ロード・ムービー第二十八夜。「オートバイの登場するロード・ムービー:
Ⅱ. イージー・ライダー (e)ジョージの行間 その2」
「イージー・ライダー」(1969年)の旅を続けます。ACLU(American Civil Liberties Union, アメリカ自由人権協会)の弁護士であるジョージ(ジャック・ニコルソン)の行間を埋めるという試みとして,またこの映画の背景として,アメリカ南部とのかかわりの強い公民権運動に触れてみたいと思います。
公民権運動は,米国憲法のおける公民権の保証・適用を求めるもので,1954年のブラウン判決を発端に,1960年代に非暴力を唱えたキング牧師を中心として,平等な社会づくりを希求したもので,人種のみならず,ジェンダー(男女共同参画),障害のある人などに対する理解,配慮が法的に進みました。
公民権もしくは市民権(civil rights)は,発端がローカルな(地域に根ざした)ものであるのに対して,人権はユニバーサル(人類共通)な普遍性に基づいたものです。日本では,現在ほぼ同義に用いられています。
人権とは,「人間が人間らしく生きる権利で,生まれながらに持つ権利」であり,「すべての人々が生命と自由を確保し,それぞれの幸福を追求する権利」です。前回も書きましたが,これは自分勝手をするということではなく,他人の権利(自由)を尊重するからこそ,自分の権利(自由)も守られるのです。
1994年の第49回国連総会にて,翌年(1995年)から10年間(2004年)までの10年間を,「人権教育のための国連10年」とする決議が採択され,日本でもこの10年間ほどの間,ジェンダー,こども,高齢者などの人権に関する法的な変化が見られますので,身近なトピックでもありますね。
さて,この映画では,1960年代のアメリカ社会の変化,公民権における過渡期の様子が描かれています。主人公ビリーとワイアットが,カリフォルニアからオートバイで旅を始めた直後に,「空室あり」の道沿いの安宿で,長髪(当時はベトナム戦争に行く兵士が髪を短く切られたことの対極)で,ヒッピー的な風貌の二人を一瞥するなり宿泊を断られたエピソードがありました。その後は,ほとんど野宿の旅になり,「二流モーテルにさえ泊めてもらえない」と,ビリーがぼやくシーンがあります。
それでは,アメリカ南部で,どのように差別が続いたのか見てみましょう。まずは,世界史で習った南北戦争(Civil War, 1861-65年)。経済的な背景としては,産業革命後,工業化の進む北部では賃金労働が主体となったのに対して,黒人奴隷の労働力に支えられていたプランテーション(綿や砂糖きび)農園を営む南部との利害関係の対立がありました。
炎天下の南部で,機械化されていない時代,綿の農作業は大変厳しいものだったと,農園で育ったお年寄りから伺いました。綿摘み体験をしましたが,綿を守る外皮の先が尖っていて,そのうち指先から血が滲みました。暑いし,痛いし,疲れるし,「こりゃ,やってられない」と思いました。辛い労働に耐える歌や口承文化が生まれ,ジャズやロック,ソウル、ブルースの源流となる音楽を生み出しました。
アメリカの奴隷の歴史を見てみますと,建国前の1600年代に始まりました。イギリスの植民地、フランス領のプランテーションへ、ポルトガルなどの商人が介在して,大量の奴隷がアフリカから送り込まれました。主に西アフリカより送られてきた黒人が,場合によってはカリブ諸島を経て,拉致状態でアメリカに連れてこられました。アメリカ建国時(1776年)には、建国13州すべて奴隷制を認めていましたが,南北戦争の頃には,政治的,社会的,経済的な見解の違いが顕著になりました。
リンカーン大統領が,南北戦争中である1862年9月に予備宣言をして,翌年1月1日に奴隷解放宣言を行いました。1865年の憲法修正第13条により,法的にアメリカ合衆国の奴隷制度が廃止されました。この映画の作製も,公民権運動も,それから約100年後のことです。 一体どんな事情があったのでしょうか。
「分離平等政策(separate but equal)とジム・クロウ(Jim Crow)」
リンカーン大統領の奴隷解放宣言(1863年)にて、奴隷廃止となるものの、当時は、インターネットも、電話,テレビ、ラジオも無い時代です。ニュースが全米に伝わるだけでも数年かかりました。今でも6月19日にジューンティーンス(Juneteenth)を,主に南部でお祝いしますが,奴隷解放宣言の知らせが,1865年の6月19日にやっと南部に届きました。
