーリー(5/27)

e)ジョージの行間 その1 ACLU (6/18)

            その2 公民権 (7/3)

(f)音楽と文学と映画  キャプテン・アメリカ(7/5)

 

「イージー・ライダー」は,一見イメージが先行している映画のようですが,それだけではないようですね。イメージやマーケティングが先行する作品が大量に作られは消えていく中,ここまで語り継がれている理由はいろいろあるでしょうが、アメリカ映画だけれども、カンヌ映画祭(およびヨーロッパ)を意識した作品であるということ,そしてアメリカの広大なるロードを舞台にしたということ,時代の流れをつかんでいるということ,そして編集に一年かけた作品ということなどが大きな要因だと思います。

 

そしてこの映画の持つ象徴性。歴史の浅いアメリカ。若さ故の伝統にしばられない自由さ,そして伝統社会との軋轢は,この映画のテーマでもあり,オートバイの象徴するところと重なるものがあります。後に紹介する作品との共通点でもあります。

 

音楽や文学とのかかわりを見てみますと,ヨーロッパ中世の吟遊詩人やトゥルバドールは,ロード音楽と言っても差し支えないでしょう。ロード・ムービーの源流は,文学にも見られ,近世のドイツ文学の巨匠ヘッセやトーマス・マンなど,ロード文学ともいえるものがあります。次回は番外編として,自分を「荒野のおおかみ」に見立て,自分探しの回帰の旅にオートバイで出た主人公の小説「禅とオートバイ修理技術」に少し触れてみようと思います。

 

長い間「イージー・ライダー」の探求の旅に付き合ってくれて,ありがとうございました。気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。

 

注: キャプテン・アメリカ  1.ワイアットの皮ジャンに刻まれた言葉。2.マーベル・コミックス(アメリカのマンガ誌、主人公としてスーパー・ヒーローがよく登場する)のマンガのタイトル(1941年~)。3.私の住んでいたアメリカの街で深夜に放送されていた映画劇場(TV)の案内人の名。

コンペアー&コントラスト33

ロード・ムービー第二十八夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:

. イージー・ライダー (e)ジョージの行間 その2

 

「イージー・ライダー」(1969)の旅を続けます。ACLU(American Civil Liberties Union, アメリカ自由人権協会)の弁護士であるジョージ(ジャック・ニコルソン)の行間を埋めるという試みとして,またこの映画の背景として,アメリカ南部とのかかわりの強い公民権運動に触れてみたいと思います。

 

公民権運動は,米国憲法のおける公民権の保証・適用を求めるもので,1954年のブラウン判決を発端に,1960年代に非暴力を唱えたキング牧師を中心として,平等な社会づくりを希求したもので,人種のみならず,ジェンダー(男女共同参画),障害のある人などに対する理解,配慮が法的に進みました。

 

公民権もしくは市民権(civil rights)は,発端がローカルな(地域に根ざした)ものであるのに対して,人権はユニバーサル(人類共通)な普遍性に基づいたものです。日本では,現在ほぼ同義に用いられています。

 

人権とは,「人間が人間らしく生きる権利で,生まれながらに持つ権利」であり,「すべての人々が生命と自由を確保し,それぞれの幸福を追求する権利」です。前回も書きましたが,これは自分勝手をするということではなく,他人の権利(自由)を尊重するからこそ,自分の権利(自由)も守られるのです。

 

1994年の第49回国連総会にて,翌年(1995年)から10年間(2004年)までの10年間を,「人権教育のための国連10年」とする決議が採択され,日本でもこの10年間ほどの間,ジェンダー,こども,高齢者などの人権に関する法的な変化が見られますので,身近なトピックでもありますね。

 

さて,この映画では,1960年代のアメリカ社会の変化,公民権における過渡期の様子が描かれています。主人公ビリーとワイアットが,カリフォルニアからオートバイで旅を始めた直後に,「空室あり」の道沿いの安宿で,長髪(当時はベトナム戦争に行く兵士が髪を短く切られたことの対極)で,ヒッピー的な風貌の二人を一瞥するなり宿泊を断られたエピソードがありました。その後は,ほとんど野宿の旅になり,「二流モーテルにさえ泊めてもらえない」と,ビリーがぼやくシーンがあります。

 

それでは,アメリカ南部で,どのように差別が続いたのか見てみましょう。まずは,世界史で習った南北戦争(Civil War, 1861-65年)。経済的な背景としては,産業革命後,工業化の進む北部では賃金労働が主体となったのに対して,黒人奴隷の労働力に支えられていたプランテーション(綿や砂糖きび)農園を営む南部との利害関係の対立がありました。

 

炎天下の南部で,機械化されていない時代,綿の農作業は大変厳しいものだったと,農園で育ったお年寄りから伺いました。綿摘み体験をしましたが,綿を守る外皮の先が尖っていて,そのうち指先から血が滲みました。暑いし,痛いし,疲れるし,「こりゃ,やってられない」と思いました。辛い労働に耐える歌や口承文化が生まれ,ジャズやロック,ソウル、ブルースの源流となる音楽を生み出しました。

 

アメリカの奴隷の歴史を見てみますと,建国前の1600年代に始まりました。イギリスの植民地、フランス領のプランテーションへ、ポルトガルなどの商人が介在して,大量の奴隷がアフリカから送り込まれました。主に西アフリカより送られてきた黒人が,場合によってはカリブ諸島を経て,拉致状態でアメリカに連れてこられました。アメリカ建国時(1776)には、建国13州すべて奴隷制を認めていましたが,南北戦争の頃には,政治的,社会的,経済的な見解の違いが顕著になりました。