奴隷解放したものの、その反動は予想以上に大きく、分離平等政策を生み出し,人種差別待遇(segregation)が、主に南部で約100年間続きました。有色人種は、白人用のトイレや水飲み場を使えず、バスも後部の席しか座れませんでした。もちろん、白人用のレストランや、ホテルには立ち入り禁止でした。
レイ・チャールズやハリー・べラフォンテなど,公民権運動以前はホテルで演奏しても泊めてもらえなかったと回想していました。戦後オペラなどの音楽巡業した日本人の思い出話しを伺っても,北部から旅していた日系人の話しを聞いても,今では信じられませんが,1950年代の南部では「どうしよう」と悩んだそうです。そんな時代から,まだ50年くらいしか経っていないわけです。
奴隷解放宣言したものの,細々と小作人をやっているだけでは奴隷と変わらず,南部での経済的な自立が極めて困難でした。そんな折,憲法のザルを利用して,以下の3つの権利が州法で事実上剥奪されました。
1. 選挙権
2. 土地所有権
3. 教育を受ける権利
1950年代から1960年代の公民権運動の結果,これらの権利の剥奪が,連邦裁判所で違法とされ,事情が変っていきました。分離平等政策は,通称「ジム・クロウ」と呼ばれていました。(ジム・クロウは、白人が黒塗りにして、黒人のフリをした当時のお笑いショーのキャラクターでした。)
奴隷解放宣言後100年間,自由になったものの、おおっぴらな差別が続きました。それに拍車をかけたのは、KKKなどの排他的なグループで,無差別なリンチや、家屋や所持品を焼き払うテロ行為が黙認されていました。(この時代とその影響については,多くの映画が作製されています。)
「イージー・ライダー」の主人公二人は自由ではあるものの,二流のモーテルにも泊めてもらえず,ビリー(デニス・ホッパー)はジョージ(ジャック・ニコルソン)と,野宿しながら話します。
ビリー「僕らがバッチイ格好してるもんだから,みんなビビっているのさ。」
ジョージ「ビビっちゃいないよ。あんたたちが象徴するものが怖いのさ。」
ビリー「長髪だしな。」
ジョージ「あんたたちが自由を象徴するから。」
ビリー「なんで自由がいけないんだよ。それが肝心なんだぜ。」
ジョージ「全くその通り。肝心さ。でも自由について語ることと,自由であることとは別物なんだよ……。」
ジョージは不用心な言動の危険性をビリーに諭しますが,その夜三人はリンチにあいます。
ミシシッピ州で1964年に起きた公民権活動家3人の殺害事件で,80歳になるKKKのメンバーが首謀者として,有罪の判決を言い渡されたことが,つい先日6月21日のニュースで伝えられました。例え40年たっても,法的に区切りを付けようとする姿勢が窺えます。(事件は,1988年の映画「ミシシッピー・バーニング」に詳しい。)「イージー・ライダー」の登場人物は,公民権の活動をしていたわけではありませんが,ジョージの死の象徴するところと並行するものがあります。
ジョージと「イージー・ライダー」の主人公二人が,ニューメキシコの留置所を出所した時に,ジョージは二人にご自慢のオートバイを見せてくれとせがみます。ハーレーを見て興奮したジョージは,「D.H. ローレンスに乾杯」と,ぐっと酒を呑み干しました。
作家D.H. ローレンスは,1922年にニューメキシコを訪れ,先住民のプエブロ(土の家,世界遺産) の残るタオスがいたく気に入り,理想郷を作ろうとしたほどです。今では芸術家の集まる避暑地になっています。(「イージー・ライダー」では,プエブロがヒッピー・コミューンの付近に出てきます。)D.H. ローレンスはヨーロッパで亡くなりましたが,遺灰がローレンスの愛したニューメキシコに納められていますし,ローレンスもニューオリンズを訪れています。
ニューオリンズのマルディグラに行きたくても,実際にニューメキシコの州境を越えたことは一度もなかったジョージが,「イージー・ライダー」の主人公二人に付いていきたいと申し出ました。ニューメキシコといえば,UFOのメッカと言われているロズウェルがあり,ジョージはその夜,「Xファイル」顔負けのUFO談義をします。慣れ親しんだ町の安全さと窮屈さを後に,ジョージは旅に出ました。
次回は,「イージー・ライダー」の最終回です。気軽にコメントしていって下さいね。それでは、またお会いできるのを楽しみしています。