 

リンカーン大統領が,南北戦争中である18629月に予備宣言をして,翌年11日に奴隷解放宣言を行いました。1865年の憲法修正第13条により,法的にアメリカ合衆国の奴隷制度が廃止されました。この映画の作製も,公民権運動も,それから約100年後のことです。 一体どんな事情があったのでしょうか。

 

「分離平等政策(separate but equal)とジム・クロウ(Jim Crow)」

 

リンカーン大統領の奴隷解放宣言(1863)にて、奴隷廃止となるものの、当時は、インターネットも、電話,テレビ、ラジオも無い時代です。ニュースが全米に伝わるだけでも数年かかりました。今でも619日にジューンティーンス(Juneteenth)を,主に南部でお祝いしますが,奴隷解放宣言の知らせが,1865年の619日にやっと南部に届きました。

 

奴隷解放したものの、その反動は予想以上に大きく、分離平等政策を生み出し,人種差別待遇(segregation)が、主に南部で約100年間続きました。有色人種は、白人用のトイレや水飲み場を使えず、バスも後部の席しか座れませんでした。もちろん、白人用のレストランや、ホテルには立ち入り禁止でした。

 

レイ・チャールズやハリー・べラフォンテなど,公民権運動以前はホテルで演奏しても泊めてもらえなかったと回想していました。戦後オペラなどの音楽巡業した日本人の思い出話しを伺っても,北部から旅していた日系人の話しを聞いても,今では信じられませんが,1950年代の南部では「どうしよう」と悩んだそうです。そんな時代から,まだ50年くらいしか経っていないわけです。

 

奴隷解放宣言したものの,細々と小作人をやっているだけでは奴隷と変わらず,南部での経済的な自立が極めて困難でした。そんな折,憲法のザルを利用して,以下の3つの権利が州法で事実上剥奪されました。

 

1. 選挙権

2. 土地所有権

3. 教育を受ける権利

 

1950年代から1960年代の公民権運動の結果,これらの権利の剥奪が,連邦裁判所で違法とされ,事情が変っていきました。分離平等政策は,通称「ジム・クロウ」と呼ばれていました。(ジム・クロウは、白人が黒塗りにして、黒人のフリをした当時のお笑いショーのキャラクターでした。)

 

奴隷解放宣言後100年間,自由になったものの、おおっぴらな差別が続きました。それに拍車をかけたのは、KKKなどの排他的なグループで,無差別なリンチや、家屋や所持品を焼き払うテロ行為が黙認されていました。(この時代とその影響については,多くの映画が作製されています。)

 

「イージー・ライダー」の主人公二人は自由ではあるものの,二流のモーテルにも泊めてもらえず,ビリー(デニス・ホッパー)はジョージ(ジャック・ニコルソン)と,野宿しながら話します。

 

ビリー「僕らがバッチイ格好してるもんだから,みんなビビっているのさ。」

 

ジョージ「ビビっちゃいないよ。あんたたちが象徴するものが怖いのさ。」

 

ビリー「長髪だしな。」

 

ジョージ「あんたたちが自由を象徴するから。」

 

ビリー「なんで自由がいけないんだよ。それが肝心なんだぜ。」

 

ジョージ「全くその通り。肝心さ。でも自由について語ることと,自由であることとは別物なんだよ……。」

 

ジョージは不用心な言動の危険性をビリーに諭しますが,その夜三人はリンチにあいます。

 

ミシシッピ州で1964年に起きた公民権活動家3人の殺害事件で,80歳になるKKKのメンバーが首謀者として,有罪の判決を言い渡されたことが,つい先日621日のニュースで伝えられました。例え40年たっても,法的に区切りを付けようとする姿勢が窺えます。(事件は,1988年の映画「ミシシッピー・バーニング」に詳しい。)「イージー・ライダー」の登場人物は,公民権の活動をしていたわけではありませんが,ジョージの死の象徴するところと並行するものがあります。

 

ジョージと「イージー・ライダー」の主人公二人が,ニューメキシコの留置所を出所した時に,ジョージは二人にご自慢のオートバイを見せてくれとせがみます。ハーレーを見て興奮したジョージは,「D.H. ローレンスに乾杯」と,ぐっと酒を呑み干しました。

 

作家D.H. ローレンスは,1922年にニューメキシコを訪れ,先住民のプエブロ(土の家,世界遺産) の残るタオスがいたく気に入り,理想郷を作ろうとしたほどです。今では芸術家の集まる避暑地になっています。(「イージー・ライダー」では,プエブロがヒッピー・コミューンの付近に出てきます。)D.H. ローレンスはヨーロッパで亡くなりましたが,遺灰がローレンスの愛したニューメキシコに納められていますし,ローレンスもニューオリンズを訪れています。

 

ニューオリンズのマルディグラに行きたくても,実際にニューメキシコの州境を越えたことは一度もなかったジョージが,「イージー・ライダー」の主人公二人に付いていきたいと申し出ました。ニューメキシコといえば,UFOのメッカと言われているロズウェルがあり,ジョージはその夜,「Xファイル」顔負けのUFO談義をします。慣れ親しんだ町の安全さと窮屈さを後に,ジョージは旅に出ました。

 

次回は,「イージー・ライダー」の最終回です。気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。